助手席の彼女

 何度目になるだろうか、これで。
 カーブににさしかかる直前、左足でクラッチを踏み込んでギアを四速から三速に落とし、カーブを抜ける直前に、またクラッチを踏み込んで三速から四速に戻す。
 つづら折りのようにカーブが続いているからギアチェンジが頻繁で、左足はずっとクラッチペダルに置いたままだ。ずっと上り坂でカーブもなかなかきつく、スピードも出せない。対向車がないからずっとヘッドライトはずっとハイビームだ。右を照らせば剥き出しの山肌、左を照らせばすぐそこに白いがガードレール、その向こうはうっそうとした森だ。
 繁華街から車を走らせてほんの三十分。街中はずいぶんと都会めいてきたようにも見えるが、山地は住宅地のすぐそこまで――いや、住宅地が山のすぐそばまで迫っていて、山側に少し走ればあっという間に人里から隔離された風景になる。
「ずいぶん辺鄙なところに住んでるんだね」
 左にハンドルを切るついでに、助手席に座る女をちらりと見た。彼女はまっすぐに前を見つめている。
「ええ。おかげで、街に出るのはいつも苦労するの」
「いつもは、どうやって街まで?」
 彼が女と知り合ったのはつい数時間前、大型ショッピングモールの駐車場でのことだ。買い物を済ませた彼は、広い駐車場を歩いている途中、ぼんやりと歩いている彼女を見つけた。
 バッグも何も持たず、車や連れを探している様子もなく、黄昏の中で見たその横顔が男の好みとこれ以上にないほど合っていたので、声をかけた。
 家に帰りたいけれど財布も何もかも忘れてきたので困っている。そう言う割には困った顔はしておらず、また奇妙なことを言うなと思ったものの、真正面から見るとますます男の好みの顔をしていると分かったので、なら夕食に付き合ったら家まで送ると約束をして、今に至っている。
 携帯電話も忘れたという彼女は、電話番号もど忘れしてしまったという。さすがにそれはありえなくないかと思ったが、せっかく出会った好みの女である。家まで送れば携帯電話もあるわけだから、そこで番号を交換すればいい。
「いつもは、通りかかった人に乗せてもらって街に下りるわ。でも、その人が帰りも乗せてくれるとは限らないから」
「送ってくれそうな人を探してた訳か。車は、持ってないの」
 こんな辺鄙なところに住んでいたら、必需品ではないだろうか。そうでなくとも、街中はにぎわっているとはいえ、大都市のようには交通網が発達していないから、車を持っている人は多い。
「免許がないし、お金もなくて」
 しばらく話をしていて気が付いたが、彼女は表情に乏しい。しかし今の声だけは、少しはにかんでいたように聞こえた。
「俺も、金がないから今はこんな中古車だよ」
 欲しい国産車はあるが、どこかから大金が転がり込んでこないかぎり、高嶺の花だ。
 助手席の女も、彼のみてくれからすれば高嶺の花である。しかし、ダメ元で声をかけて家に送るところまでこぎ着けたから、案外手に入る花なのかもしれないと密かに期待していた。
 対向車もなく、民家もほとんど見かけず、車はどんどん山の奥へと入っていく。さすがに遠すぎやしないかと男が怪訝に思い始めた頃、右に曲がる細い道が見えて、そこを曲がってくれと女が言った。
 ウインカーを出して、ギアを二速に落としハンドルを右へ切る。アスファルトが舗装されていない砂利道に変わり、左右からは背の高い竹林が迫っていた。
 本当にこんなところに民家があるのかと思っていたら、思いの外すぐに家が見えてきた。
「……でかいね」
「土地だけはあるからね」
 日本風の、大きな家である。山奥に、それはぽっかりと現れたように建っていた。その一角だけが開かれていて、竹垣に囲まれている。見たところ正面には駐車場はないが、転回するのに十分な広さはあったからそこで車を止めた。
「送ってくれて、ありがとう」
 そう言ってドアを開けようとする彼女の右腕を、とっさに掴んだ。そのまま家に上がったら、もう戻ってこなさそうだと思ったのだ。
「ここまで送ってきたんだ、電話番号くらい教えてくれよ」
「……じゃあ、携帯を取ってくるから、ここで待ってて」
 返事をするまでに少々間はあったものの、彼女は言った。家に上げてくれと言うのはさすがに図々しいし、本当に戻ってくるんだろうなと疑うのも感じが悪いので、男は分かったといってすぐに手を離した。
 ライトを消しているから当然のごとく真っ暗で、エンジンを止めているせいで不気味なほど静かだ。スマホをいじりながら女が戻ってくるのを待っていたが、一向に姿を見せない。女が家に入ってどれくらい経ったのかと時計を見て、既に二十分経過していると知った。
 やはり高嶺の花は高嶺の花のままだったのか。しかし、こんな山奥まで送ったのだから、番号を教えるくらいしてもいいだろう。
 そんな不満を抱えたまま何気なく家を見て、どこの窓にも明かりがないことに、男は気が付いた。
 まさか、寝たのか。
 人を待たせておいて――待たせる理由を作ったのは男自身ではあるが――先に寝るとはいくらなんでも非常識だろう。
 諦めて帰ろう。とんだ骨折り損だ。
 ギアがニュートラルになっているのを確認して、クラッチとブレーキを同時に踏み込み、エンジンキーを回す。ライトはハイビームになっているが、戻すのが面倒だったのでそのままにして方向転換しようとハンドルを右に回す。エンジン音に、タイヤが砂利を踏みつぶす音が重なる。辺りが静かだから、家の中まで聞こえているかもしれない。電話番号さえ忘れるような彼女だ。男のこともうっかり忘れていたと慌てて飛び出してくるようなことはないだろうか、という儚い希望が胸をよぎる。
 しかし、一瞬ライトに照らされた家から誰かが飛び出してくる気配は微塵もなく――ハンドルを切る男の手が止まる。
「……え?」
 ヘッドライトに煌々と照らされていたのは、一軒の古い家屋だった。さっき見た時と違って、誰かが住んでいる様子などまるでなさそうな、荒れ果てた家だった。瓦は所々落ちていて、雨戸もない窓もあり、障子に貼られた和紙はすべて破れている。さっき、女が入っていくところを見ていた時はちゃんとしていたはずの門は、片方の扉がなく、もう片方もちょうつがいが外れかかっている。
 背筋がぞっとした。
 男は大慌て手ハンドルを切って方向転換すると、アクセルを踏み込んだ。しかし、慌てすぎたせいでクラッチから足を離すタイミングが合わずにエンストする。気ばかり急いてエンジンをかけ直すのにも手間取ったが、なんとか車が動き出すと、カーステレオのボリュームを耳が痛くなるくらいに大きくした。
 バックミラーもサイドミラーも、恐ろしくてのぞく気になれなかった。


 後日、こんな話を聞いた。
 山の奥、国道から分かれた舗装もされていない道路の突き当たりに、今はもう誰も住まなくなった廃屋がある。山奥にもかかわらずその廃屋は大きくて、しかし山に飲み込まれつつあるから迫力は満点。幽霊屋敷として評判で、肝試しに行く若者が少なくない。
 人魂のようなものを見たとか、白い人影みたいなものを見たとか、帰る時にバックミラーを見たら知らぬ人が映っていたとか――その幽霊屋敷にまつわる怪異の類いは枚挙に暇がない。しかし、そこが幽霊屋敷と呼ばれるようになった理由は、別にあった。
 家に送って欲しいと言う若い女を車に乗せ、彼女の案内に従って走らせると山奥の大きな家にたどり着く。女を送り届けた直後は、大きいけれど何の変哲もない家なのに、いざ帰ろうとする時にふと見ると、荒れ果てた廃屋になっているのだという。彼女を送った者(たいていは男だ)はそれで慌てて車を走らせ逃げていく。慌てすぎて、途中のカーブで曲がりきれずに事故を起こした者もいるらしい。
 幸い、男は事故を起こすことなく家に帰り着いた。だけど、確かに人の住んでいる様子のあった家が、我が目を疑いたくなるほど荒れた姿に変わっていたのを見た時の不気味さは、今も忘れられない。妙な下心は当分持たぬようにしよう、と珍しく反省もした。
 女は――好みの顔をしていると思ったあの女は、男なのだという。
 女装の趣味があった少年で、しかしそれを両親に理解されることのないまま死んだらしい。少年の秘められた趣味が両親に発覚して以来、坂道を転がり落ちるように家庭内の雰囲気は悪くなり、まるでそれに合わせるかのように父親のやっている事業もうまくいかなくなった。
 とうとう一家心中するしかなくなって、最期だからと皆きちんとした格好になったのだが、少年はその時女装をした。自分でいちばん綺麗だと思ったのが、その格好だったのだ。しかし、少年の趣味を理解していない両親はこの期に及んでと激怒した。無理矢理着替えさせよとして取っ組み合いをしているうち、少年は死んでしまった。息子を殺してしまった両親は結局死にきれずに自首して、家は人手に渡った。しかし、殺人現場となった家で場所も辺鄙ということで買い手が付かず、次第に荒れ果てていったのだという。
 もう二度と両親が帰ってこなくても、あそこが少年の家。だから、街へ下りては誰かを捕まえて送ってもらうのだ。街へ行く時も、同じように誰かを捕まえるのだそうだ。
 彼は今日も、車に乗せてくれる人を探しているのだろう。

〈了〉