なるはや!

 白衣の裾をひらめかせて颯爽と廊下を歩き、ややもすればずれ落ちるめがねを、眉間のあたりに人差し指を当ててきりりと持ち上げる。扉の向こうにあるのは、様々な実験器具と分析機器がずらりと並ぶラボラトリー。女性諸君、わたしを見てキャーキャー黄色い悲鳴を思う存分上げても構わない。それもやぶさかではない。
 そう、わたしは理系男子にして眼鏡男子の鳴瀬隼人。学生時代は「なるはや」などという二つ名もあった、鳴瀬隼人である。名前は大事なので、思わず二回も言ってしまった。
 私服のシャツは、もちろんチェック柄。シャツ形の服となるとその占める割合が多い。理系男子として、そこは外せない。今白衣の下に着ているのも、もちろんユ○クロのチェックのシャツだ。水玉模様のシャツなど、コンタミと言っていいレベルでしか所有していない。
 失敬、分析漬けの毎日だから日常でもついつい専門用語を使ってしまう。手を繋いで歩いているカップルを見れば、あれは何結合になるのか、二人を引きつけている力はファンデルワールス力よりも強いのか、などと討論してまうのだ。合コンでこんなことを言えば、初めは「すごーい!」と羨望の眼差しを向けられるが、そのうち引かれてしまうのでなるべく控えるようにはしている。
 魂までは分析屋になるまいと思いつつ、もはやなりつつあるのではないかと危惧しつつ、日々黙々と仕事をこなすわたしを見て、上役はわたしを3S委員に任命した。
 説明しよう! 3Sとは整理(seiri)整頓(seiton)清掃(seisou)の頭文字Sを取った、三つのSのことである!
 つまりは、実験中など特に散らかりがちな実験台や分析機器の周辺を常に綺麗にしておきましょうね、という心づもりのことである。
 実験台を綺麗に片付いた状態にしておくことは、KYの観点からも重要である。おっと、KYとは「空気読めない」のことではないのであしからず。危険予知、すなわちKikenのKとYochiのYのことである。労災ゼロを目指す上でも3SとKYは必要不可欠な活動なのである。
 そんな重要な委員の一つに任命されたわたしは、早速自分のラボの3Sに取りかかった。
 数日前に調製してそのままになっているメスフラスコの放置などもってのほか!
 測定の済んだバイアルも即刻廃棄!
 分析試料の仮置き表示など無意味無意味ぃ!
 収納も省スペースを意識し、ビーカーはマトリョーシカのごとく大きいものに小さいものを徐々に入れていってすっきり収納!
 いったいいつからあるのかもよく分からないような溶液にはフェノールフタレイン液を垂らしてpH確認! 桜色程度のアルカリ性なら大量の水道水で希釈して流してしまえば問題ナッシング!
 エブリシング、ベリー3S!
 わたしは自分の仕事に満足していた。実験台はすっきりと片付き、分析機器の周辺も驚くほどものがなく、オートサンプラーの中にも何もない。
 上役にこっぴどくしかられ同僚には白い目で見られ当分事務仕事だけしておけと、ラボから閉め出されたわたしには、その理由が未だ皆目見当付かなかった。

〈了〉