お願い助けてパピーちゃん! ご主人様編

 電車に乗ってから、ようやくスマホを鞄から取り出した。電話もメールも着信なし。それだけ確かめると、来島総司はスマホを鞄につっこむ。
 メールしろって言ったくせに、いざ送ると返信なしかよ。
 吊革にすがるように掴まり出てきたため息は、期待していた着信がなかったからなのか、仕事の疲れから来たものなのか――たぶん、と言うか十中八九、仕事の疲れだ。
 月末、最後の金曜日、忙しくて当然だ。これでも上期終わりだった先月よりも早く帰れたのだから御の字である。まだ二十時を回ったばかりだからどこかで軽く飲んで帰ってもいいが、今日はまっすぐ家に帰りたかった。
 疲れている、それだけである。風呂にも入らずベッドに倒れ込み、そのまま眠ってしまいたい。だけど、その前にメールなり電話なりしないと。あいつに。
 ――恋人へ連絡を取ることがまるで義務のようだと感じるようになったのはいつからだろう。
 大学のゼミで出会い、意気投合して付き合い始めた。就職が決まり彼女は電車で一時間半ほどの離れたところへ引っ越していったが、週末は彼女が来島のアパートに泊まりにくるのがお決まりのパターンになっていた。一年ほどは、予定がなければほぼ毎週二人で過ごしていた。
 社会人二年目になる頃には、それが毎週から隔週になっていた。学生と違って、一日自由に使える時間は会社が休みの週に二日だけ。彼女とも過ごしたいが、友人とも遊びに行きたい。会社内での付き合いで遠出することもある。そうなると、彼女と毎週末過ごすこともできず、休日出勤などという忌まわしいものが発生すれば、貴重な休みの一日が消えてしまう。
 日々の忙しさに追われ、空いた時間にちょっと文字を打てばいいだけのメールが主な連絡手段になっていた。会えないのならせめて電話くらい、と彼女に言われたこともある。だが、メールと違って電話は時間が取られる。それに、顔を合わせるほどでないにせよ、感情がダイレクトに伝わる。無理矢理電話すれば、疲れていて面倒くさいけど電話した、というのがたぶん伝わるだろう。来島は隠しているつもりでも、彼女にはばれる。お互い嫌な気分にならないためには、電話よりメールの方がいい。
 だがそのメールも、最近ではすっか用事があるときだけの連絡手段に成り下がっていた。以前のように、いま何してる? なんて訊いたりしない。昼間送れば、仕事をしているのはわかりきっている。夜は夜で、ご飯を食べているとかお風呂に入っていたとか、そんな返事になるとわかっている。付き合い始めた頃、社会人になったばかりの頃の初々しさはどこかへ消え去って、今度の週末も仕事だとか、友人とゴルフに行くとか、だから今週は会えないと伝える内容ばかりだ。
 アパートに帰り着き、灯りを付ける。彼女が毎週来ていた頃は、うるさく言われることもあってわりときれいに片付けていた。でもいまは、脱いだ服が床に散乱し、室内干しのハンガーには洗濯した衣類が干しっぱなしになっている。小さなシンクには昨日か一昨日使った食器がそのままで、シンク自体も水垢だらけだ。あまり意識しないようにしていたが、改めて見るまでもなく、散らかって、汚い部屋だ。
 彼女とは、一ヶ月くらい会っていない。それでも寂しいという感情があまり湧いてこなくて、ああもうそんなに経ったのか、と時間の流れを早く感じるだけだ。
 もしかしたらもうだめなのかもしれない、という考えがよぎる。連絡を取り合う頻度は下がる一方、会えない時間が長くなっても、仕方ないとかいう乾いた感情が真っ先に出てくる。彼女が嫌いになったわけではない。もちろんいまでも好きだと言える。だけど、このまま関係を終わらせたくないという切迫感がいまいち湧かない。連絡が滞りがちになっても、彼女が心変わりをするわけがないという信頼を――というより来島にとって都合の良い解釈をしているだけなのだろう。
 靴を脱ぎながら、再びスマホを取り出す。画面を開くと、メールを受信中という表示が出ていて、来島は思わず画面を見つめた。あいつからのメールが、やっと返ってきたのだろうか。なんだかんだいって、待っていたには違いなく、来島は期待した。
 単調な電子音が流れる。やばい、またマナーモードにするのを忘れて――
「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャンゴゥ!」
 着信音に続いて聞こえたのは、野太い男の謎のかけ声だった。それと同時に、目の前にひげ面でやたらとがたいの良いおっさんが現れる。何故か、メイド姿で。
 いやそもそも、このおっさんがどこからどうやって現れたのかがわからない。ここは来島の部屋の、狭苦しい玄関だ。ドアの鍵は入ってすぐにかけたはず。
「はじめましてぇ新しいご主人様ぁ! あたしパピーちゃんっていうの、よろしくね!」
 ただでさえ狭いところに大の男が二人でいると、ますます狭い。そのおっさんは来島の目の前にいた。五十センチも離れていない。
「だだだ誰、あんた!?」
 顔の彫りが深い。ヨーロッパ系の人だろうか。ともかく日本人ではない。顔の下半分は立派なひげに覆われて、身長は来島の頭ひとつ分は高く、体の厚みも腕の太さも、来島の二回りは大きい。殴られたら一発で気絶しそうな男相手に、誰だと訊けた自分を褒めたい。
「だからぁ、あたしパピーちゃん! あなたはご主人様でぇ、パピーちゃんはそのし・も・べ」
 だめだぞこいつぅ、とでも言うように、パピーちゃんなるおっさんが来島の鼻先を指でつんとつつく。相手が相手なら、かわいい仕草と言えなくもないが、パピーちゃんは来島より体格のいいおっさんである。メイド服を着ているが、どう見てもおっさんである。
「パピーちゃんこう見えて、本当の姿はちょっといたずら好きの、超絶可憐な美少女妖精なの。でもちょっとだけいたずらがいきすぎちゃってぇ、激おこぷんぷん丸の妖精大王に少し反省しなさいって言われちゃった。てへっ」
「はぁ……」
 相づちを打ったものの、さっぱり意味がわからない。妖精とか妖精大王とか、いったい何だ。ハロウィンで浮かれて酔っ払ったおっさんが家に押しかけてきたのではないかとさえ来島は考えた。
「怒られちゃってしょんぼり反省中のパピーちゃんはぁ、元の姿に戻るために百人のご主人様にお仕えして満足させてあげないといけないの。パピーちゃん頑張って、これまで九十九人のご主人様に仕えてきたんだよ。そしてあなたが百人目のご主人様になったの。最後だから、パピーちゃんばりはりきってお仕えするね!」
 力強く説明するパピーちゃんの鼻息は荒い。
「ごご主人様? 俺が? なんで?」
「あー、なんだかまだよくわかってないって顔してるぅ!」
 この状況を、いまの説明だけで理解できるわけがない。そもそもパピーちゃんがどこからどうやって入ってきたのかもわからない。
「ご主人様の携帯電話がさっき鳴ったじゃん? 鳴ったのがぴったり22時49分だったから、パピーちゃんは召喚されたんだよ!」
「べ、別に呼んでないんですけど」
「いやん、うそうそぉ。携帯電話が鳴るとき、ご主人様は心の中に願い事があったはずぅ。パピーちゃんそれを嗅ぎ付けたんだからぁ! その時間に携帯電話が鳴っても、願い事がある人じゃないとパピーちゃんを召喚できないんだよ!」
「別に俺が鳴らしたわけじゃなくて、着信だったんですけど……」
 パピーちゃんの唐突すぎる登場ですっかり忘れていたが、メールが来ていたんだった。誰からのメールかまだ確認できていない。
「ふっふーん、このパピーちゃんが振り込め詐欺グループからの電話で召喚されるはずないじゃん? 愛のある着信じゃないと、パピーちゃん呼ばれても行かないんだぞ!」
 パピーちゃんはウィンクして、また来島の鼻をつついた。
「あい?」
「Yes, love」
 発音が妙にネイティブっぽい。そしていままで甲高く作った声だったのに、いきなり地声のような低い声である。いやしかし、見た目からしてネイティブスピーカーでおかしくはない。
「ご主人様のスウィートハニーからの着信に違いないんだから、ほらほらぁ、早く確認してあげて!」
 パピーちゃんが現れなければとっくにそうしていたのだが、口答えすると殴られそうな気がしたのでやめておいた。
 果たして、確かに来島の彼女からのメールだった。今日の昼に送ったメールの返事が、ようやく来たのである。最も送ったメールの内容は、今日も残業で遅くなるし明後日はゴルフに行くことになった、というものであるが。
「……」
「わお、ご主人様いきなり破滅の危機じゃん?」
 断りもなくスマホをのぞき込んでいたパピーちゃんが神妙な声で言い、
「『別にいいよ。こっちも連休は旅行に行くからどうせ会えないし』」
 そして、地声で読み上げる。
「声に出して読むなあ!」
 ざっくりと心が抉られてしまったじゃないか。ただでさえ、旅行に行くなんて初耳だったのに。11月頭の三連休の予定は、来島がもしかしたら仕事が入るかもしれないし、ほかの予定が入るかもしれないからと立てていなかった。休日出勤はまぬがれたものの三日前にゴルフへ行くことが決まったので、連休全部を一緒に過ごすのは無理でも、前後は久しぶりに会えると思っていたのだが、まさに寝耳に水である。
 この時期の旅行となると、彼女は事前に計画していたのだろうか。いったいいつから、どこへ、誰と行くのかまったく聞いていないし、知らされていない。しかし、これがいまの来島と彼女の関係なのだ。
「ご主人様、もしかしてヘコんでる?」
「……もしかしなくてヘコんでる……」
  いつの間にか、ここまで冷めてしまっていたとは。一人旅に行くような性格ではないから、誰かと一緒の旅行だろう。でもいったい誰と。女友達ならまだしも、そうでなかったら完全に終わっているじゃないか。
「泣かないで、大丈夫だよ! ご主人様にはパピーちゃんが付いてるじゃん! パピーちゃん、必ずご主人様を幸せにしてあげるよ!」
「…………どうやって?」
 この流れでいまのセリフだと、パピーちゃんが新しい彼女になる、みたいに聞こえなくもない。それは謹んで辞退したい。
「パピーちゃん、ご主人様に足りないのはスウィートハニーへの報連相だと思うの」
「仕事みたいに言うな!」
「あと、こういうときはソッコー電話してどこへ行くのかとか訊かなきゃだめじゃん?」
「いや、あんたがいるから、しようと思ってもできないだけで……」
「いやん、うそうそぉ。ご主人様、今すぐ電話できるならスウィートハニーが事前予告無しに旅行行ったりするわけないじゃん!」
 またもや心が抉られる。悔しいがパピーちゃんの言う通りだった。平日でも、電話をしようと思えばできたのだ。たとえ五分でも、それくらいの時間はあった。
「もうスウィートハニーの明日からの予定は決まっちゃってるから遅いけど、帰ってきたらちゃんとスウィートハニーと会うんだよ! 会って――」
 と、パピーちゃんがいきなり真顔になって、壁を背にしている来島の顔の横にドンと腕をついた。いわゆる、というかまさしく、壁ドンの体勢だ。
「放っておいた俺が悪かったよ、ハニー。今回のことで俺はとても反省をした。だからお願いだベイビー、どこへ誰と行っていたのか、教えてくれないかい?」
 パピーちゃんはまるで口説くような目付きで、地声とはちょっと違う、ええ声でささやく。来島は男で彼女からのメールでショックを受けるくらいに彼女を好きなのに、危うく胸がきゅんとなりそうだった。
「――て言えばぁ、スウィートハニーの胸はキュンキュンなりっぱなしだよ!」
「……い、いや、それ、無理……」
 彼女相手とはいえハードルが高すぎる。ハニーやベイビーなんて言った日には、頭大丈夫と心配されそうだ。
「いやん、だめだめぇ。離れかけてるスウィートハニーの心をぐいーんと引き寄せるためには、それぐらいしなきゃだめじゃん? それにぃ、パピーちゃんがご主人様をこうやって後ろから押してあげるから大丈夫だよ!」
 と、パピーちゃんは両手をドンと突き出す仕草をする。どうやら物理的に後押ししてくれるらしいのだが。
「それ、なんか違う……」
「いやん、そんなことないないぃ。ご主人様には幸せになってほしいから、パピーちゃん頑張って押すよ!」
 パピーちゃんの太い腕で勢いよく押されたら、彼女と正面衝突をして不幸な結果になる予感しかない。
 なにはともあれ、来島総司とパピーちゃんの主従関係は、こうして始まったのである。

〈了〉



※本作は、参加はしませんでしたが第22回てきすとぽい杯のお題を使用しています。