教えてあげる

 毎朝起きてお化粧して、会社に行って仕事して、他愛ないおしゃべりをしながらランチして、上司の小言を聞き流して残業して、たまにつまらない飲み会に行って家に帰って寝て、朝起きてお化粧して……。
 波瀾万丈にはほど遠い生活、平凡な人生。幸せではないけれど不幸と言う程でもない。それでも生きがいと呼べるほどのものが何もなくて、なんだか生きるのが面倒くさくなって、いっそ儚くなってしまってもいいかも、なんてぼんやり思いながら、でも自殺するほどの勇気はなくて。かと言って、死にたくないと思えるほどの執着もない。苦しまずに逝ける方法があれば、なんとなく手を伸ばして試してみるだろう。
 そんな折り、苦しまずに逝ける方法を教えてあげよう、という男が現れた。

 知っているのなら、ぜひ教えて。
 いいとも。でも、ただでは教えてあげられない。ぼくの恋人になってくれたら、教えてあげてもいいよ。

 そうして彼女は、男の恋人になった。
 男は、彼女を海へ連れて行った。きれいな海だった。こんなところで死ねたら素敵かもしれない。だけど男は、その方法を教えてくれなかった。
 ある時、男は彼女を川へ連れて行った。川と言っても、その源に近い山の奥。せせらぎのような川の水は果てしなく澄んでいた。新緑のまぶしい季節で、風が渡る中、小鳥がさえずっていた。こんなところで死ねたら素敵かもしれない。だけど男は、その方法を教えてくれなかった。
 またある時、男は彼女を高い高い吊り橋へ連れて行った。はるか遠くの山まで、まるで燃えているような紅葉に彩られていた。目がくらむほどの高さから美しい景色を見ながら死ぬのも素敵かもしれない。だけど男は、その方法を教えてくれなかった。

 いったいいつになったら教えてくれるの。
 そうだね、ぼくと結婚してくれたら、教えてあげてもいいよ。

 そうして彼女は、白いドレスに包まれた。
 男と二人で出かけた異国の地。彼女を知る者は誰もいないこの土地で、ひっそり終わるのも悪くないかもしれない。だけど男は、その方法を教えてくれなかった。
 やがて彼女と男の間に、小さな小さな命が生まれた。しばらくの間、彼女と男の日常は、新しい存在に支配され、左右された。やっと手のかかる時が終わったかと思うと、また次の命が生まれた。再びしばらくの間、彼女と男の日常は、新しい存在に支配され、左右された。
 多少は二人の手を離れ、自分たちの時間を持てるようになっても、男は教えてくれなかった。この頃には、彼女も、男がそう簡単には教えてくれなさそうだとわかっていた。だから、のんびりと、教えてくれる時を待とうと思った。
 彼女は、節目節目で、いつになったら教えてくれるの、と男に聞いた。そのたびに、男は律儀に答えた。

 入園式が終わったら、教えてあげてもいいよ。
 入学式が終わったら、教えてあげてもいいよ。
 運動会が終わったら、教えてあげてもいいよ。
 卒業式が終わったら、教えてあげてもいいよ。
 成人式が終わったら、教えてあげてもいいよ。
 結婚式が終わったら、教えてあげてもいいよ。
 
 気がつけば、二人の間に生まれた新しい存在は、彼女と男が出会った歳よりも成長していた。さらに新しい命まで生まれていて、もうすぐまた新しく増えそうだった。
 その頃には、彼女は男に、いつになったら教えてくれるの、と聞かなくなっていた。
 更に生まれた新しい存在たちが成人式を終えた頃、男が病を得た。床に伏せ、日々やせ細っていく。
 
 君に言わなければならないことがある。

 桜の蕾が膨らみ始めた頃、窓から見える立派な桜の木を眺めながら、男が言った。

 君がずっと、知りたいと思っていた方法だよ。
 もう教えてもらったわ。あなたと出会ってから今日までずっと、ゆっくりと、少しずつ。

 桜が満開を迎える前に、男は旅立った。
 男を見送り、それを追いかけるように彼女も。
 男が教えてくれた通り、苦しまず、穏やかに。

〈了〉