君に残す永遠

 斜め右上に振り抜いた刃を後ろに退いて避けようとしたのが彼の運の尽きだった。
 がれきの一つに、退いたかかとをぶつけて体勢を崩す。それでも体をのけぞらせて切っ先は避けられたものの、なお重心が後ろにいってしまう。わたしは追いかけるように前に踏み込んで、彼の残った足を払った。その足と手をついて倒れ込むのを防ごうとした彼の目論見は、それで完全に破れた。無様にもしりもちをつき、喉元に切っ先を突きつけられる。
 勝負は決した。
 わたしも彼も、息が乱れている。剣を交えていた時間はそれほど長くなかったが、彼を街中で見つけて追いかけ、行き止まりのこの廃墟に追い込むまで、お互いに走り続けていた。
「……今なら、まだ間に合う」
 彼から目を逸らさず、切っ先は喉元から決して離さず、わたしは言った。
「いいや。もうとっくに手遅れだ」
 喉元に剣を突き付けられているというのに、彼の口元には笑みすら浮かんでいた。悔しさに顔を歪め、歯ぎしりしそうになっているのはわたしの方だった。
「そんなことはない。まだ間に合う。わたしが、取りなす。すべての罪を免じることはできなくても、減ずることはできる」
 彼は笑みを浮かべたまま、わたしをじっと見ている。咎められているのはわたしの方のような居心地の悪さだった。
「罪を償ったら、騎士団に戻れ。そうすればまた共に戦える。わたしの騎士団だ。誰にも文句は言わせない」
「俺はもう騎士に戻るつもりはない」
「……それならばせめて、償いを」
 薄々感じてはいたが、彼自身から、騎士に戻らない、と聞かされるのは切なかった。かつてのように肩を並べて歩くことはもうないのか、と。でもせめて、騎士として肩を並べるのが無理ならば、人と人――友人として。
「断る」
 彼は表情を変えないまま、いっそすがすがしいほどきっぱりと言った。
「どうして……。このままでは、わたしはお前を――」
 わたしが何故彼を追っていたのか。追いつめたわたしが彼に対して何をしなければならないのか。知らないはずがないのに。
「俺はもう――俺たちはもう、戻れないんだ。分かっているだろう」
 彼の表情は変わらない。わたしをじっと見つめるまなざしも変わらない。昔と少しも変わっていなかった。
 そう、分かっている。変わったのはわたしであり、わたしたちの関係だ。
 時は容赦なく流れる。急流のようなそのなかで同じ場所にとどまっていられるほど、わたしたちの関係は確固たるものではなかった。踏みとどまりたかったけれど、流れや、わたしたちを取り巻くものすべてに逆らえるほどの力はなかった。
 わたしと彼は、同じ時期に従騎士となった。時に助け、時に助けられ、励まし合い、ぶつかり合い、やがて騎士に叙任されて、同じ騎士団に配属された。従騎士時代からの気心の知れた相手で、どちらも明確にな言葉にすることはなかったが、相思の仲だった。
 言葉にしなかったのは、照れくさかったからだ。それに、言わなくても分かっていると思っていたからだ。そう思いたかったからだ。
 彼もわたしも出自は貴族だが、家の格はだいぶ違う。彼の実家は慎ましい生活を送る下級貴族。一方のわたしの実家は、大邸宅を構え広大な所領を持つ王国有数の一族だ。思い合った相手だからと、わたしの勝手で伴侶を決めることはできない。一族のために、親の選んだ相手と一緒にならなければならなかった。
 彼に抱いていた気持ちは本物だ。いずれ親の決めた相手と結婚しなければならないとしても、わたしはいい加減な気持ちで、彼と向き合っていたわけではない。期限があるからこそ真剣だった。
 貴族なのだから、彼もそれは承知していると思っていた。
 だけどそれは、わたしの一方的な思い込みだったのだ。彼ではない男と結婚すると告げたとき、彼の顔から表情が消えた。どうして自分に何の相談もなく決めたのかと静かに問われ、初めて、彼も承知していると思っていたのは自分の思い込みにすぎないと知った。
 そして数日後、彼はわたしの前から消えた。家族にも、わたしにも、行き先も理由も告げずに消えたのだ。
 騎士をやめて姿をくらませた彼と再会したのは、つい最近のことだ。
 しばらく前から、巷をにぎわせる義賊がいた。わたしは最年少の騎士団団長になっていて、部下たちと共にその義賊を追っていた。神出鬼没の義賊の正体が彼だと知ったのは、わたしたちの追跡をかわして悠々と高い塀の上に逃げおおせた賊が、満月を背にして覆面を取ったときだ。
 夜で逆光だったから、顔はよく見えなかった。部下たちには、賊が何者なのか見当もつかなかっただろう。でも、わたしには分かった。あれは、彼だと。
「どうしてあのとき、顔をさらした……」
 義賊の正体など知らないままでいたかった。
「追ってきているのが、お前だと分かったからだ」
 知らないまま捕まえて、後は裁判官たちに引き渡してしまえば、こんなことにはならなかったのに。
「捕まるのなら、お前がいいと思った。どうせ長続きすることじゃなかったからな」
「だからわざと、街中で、わたしの目に付くように――」
 彼は答えなかったが、その表情を見れば答えは知れた。
 廃墟に追いつめたと思ったが、彼が自ら誘い込んだのだ。
 わたしは、わたしに課せられた役目を必ず果たす。相手が誰であろうとも、必ず。彼はそれを知っているから、わたしにわざと捕まったのだ。
「――すべては終わりだ。終わりにしてくれ、お前の手で」
 彼の視線が、初めてわたしから外れて、喉元の切っ先に向けられる。
「終わっていない。お前には裁きが待っている。それが終わって償いを終えた後だって、まだある」
「ないよ。俺にはもう何もない。お前が手に入らないと分かったときに、俺の人生は終わったも同然だった」
 視線が再びわたしに向く。終わったと言う男は、なのに満ち足りた眼をしていた。
「完全に終わらせてくれ、お前の手で」
「……いやだ」
 自分でも驚くほどか細く頼りない声だった。それでも、切っ先は少しも下がらず、彼の喉元から離れない。
「俺は王侯のところにさえ盗みに入った。お前の旦那の実家にもな」
 知っている。義賊の侵入を許したと知った夫はひどく憤慨し、早く捕まえろとわたしに怒鳴り散らした。
「お前の口利きがあっても、打ち首は免れないだろう。見ず知らずの奴に殺されるくらいなら、ここでお前の手に掛かりたい」
 彼がわずかに身を乗り出す。切っ先と肌が軽くぶつかった感触に、わたしが思わず身を退いた。
「逃げるなよ」
 彼の手が、刃をつかむ。
「……生け捕りにしろ、と言われている」
「抵抗されて仕方なく、と言えばいい」
 覚悟を決めた目だった。このままでは、自ら刃に突っ込んでいきそうだと思った。
 わたしがもっと早く、彼ではない男と結婚するのだと告げていれば、こんなことにはならなかっただろうか。それとも、彼と結婚したかった、という本心を伝えていれば良かったのだろうか。従騎士の頃から抱いていた気持ちを言葉にしていれば、何かが違っていただろうか。
 だが、すべては遅すぎる。彼の言う通り、もう戻れないのだ。
 彼を追いかける間に部下たちとははぐれてしまったが、いずれここにやって来るだろう。そうなれば彼は生きたまま捕らえられ、裁判にかけられる。
 わたしは柄を握り直した。彼の目に安堵の色が浮かぶ。
「――最期に言い残すことは」
「ない」
 彼はきっぱりと言った。思い残すことは何もないとばかりの口調だった。
 わたしは一歩下がった。剣を一旦退き、ゆっくりと振りかざす。息を吸い、短く強く吐き出すと、彼の左肩めがけて勢いよく振り下ろす。右の脇まで深く切り裂いた。
 瞬きをする間の出来事だった。
 その一瞬、振り上げた腕をわたしが動かした瞬間、彼の口も動いた。何かを言った。そう思ったときには、わたしはもう剣を振り抜いていた。
 彼が後ろ向きにどうっと倒れる。名前を呼んで、彼の顔をのぞき込んだ。また口が動く。さっきよりもずっと弱々しく、何を言っているのかは、やはり分からない。
「どうして……」
 言い残すことは何もないと言ったのに。
 わたしの顔を満足げに見る彼の目から光が消える。かすかに動いていた口が動きを止める。
 彼が最期に何を言ったのか。
 それを知ることは、永遠にできなくなってしまった。

〈了〉