お願い助けてパピーちゃん! 赤の他人編

 誰かの携帯電話が鳴った。少し離れたところから、単調な電子音が聞こえる。
 昼時の食堂はほどほどに混んでいて、潮騒のようなざわめきに包まれている。今がお昼休みとはいえ、ここは会社。どこの部署の誰か知らないけどマナーモードにしてなかったのかなんて思いながらも、さほど気にとめず同僚たちと他愛ない話をしていた。多分、大多数の人も同じだっただろう。次の瞬間、度肝を抜かれたのも。
「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャンゴゥ!」
 広い食堂中に響き渡る野太い声。そして誰かが椅子から転げ落ちたような音。
 携帯電話の音が聞こえてきたのと同じ方向だ。食堂中の視線が突然で突拍子もない叫び声の発生地点に集中した。
「バカ、呼んでないよ! 会社で出てくんな! ていうか人前じゃ出てこない約束だろ!?」
 騒ぎの中心にいて、片手にスマホを握り締めて焦った表情を浮かべているのは若い男性社員だった。見たことはないけど、社員数が多いから見たことのない、知らない人の方が多い。
 ただ、彼の向かいの席に座っている人は、絶対に見たことがないーーというより絶対にうちの社員ではない。髭がジャングルのように生い茂っているおっさんだった。我が社には制服があるが、熊を連想させるおっさんは白いフリルのついた可愛らしい淡いピンク色のメイド服を着ている。しかももじゃもじゃ髪の頭には、白いレースのヘッドドレス。どこからどう見ても、格好だけはメイドさんだ。
 彼らは、わたしの二つ隣のテーブルにいた。六人掛けのそれに五人で座っていて、そのうちの一人がメイド服を着た謎のおっさんである。その傍らの床では、椅子から転げ落ちたような体勢で呆然とおっさんを見上げている男性社員がいる。どうやら、おっさんが座っている席につい先程までいた人らしい。
「ええー? だってご主人様の携帯電話の着信音が鳴ったらこのパピーちゃんの出番じゃん? だから出てきたんじゃん? ご主人様、昼間はマナーモードにしてるからいっつも夜、しかもご主人様しかいない時にしか出てきちゃダメだぞこいつぅ、って言ってたのに、こんな昼間にこんな大勢の人がいる場所で呼んでくれたから、パピーちゃんばりはりきって出てきたんじゃん?」
 パピーちゃんという名前らしいおっさんが、まるで女の子のような口調と仕草で目の前の青年を見つめる。ちなみにパピーちゃんはメイドの格好をしてるが、顔はノーメーク。顔の下半分のほとんどは立派な髭に覆われていて、体格も格闘技でもやっているのかと思うほどたくましい。
「…………来島……の、知り合い……?」
 青年とパピーちゃんと同じテーブルの誰かが、意を決したように、しかし恐る恐る尋ねる。
「う。えと、いや、知り合いと言うか、知らないと言うか、その」
「はじめましてぇ。ご主人様がいつもお世話になってますぅ。あたしパピーちゃんって申しましてぇ。ご主人様のしもべですぅ!」
 来島青年の言葉を途中で遮り、パピーちゃんが野太い声で自己紹介する。パピーちゃんは同じテーブルの人だけに言ったつもりかもしれないが、不必要にでかい声は恐らく食堂中に響いていた。端近くの席を陣取るおばさま方が、パピーちゃんたちを見ながら顔を寄せ合いひそひそと何か話していたりする。
 来島青年は両肘をテーブルについて絶望的な表情を両手で覆い隠し、がっくりとうなだれている。
 そんなご主人様を見たパピーちゃんは髭に覆われた顎に岩のような握り拳を両方とも当てて「どうしたのご主人様? なんか元気ないじゃん? 午後のお仕事大丈夫? パピーちゃんが励ましてあげるよ?」と首を傾げていた。

 二日後、わたしが聞いた話によると。
 来島青年こと来島総司は六月生まれの満二十五歳。某私大出身の事務職採用で、現在は総務部に所属。学生時代から交際している彼女がいて、その彼女からメールなり電話なりの着信があり、その時着信音が鳴るとパピーちゃんがお決まりのセリフとともに現れる、らしい。
 パピーちゃんは妖精の国のいたずら好きな女の子だったが、いたずらが過ぎたために罰として今は熊のようなおっさんの姿をしているそうだ。パピーちゃんに罰を与えたのは妖精大王で、百人の人に仕えて満足させてあげたら元の姿に戻れるらしく、来島総司はその百人目。来島総司の彼女からの着信音が、パピーちゃんを召喚するための、時間やタイミングを含めた諸々の条件とたまたま奇跡的に一致したためにパピーちゃんは召喚され、来島総司はパピーちゃんの最後のご主人様となった、らしい。
 今のところ、パピーちゃんは来島総司を満足させてあげられていない。来島総司としてはパピーちゃんのおかげで疎遠になりかけていた彼女とまたまめに連絡を取り合うようになって満足しているから帰ってくれと言っているが、パピーちゃんとしては来島総司と彼女が結婚するまでは満足できないらしい。ゆえに、半ば押し掛け女房的に来島総司のしもべをしているのだそうだ。
 白昼の食堂であんなことがあったのだから、噂が瞬く間に社内を駆け巡ったのは言うまでもない。わたしなど、件の話を聞くのが遅かった方だ。

 パピーちゃんを見てから数ヶ月。あの直後こそ来島総司は人々の好奇の的となっていて食堂にしばらく姿を見せなかった(自分のデスクでコンビニ弁当を食べていたらしい)が、今はそれもかなり落ち着いていて、彼は再び食堂にやってくるようになった。なんでも、彼女にプロポーズしてうまくいったらしい。パピーちゃんもようやく満足して、今頃元の姿に戻ったのだろう。
 昼休みの食堂でそんな話をしていたちょうどその時、遠くで誰かの携帯電話が鳴った。
「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャンゴゥ!」
 その野太い声を聞けば見るまでもなく何が起きたのかは分かったのだが、見ずにはいられなかった。ほかの人たちも同じらしく、食堂中の視線が一点に集まる。
 パピーちゃんは、今も来島総司のしもべをしているらしい。

〈了〉



※本作は、参加はしませんでしたが第21回てきすとぽい杯のお題を使用しています。