割れた花瓶と植木鉢 後編

 もう二度と会えない、会うこともない。そう思っていたし、あの日までは、それは正しかった。
「丈! お前、藤代丈だろ!」
 突然声をかけられた丈は驚いて足を止めた。彼と腕を組んでいた大柴菜緒美も、必然的に立ち止まる。
 夜の繁華街は多くの人が行き交っている。そんな人の流れの中で立ち止まって手を振っているのは、黒い革のジャケットにジーンズ姿の、同年代の男だった。親しげな笑みを浮かべ、歩み寄ってくる。
「知り合い?」
 菜緒美が丈を見る。丈は男を見たまま、いいや、と言いかけた口を、その形のまま固まらせた。
「久しぶりだなあ。俺のこと、覚えてるか?」
「――丸子、くん」
 モデルでもしていそうな端整な顔立ちを見ても、とっさには思い出せなかった。だが、近づいてくる男の目を見て、すぐに分かった。
 整った顔立ちで彫りが深いものの、日本人にしか見えない。しかし目の色は青かった。
「やめろよ、くん付けなんてよそよそしい。呼び捨てでいいよ」
 カラーコンタクトではない。その青い目に、丈は確かに見覚えがあった。
 だが、丈が知っている丸子翔とはずいぶん印象が変わっている。あんな大声を出すことは知る限り一度もなかったし、下の名前で、しかも呼び捨てにされたこともなかった。満面の笑みも見たことがない。丈が最後に見た丸子翔の笑みは、植木鉢を割った後の、あの意味深な微笑だった。
「あれ? もしかして彼女? それとも奥さん?」
 いまは人好きのする笑みを、丈と腕を組む菜緒美に向ける。菜緒美は突然のことに驚いた顔をしていたが、丸子翔の愛想のいい笑みと口調につられ、笑みを浮かべた。
「結婚はまだなの」
「そうなんだ。あ、俺は丸子翔。よろしくね」
「大柴菜緒美です」
「デートの邪魔しちゃったかな? ごめんね菜緒美ちゃん」
 と、丸子翔は、丈の恋人をいきなり下の名前で呼んだ。昔とのあまりの違いに、不快に感じることも忘れてしまう。
「急に呼び止めて悪かったな、丈。久しぶりに見かけて、びっくりしてさ」
「いや……ぼくも、びっくりしたよ。まさか、こんなところで会うとは思わなかった」
 丈は地元から離れた都市部の大学に進学し、そのままそこで就職した。丸子翔がどこへ転校していったか分からないが、仮に同じ都会だったとしても、そこで偶然再会する確率は相当低いだろう。
 驚くばかりの丈は、まるで十年来の友人にでも会ったかのように親しげな丸子翔に言われるがまま、携帯電話の番号とメールアドレスを交換した。丸子翔はいまだにガラパゴス携帯で、メールアプリも使っていないらしい。
「フリーターだからあんまり金なくてさ。ここの近くの居酒屋でバイトしてるんだよ。今度来てくれよな」
 丸子翔が働いているという居酒屋はチェーン店で、この近くにあるのは知っていたが、入ったことはなかった。
「へえ、じゃあ今度行ってみようか、丈」
「あ、ああ」
 菜緒美に腕を引かれ、丈は反射的に返事をした。どうせ社交辞令で、行くことなんてないだろう。
 居酒屋の話をしていた時、丸子翔は無精ひげのある顎を左手でなでていた。癖なのだろうか。昔、彼にそんな癖があっただろうか。しかし、そんなことよりも丈の目を引きつけたのは、丸子翔の左手の甲にある、古い傷痕だった。
 またな、と軽くその手を挙げ、丸子翔は雑踏に紛れていった。始終笑みを絶やさなかった。
「ねえ、丈。あの丸子くんて、カラコンしてるの? 目、青かったよね」
 菜緒美が興味津々という顔で丈を見る。目の前で顔をつきあわせて話していたのだ。菜緒美にも、彼の目の色がはっきりと見えたようだ。
「いや、コンタクトじゃないよ。……あいつ、ぱっと見じゃ分からないけど、ハーフなんだ」
「えー、そうなの? 全然そんなふうに見えなかった。あの目が自前って、すごいねー。きれいな色だったし」
 菜緒美が声を高くする。いまになってようやく、丈の中で不快な気持ちが鎌首をもたげてきた。丸子翔が断りもせず当たり前のように菜緒美を下の名前で呼んだことも、菜緒美が丸子翔のことでにわかに興奮気味なことも、気に入らない。
 丸子翔は、小学生の時でも端整な顔立ちで、女子たちの人気を集めていた。大人になり、ますます整った容貌となった丸子翔は、昔以上に女性の視線を集めているに違いない。菜緒美も、しっかりと彼の顔を見ていた。
 再び歩き出しても、しばらくは丸子翔の話題だった。
「丈にあんなイケメンな友達がいるなんて知らなかったわよ。彼、絶対もてるよね。居酒屋のバイトとか、なんかもったいない」
 無邪気に言う菜緒美に、丈は曖昧な言葉しか返せなかった。
 テレビを見ながら、どの芸能人が格好いいとか美人だとか話すことはある。菜緒美はその延長で言っているだけだ。あくまで丈の友人の話をしているにすぎない。
 丈は自分にそう言い聞かせてはいた。だが、画面の向こうではなく目の前にいきなり丸子翔のような男が現れ、彼女がどういう形であれその存在に関心を示し話題にしているのだ。浮き足立った心は簡単には落ち着かなかった。
 別に、丸子翔と再会して、彼が昔より更に格好良くなっていたからと言って、何かが起きるわけではない。さっき会ったのだって、恐ろしいほど低い確率でしか起きない偶然だったのだ。今日はたまたまここに来ているが、いつもは別のところでデートすることの方が多い。同じ都市に住んで働いていても、もう一度再会するのは稀だろう。そのはずだ。
 もしも丸子翔ともう一度会えたら、ちゃんと謝りたい。かつてはそう思ったこともある。だが、小さかったはずの棘は、再会したことで一気に大きな棘となった。罪悪感で心に突き刺さっているのではなく、丈を落ち着かなくさせる不気味さで、食い込んでくる。しかし、もう会わなければ、棘がこれ以上大きく成長することはない。
 二度と会わないだろうと思っていた丸子翔との二度目の再会は、思いの外早く実現した。
 マンションに帰宅した夜の九時過ぎ、丸子翔から電話がかかってきたのだ。時間があるなら、一緒に夕飯を食べないか、と。再会してから十日ほどたっていた。
 電話しながら、丈は横目で菜緒美を見た。元々は丈が一人で住んでいたマンションだが、交際を始めてから菜緒美とほぼ同棲している状態である。今日も、先に帰宅した彼女が夕食を作って待っていた。だから今日はだめだと断ると、じゃあいつがいいかと都合を聞かれた。断る理由が思いつかなくて、丈は丸子翔と約束を交わすこととなった。
 いったいどういう顔をして、何の話をすればいいのだろう。そんな不安を抱えながら待ち合わせ場所に行くと、丸子翔はもういた。そこに立っているだけでも絵になる青年は、丈の姿を見つけると、この前のように笑みを浮かべて手を大きく振った。
 駅前のバルでワインを飲みながら他愛もない話をするうち、酔いも手伝ってか、丈の不安や警戒心は少しずつほぐれていった。
 丸子翔は、見た目こそ変わらない(更に男前になっているものの)が、性格は本当に昔とは別人のようだった。注文の品を持ってくるウェイトレスに爽やかな笑みでありがとうと言って、頬を赤らめさせる。口べたな丈の話を根気よく聞いて、適度な相づちを打つ。一つのきっかけがあれば、そこからどんどん話を広げていく。同級生だった短い間の話題になっても、丈からはあの一件に触れることはなかったし、丸子翔も触れようとはしなかった。それどころか、急に転校になって驚いただろう、ごめんな、と丈が謝られた。
 再会した時、丸子翔の言動から感じた不安や苛立ちはすっかり氷解して、二軒目の店でも大いに盛り上がった末、丈のマンションへ行こうということになったのだった。
「同居人がいるけど、大丈夫か?」
「もしかして菜緒美ちゃん? 結婚はまだでも同棲はしてるのか。丈は昔は奥手だったのに、やるねえ」
 にやけた顔でからかう丸子翔に、いい年をして丈は照れ笑いを浮かべた。
 メールで、菜緒美には丸子翔を連れて行くと連絡してある。遅い時間だから先に寝るけどごゆっくり、という返事が返ってきた。少なくとも、丸子翔と菜緒美が鉢合わせすることはないわけで、丈はかすかにほっとした。
 だが、間違いだったのだ。丸子翔を、丈のマンションへ連れて行ったことが。
 丈がそれに気づいたのは、丸子翔と再会して三ヶ月ほどたった頃だった。
 休日出勤を終えて丈が帰宅すると、丸子翔がいた。遊びに来たが、丈がまだ帰っていなかったから、上がって待っていたのだ。当然部屋には菜緒美がいて、彼を部屋に上げたのは、彼女だ。
「だって、せっかくお友達が来てくれたんだし、丈はすぐに帰ってくると思ったから」
 この時、菜緒美と丸子翔は既に何度も顔を合わせていた。彼がバイトをしている居酒屋に菜緒美と二人で行ったこともあれば、三人で飲みに行ったこともあった。丈と丸子翔が二人で飲んだ後、家で飲み直したこともあった。丸子翔は昔と違って社交的で話もうまいから、菜緒美ともすぐに打ち解けたようだ。
 だが、だからと言って、恋人以外の男と部屋に二人きりという状況はいかがなものか。常識的に、丸子翔も遠慮すべきだったのではないか。
「妬いてるの、もしかして」
「心配してるんだよ」
 知っている相手とはいえ、警戒心の薄い菜緒美が。遠慮もせずに部屋に上がり込む丸子翔が。
「何言ってるの、大丈夫よ。翔くんて紳士だし」
 杞憂であればいい。だが一度許してしまえば、同じことは何度でも起きる。
 丈の不在時に訪ねてきた丸子翔は、たびたび、菜緒美しかいない部屋に上がり込むようになったのだ。丸子翔が帰った後、丈は必ず、何もなかったかと確認する。初めのうちは、笑って何もあるわけないと言っていた菜緒美が、いつからか、何を疑っているのかと嫌な顔をするようになっていた。
 菜緒美と交際を始めてそろそろ三年。結婚を真剣に考え始めていた丈は、残業必至の皆が嫌がる仕事を進んで引き受け、休日出勤もこなし、密かに資金を貯めていた。最近では平日の帰宅は十時を過ぎることも多く、休みの日も仕事に行って、なかなか菜緒美とデートできていない。
 それでも、同じ部屋で暮らしているから毎日顔は合わせていたし、夜の方も前より頻度は少なくなったものの全然ないというわけではなかったから、自分たちの関係は大丈夫だと思っていた。たとえ、相変わらず丸子翔が丈の留守中に上がり込み、いまでは菜緒美の手料理を食べるようになっていたとしても、大丈夫だと思っていた。
 その日、丈は久しぶりに仕事が早く終わった。八時過ぎの帰宅に驚く奈緒美の様子を想像しながら、自室の鍵を開ける。
「ただいま」
 広い部屋ではないから、鍵を開ける音は部屋の奥にいても聞こえるはずだ。先に寝ていない限り、菜緒美は出迎えてくれる。最近は時々になってしまっているが。
 いつもよりだいぶ早いこの時間なら、驚いて玄関にやって来るだろうと思っていたのに、足音もしない。トイレか風呂だろうか。
 靴を脱ごうとして気がついた。見慣れた、しかし丈のものではない男物の靴があることに。
 丸子翔が来ている。
 急に、鼓動が速く大きくなる。丈は靴を脱ぎ、足早に短い廊下を通って、寝室に使っている部屋のドアを開けた。小さな悲鳴があがる。
「お帰り、丈。今日はずいぶん早いじゃないか」
 狭い室内の大部分を占領するのはセミダブルのベッドだ。その傍らに、丸子翔が立っていた。上半身は裸で、悪びれた顔一つせず、ズボンをはいている最中だった。
 そして、ベッドの中には奈緒美がいた。上掛けを引き上げて胸元を隠している。剥き出しの肩を隠すように、ほつれた長い髪がいくつもの筋をつくっていた。
 上掛けの上には、脱ぎ捨てられた二人の服。その中から、丸子翔は自分のシャツをつまみ上げ、着込んでいく。一方の菜緒美は、丈から目をそらして、小さく何か言っているようだった。顔面蒼白で、目元には涙がにじんでいる。
「用が済んだから、俺は帰るよ」
 服をすべて着て靴下もはいた丸子翔は、当たり前のようにそう言った。
 彼が丈の横を通り過ぎ、ドアノブに手をかけたところでようやく、停止していた丈の頭が動き出す。
「丸子……お前、何してたんだ!」
「何って、見れば分かるだろ」
 振り返りもしない丸子翔は、面倒くさそうな声で答え、さっさと部屋を出てしまった。
 丈は一度、菜緒美を振り返る。一瞬だけ彼女と目が合った。菜緒美はすぐに目をそらし、更に上掛けを引き上げる。
 玄関のドアが開く音が聞こえ、丈は走って丸子翔を追いかけた。菜緒美と話すのは後でいい。
「待てよ、丸子」
 目の前で丸子翔が出て行くのが見えた。丈は靴も履かず、玄関を飛び出す。
「なんだ?」
 意外にも丸子翔は立ち止まった。重い扉が、丈の背後で閉まる。
「なんだ、じゃないだろ!?」
 丸子翔はやはり一片の悪気もない顔をしていた。
 頭に血が上るのが自分でも分かる。思わず丸子翔の胸ぐらをつかんでいた。これまでの人生で、丈が誰かにそんな乱暴なことをしたことは一度もない。
「お前、人の彼女と――」
「ヤってたんだよ。お前がいきなり帰ってくるから、一回しかヤれなかったけどな」
 いけしゃあしゃあと言う端整な顔に、丈は右の拳を叩きつけた。だが、あっさりと避けられ、拳はむなしく宙を殴る。次の攻撃を防ごうとしてか、丸子翔に、その手首をつかまれてしまった。
「別に、今日が初めてじゃないからいいけど」
「いつから――」
 丈はいまにも噛みつきそうな顔をしているのが自分でも分かった。だが、丸子翔は相変わらず涼しい顔で、自分がしたことを悪いと、欠片ほども思っていないように見えた。
「一、二ヶ月前かな。菜緒美が寂しそうにしてたから、お前の代わりに慰めてたんだよ」
「気安く呼び捨てにするな!」
 マンションの廊下は音がよく響く。隣近所の人にこんな話を聞かれたくないから、丈は強い口調ながら潜めた声だった。こんな状況でも冷静にそう判断する自分を、どこかで疎ましく感じた。
「お前が構ってくれないって、菜緒美はいつも言ってたぜ」
 だが、丸子翔はふつうの声量だった。扉越しでなら、話をしているのは分かっても内容までは分からないだろうが。
「そこにつけ込んだんだな!?」
「人聞きの悪い。俺はつけ込んだつもりはないよ。菜緒美は前から、お前とこのまま結婚していいか迷ってたって言うし」
「お前が現れて、ちょっかい出したからだろう」
「俺が現れる前かららしいぜ、丈。迷いがあるまま結婚していいか悩んでて、最近じゃお前とゆっくり話をする時間もなくて、いっそ別れようかとすら言ってたんだ。良かったじゃないか、別れる口実ができて」
「別れる……?」
 丸子翔が、丈の手首を強くつかむ。
「別れた方がいいこともあるから、お前らにとって良かったじゃないか」
「いいわけ、あるか! ぼくは、菜緒美を幸せにしたかったんだ。そのために頑張って働いてたのに、それを、お前が、お前のせいで――!」
「そうだよなあ。俺のせいだよなあ。お前たちが別れてしまうのって」
 青い目が冷たく瞬く。口元には、笑みを浮かべてさえいた。どこかで見たことのある、歪んだ笑みだった。
「丸子、お前少しは悪いとか思わないのか!」
 つかまれる手首が痛い。だが、それを丸子翔に悟られたくはなくて、平気なふりをしていた。
「良かったじゃないか、別れるのが俺のせいで」
 丸子翔が、自分の胸ぐらをつかむ丈の左手を握った。右手首のようにつかむのではなく、手の甲を覆うように。
「お前のせいでもなく、菜緒美のせいでもなく、俺のせいで、良かったじゃないか」
「――え」
「仕事が忙しいから菜緒美に構えなくて悪いと思ってるけど、俺のせいにした方が、お前にとってはいいんだろ、丈。ガキの頃みたいにさ」
 ガキの頃――いつのことを指しているのか、すぐに分かった。
 投げたボール。割れた花瓶。詰問する教師。たたき割られた植木鉢と、左手からしたたる赤い血。
「あれは、相沢が、投げろと言うから……」
「相沢の言うことに逆らったらまずいと思ったから、俺のせいにしたんだよな、丈」
 丈の左手の骨が軋む。
「だから、してやったんだよ。お前が望むように。教師の前で植木鉢を割れば、花瓶を割ったのもやっぱり俺だと思うもんな」
「ぼくは、望んでなんか……」
「いいや、望んでたよ、あの時もいまも。俺のせいにすれば、自分は傷つかなくてすむからな」
 丸子翔の青い目は、もはや笑っていなかった。瞳の奥で燃えているのは、暗い炎だ。憤りの、青い炎だ。この場で怒るのは丈のはずなのに、さっきまであった激しい感情は、いつの間にかなりを潜めていた。
「あの頃の俺は、信じられないだろうけど本当に人見知りだったんだ。お前が、下の名前が似てると言った時、他愛もないことだけど、俺は嬉しかったんだぜ」
 丈も、それを覚えている。あの時の丸子翔の笑みはとても大人びていたから、まさか彼がそう思っていたとは、信じられなかった。
「あのクラスで、友達と呼べるのはお前だけだった。だから、相沢が花瓶を割ったのは俺だと言い出した時、お前はきっとかばってくれると思ったんだ。本当はボールを投げたのは自分で、相沢に命令されて仕方なくやったんだってな」
「あれは……ぼくが、悪かっ――」
「今更だよ、丈」
 丈はうめき声を漏らした。丸子翔が、丈の左手の甲に爪を突き立てたのだ。食い込むほど、強く。
「俺が転校するまでに謝る機会なんていくらでもあっただろう。謝るなよ、今更」
 丸子翔の爪は深く突き刺さり、うっすら血がにじみ出していた。
「これが、お前の復讐なのか……?」
 下手なことを言って彼を刺激したら、それこそ首を絞められるのではないかという恐怖があった。
 だが、聞かずにはいられなかった。丈は、ずっとあの時のことに対する罪悪感を持っていた。謝らなかったことも、彼をかばわなかったことも悪かったと思ってきた。その仕返しが、恋人の寝取られなど、あまりにも釣り合わないではないか。
「復讐じゃあない。あの時と同じようにしてやっただけさ、俺は」
 丸子翔は口元を歪め、言った。
「丈は俺の友達だから、お前の望みを叶えてやったんだよ」
 丈の両手は解放されたが、殴り返そうという気力はどこにも残っていなかった。
 左手の甲がじくじくと痛む。
 立ち去る丸子翔を、丈はただ呆然と見ているしかなかった。

〈了〉