誰も知らない物語

 ここに一冊の本がある。本、というよりは厚さ的にノートかな。表紙も単なる厚紙だしね。
 めくってみよう。白紙だね。正確に言えば、罫線はあるけど、まだなにも書かれていない。
 やっぱりノートのように見えるね。これに名前を書かれた人は死ぬ、的なノートではないよ。
 これはノートのように見えるけど、ノートじゃない。これから成長していく本なんだよ。
 ここに、これから記されるのは、ある一人の女の人生だ。女の身の上に起きることが多ければ多いほど、長く生きれば生きるほど、本のページは増えて表紙の厚みは増していく。女のその時々の感情に合わせて書体や色、ページの色も変わったりする。眺めているとなかなかおもしろいものだよ。最終的に、表紙の色も変わってくる。
 そう、この部屋の書架に収められている本はすべて、誰かの人生が書き留められた本だ。実に色とりどり、厚さも様々だね。
 そして、わたしはここの司書。本の整理や保管、管理をするのが仕事だ。新しい本は、いつの間にかこの机の上にぽんと置かれている。そのときはまだ、この通りなにも書かれていないから、管理のしようもない。表紙にタイトルとなる人物の名前が浮かび上がるまでは、わたしの机の引き出しで保管しているんだよ。
 でも、この本もいよいよ書架に収めるときがきたね。タイトルは――君の名前だ。

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 誰も知らない物語。
 一日中カーテンの閉ざされた部屋にある本のタイトルだ。
 うちにある本はこれだけで、ほかに読むものがないから、何度も繰り返し読んでいて、一字一句覚えてしまった。
 ここではない、どこか不思議な場所にある不思議な図書館と、そこを管理する司書の話だ。
 図書館にあるのは、いろんな人の人生が書き記された本ばかり。その本を借りに来るのは神様たちで、本を読んで、その人を天の国へ入れるか、また人として生まれるようにするか決めるのだ。
 でもごくたまに、道に迷って図書館に紛れ込んでしまう生まれる前の人もいる。
 あるとき、前の人生がさんざんだった女が迷い込み、次の人生が決まるまでの間ここで待つといいと司書に言われる。そして、これから自分の人生が記されるという本を見せられた。女は司書の目を盗み、そこに自分の望む人生を書き込んだ。
 果たして女は、彼女が書き込んだとおりの人生を送ることになる。新しく生まれたときには、図書館でしたことはすっかり忘れていて、彼女はただ順風満帆な人生に満足して日々を送っていた。でもあるとき、司書が女の本の書き込みに気がついた。本に手を加えるのは重罪で、司書は決まりに従い本を燃やしてしまう。すると、女も炎に包まれて、永遠に消えてしまった。天の国へ行くことも、また人として生まれ直すことも許されないほどのことを、女は犯していたのだ。
 見せなければよかったと司書が後悔するシーンで、本を閉じた。
 薄暗い部屋の真ん中に転がり、本を胸に抱く。
 このまま消えてしまいたい。この本のような図書館がどこかにあって、生まれる前の自分が勝手に書き込みをしていたらいいのに。
 でも、そんな訳ないか。書き込めるのなら、もっとずっとましな人生にしている。昼間でもカーテンをしっかりと閉め、明かりもつけてはいけない部屋で一日を過ごす、そんな人生をわざわざ自分から選ぶはずがない。
 母は、女手一つでわたしを育てている。学歴も技術もない母が二人分を稼ぐのは大変で、朝早くから夜遅くまで、いくつも仕事を掛け持ちしていた。
 わたしも外に出てバイトくらいできる歳だけど、母はわたしが部屋から出るのを許してくれない。
 母は恐れているのだ。父がわたしを見つけ、連れて行ってしまうのではないかと。
 わたしが生まれる前から、父の家庭内暴力はひどかったらしい。わたしが生まれてもそれは変わらず、母はわたしと自分を守るため、父から逃げた。居場所を知られないため、離婚届は未だに出していない。
 いままでに何度も引っ越しをしていた。それは、父に見つかったかららしい。小学校の五年生までは学校に通っていたけど、六年生にあがる前に引っ越しをして、それ以来学校には行っていなかった。母が、行かせてくれなかった。
「あんたが外を歩いてるのを、お父さんがきっと見ていたんだ」
 だから、見つかってしまったから、引っ越しをするしかない。
 だから、見つからないように、もう学校に行ってはいけない。
 だから、近所の人にも知られないように、もう外に出てはいけない。
 あれから五年、わたしはほとんど外に出ていない。
 母以外の人と言葉を交わすことはなく、その母も家にいる時間は短いからあまり話をしない。母がいないときに部屋に人の気配があってはいけないから、テレビをつけるのもだめだと言われている。スマホはもちろん、インターネットもない。ネットの上で誰かとつながることもできず、わたしは世界からこぼれ落ちた存在になっていた。
 いつになったら外へ出ていいのだろう。出ることも許されず、誰にも知られていないわたしという人間は、果たして本当に存在しているのだろうか。自分自身でさえ疑わしくなるときがある。
 わたしはまた本を開いた。
 図書館の本を読むのは神様たちだけど、たまに、司書も本を手に取ることがあった。ほとんどは、生まれる前に図書館へ迷い込んでしまった人の本だ。彼らが無事に人生を送れているかが、どうしても気になって。
 これは空想の物語だ。図書館も司書も本も架空の存在。だけど何度も何度も何度も読み返しているうち、これは本当のことなのではないかと思うようになっていた。
 母と話すことさえほとんどなく、こうやって寝転がって息を押し殺し、空想するしかないのだ。空想と現実の境界は少しずつ曖昧になっていく。
 図書館にはわたしの名前がタイトルになっている本があって、わたしは生まれる前に図書館に迷い込んだことがあって、司書はわたしが幸せになっているか、ふと思い立って本を開いてみる。きっと司書は目を丸くする。わたしが生きた年月に比べて、本に書かれていることは驚くほど少ないから。
 誰にも存在を知られず、日がな一日寝転がって過ごすわたしを哀れに思い、司書は羽ペンを手に取る。そして、わずかに震える手で、わたしの本に書き加えるのだ――。

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 図書館の本を読んでいいのは神々だけ。本当は司書のわたしも、中身をじっくり読むのは許されていない。それでも、時空の片隅でひとり図書館の管理をすることに免じて、わたしの密かな楽しみには目を瞑ってもらっていた。
 だけどさすがに、本に書き込みをするのは許してもらえなかったようだ。
 不正な書き込みが見つかった本は、わたしの手で燃やしてきた。
 わたし自身が不正をした場合は、自然に炎が出るものらしい。本と、わたし自身から。
 誰にもその存在を知られることなく、薄暗い部屋で消えることを望んでいた少女の本が、炎に包まれ灰に変わっていく。
 わたしの体も、少しずつ灰に変わっていく。

〈了〉