ひどい話

「ねえ、ひどい結末の話だと思うでしょう」
 右足を組んで頬杖をつき、彼女は言った。でもひどいと言う割に、緋色の口角の端は上がっている。目も、面白がっているようだ。
 彼女の話した内容が他人のことであれば、人の不幸は蜜の味ということで、そういう表情もありかも知れない。だけど、彼女が話したのは彼女自身に起きた出来事なのだ。とても笑っていられるような状況ではない。
 少なくとも、自分なら笑えない。
「だって、あんまりひどすぎて、もう笑うしかないじゃない」
 あっけらかんと言う。
 彼女が強いから、なのだろうか。
 自分が弱いから、なのだろうか。
 低いテーブルを挟んで向かい合う彼女は、自分が店に入ってきたときから変わらず笑みを浮かべている。
 それはいつもの彼女の笑顔で、自分を虜にする妖艶な笑みで、でも心の奥を見透かすのを許してくれない鉄の仮面のようで。
 ようやく初めて、彼女の過去の一端を教えてくれたと思ったら、愛想笑いさえできないような内容だった。
 出会ったその時から、彼女に夢中になった。恋人という立場を手に入れるために、ずいぶんいろいろなことをしたと思う。我ながら情けないこともやったと、今になって反省、というか後悔することもある。だけど、やっとその立場を手に入れた今、そんな過去はひっそりと自分の記憶の秘密の箱にしまって、恋人という立場を大いに楽しみたい。
 それはしばらくの間、うまくいっていた。彼女と過ごす時間は甘く楽しく、夢のようだった。だけど、ひとつ手に入ればもっと、とさらに望んでしまうのが人の悲しいさが。彼女が、彼女自身のことをなかなか話してくれないと気がつくまでに、そう長い時間はかからなかった。
 自分と出会う前、何をしていたのか。どこで、どんな風に、何を思いながら生きてきたのか。嬉しいと思うこと、楽しいと思うこと、嫌だと思うこと、嫌いだと思うこと、悲しいと思うこと――彼女の感情を形作るそれらの一端を知りたいと思ったのに、彼女はなかなか、いや、まったく教えてくれなかった。
 聞いてもはぐらかされる。
 嫌なことならまだしも、嬉しかったことや楽しかったことまで教えてくれないなんて、まるで信用されていないみたいだった。
 自分が悲しいのはまさにそれだと彼女に言っても「そう」というあっさりした答えしか返ってこない。
 それで愛想を尽かして離れてしまえばいいかも知れないが、惚れた弱みでそれも難しい。そのうち、彼女の過去に触れるのはやめるのが、お互い――自分のためにいいと思って、やめてしまった。
 自分といる今の方を大事にすればいいか、過去なんてどうでもいいじゃないかと開き直って、それでやってきた。いつものように待ち合わせて何気ない話をするうちに始まったのが、彼女の告白だ。
 驚いたし戸惑った。ようやく話してくれたと嬉しくも思った。だけど、聞いていて辛くなるような内容で、だんだんと気持ちは複雑になった。
 どうしていきなりそんなことを話したのか、理由は何となく分かる。彼女のタイミングで、話したかったのだろう。今まではぐらかしてきたのは、それを自分に話してもいいのかどうか見極めていたからだろう。
 容易に人には話せないような過去を教えてくれて、ありがとう。
 自分を信用してくれて、ありがとう。
 笑って話してくれたのは立ち直ったからかも知れないし、そうではないからかも知れない。だけどそのどちらでも自分は構わないから、君の過去はすべて受け止めるから、これからは一緒に楽しくて嬉しいことを積み重ねていこう。
「そうしたかったけど」
 彼女は変わらない笑みのまま、冷めたお茶の入ったカップを持ち上げる。
「他人の深いところまで立ち入りたいって思う人と、これ以上は付き合えないの」
 空になったカップの縁に、彼女の唇の形で緋色が残る。
 とても笑って話せるようなことではない過去を自分に教えてくれたのに、どうしてそんなことを言うのか分からない。
 カップを置いて、彼女が伝票を持って立ち上がる。
「わたし、表面上のお付き合いだけで十分なの」
 でも、ずっと教えてくれなかった過去を教えてくれたじゃないか。
 そう言ってすがる自分はずいぶんと情けないが、構っていられなかった。
 すると、彼女は今までで一番の笑みを浮かべた。
「今の話、全部嘘なの」
 呆気にとられる自分を置いて、彼女は支払いを済ませ颯爽と去っていった。

〈了〉