興梠家の一族

 県庁所在地である市の中でも、比較的中心部に近い住宅地に住んでいる信一郎にとって、興梠こうろぎの本家がある場所はど田舎だ。自宅から見れば遠くにかすむ山が、本家に行くと間近に迫っている。ファストフード店はもちろんのこと、二十四時間営業のコンビニもなく、自販機だってそうそうお目にかかれない。その集落の一応のメインストリートはかろうじて片側一車線の舗装された道ではあるものの、車の往来は少なく、そこに設置されている信号機が集落で唯一のものだと知った時は心底驚いた。
 山間にある本家でできる遊びと言えば、川遊びやセミ取りくらい。小さい頃は、親戚や地元にいる数少ない子供たちとそうした遊びをしたものだが、中学生になった今ではセミ取りも楽しみではなくなった。弟の彰二がまだ小学一年生だから、それの遊び相手としてやるくらいだろう。だけど彰二は去年のクリスマスに初めてもらった携帯ゲーム機に夢中だから、今年はセミ取りはやらないかもしれない。
彰二しょうじ、気持ち悪くないか」
 山奥になるにつれて道路のカーブが増えて、その曲がり方もきつい。邦克くにかつがスピードを抑えて運転しているものの、カーブにさしかかるたびに体が右に左に大きく揺れる。
「……きもちわるい」
 そんな中で彰二はずっと携帯ゲーム機で遊んでいたのだ。車酔いするのは必然と言っていい。
「大変。お父さん、車止めて」
 助手席に座る母の二葉は、なのに慌てた声を上げる。
 対向車が来た時に離合できるよう、道路には幅広になっている箇所が所々にある。邦克がそこに車を止めると、二葉がすぐに降りて彰二を車外に連れ出した。
 ドアを閉めると、カーステレオから音楽が流れているのもあって、外の音は聞こえない。
「――信一郎は、大丈夫か」
 陽気なメロディとエアコンの送風音があっても、車内にはどことなく気まずい雰囲気が漂っていた。邦克の問いかけは気遣いというよりは、その雰囲気に耐えかねてのように思える。
「うん」
「ずっと車に乗っていて窮屈だろう。外に出てもいいぞ」
「いいよ。暑いから」
 それで父と子の会話はおしまいだ。ややあって、邦克が車を降りた。二葉と彰二のところへ行き、様子を見ているようだ。
 信一郎はそれをちらりと見やり、すぐに生い茂る緑に視線を戻した。
 本家に行くのは、最近あまり乗り気になれない。だけど、暑いさなか車を降りるのも気乗りしなかった。彰二は両親が見ているから、信一郎までもが見に行くこともないだろう。
「信一郎は気持ち悪くなってない? 大丈夫? 疲れているならすぐに言うのよ」
 突然後部座席のドアが開き、熱気と二葉の声が流れ込んでくる。
「大丈夫だよ。それより、暑いから閉めて」
「あ、ああ、ごめんなさい。気が付かなくて」
 ドアが閉じて、まだ外界と遮断される。
 信一郎はため息をついた。
 いつもこうだ。本家に行く時は、いつにもまして両親が信一郎を気遣う。
 小さい頃はそれに気付かなかった。本家にいる祖父の玄一郎は厳しい人だから邦克も二葉も緊張して普段とちょっと様子が違うのかな、くらいにしか思っていなかった。だけどどうもそうではないと、一昨年知った。

 ――玄一郎さんは、二葉ちゃんに跡は継がせず、信一郎に継がせるつもりみたいよ。

 興梠の本家はいわゆる旧家で、土地などをたくさん持っていてお金持ちらしい。盆や正月になると、どういう繋がりかもよく分からない親戚が本家に大勢集まり、大人たちは毎晩宴会騒ぎをしている。
 一昨年の夏も、例のごとく宴会は夜中まで続いていた。ふと目を覚ましてトイレに立った信一郎は、大広間に通じる廊下の片隅で、数人固まってひそひそと話すおばたちを見かけた。どうしてあんな薄暗いところでと不思議に思った時、おばの誰かが言った台詞が耳に飛び込んできたのだ。
 まるで隠れるように薄暗いところで、聞かれてはいけない話をするかのように潜めた声で。
 聞いてはいけないことを聞いてしまった。そう思った信一郎は急いで部屋に戻り、タオルケットを頭からかぶったのだった。
 祖父の子供は、二葉ひとりしかいない。なのに、それを飛ばして信一郎に継がせるのだという。本家の跡を継ぐというのがどういうことかおぼろげでも分からないが、信一郎が跡取りだから、両親は本家に行くと奇妙なほど信一郎に気を遣い、親戚のおじやおばたちも彼に甘い顔をするのだ、きっと。
 誰も彼もが、興梠信一郎という存在のその向こう側を見ているようで、一昨年の正月から、本家に行くのは気乗りしなくなった。
 だけど、ひとりで家に残りたい、というわがままが聞き入れられるはずもないし、そんなことを言い出せもしない。一度だけほのめかした時、どうしてそんなことを言うのか何が嫌なのかと、血相を変えた二葉に問い詰められた。怒ったのではなく、自分が何かひどい失敗をしたのではないかと顔を青くして。
 それ以来、本家に行きたくないとは言わないと決めた。だけど、よりいっそう、行きたくなくなったのは間違いなかった。

     ●

 生け垣に囲まれた本家の敷地は広い。信一郎の自宅がいったい何軒入るだろう。
 広い庭には池があり鯉がいて亀もいて、それを皆ですくおうとして祖父の玄一郎に大目玉を食らったことがある。信一郎が小学校に上がる前の話だ。彰二も池で遊びたがるが、昔そんなことがあったので信一郎がいつも引き留めている。
 さらに中庭や裏庭、何台も止められる駐車場もあるのに、家自体もとても広い。部分的に二階建てになっているが基本的には平屋だ。しかもそれとは別に離れがあって、二階建てのそれがようやく普通の一戸建てといった大きさである。
 駐車場には既に何台もの車が止まっていた。母屋に入ると、広いというのにとてもにぎやかだった。
「あら、信ちゃんたち。いらっしゃい」
 おばのひとりが明るく出迎え、家の奥に向かって大声で、信一郎の一家が到着したことを告げた。
 大広間の障子が開いておじたちが顔をのぞかせ、口々によく来たなと言った。
 信一郎の一家に限らず、本家で寝起きする部屋は家族によって大体決まっている。信一郎たちは母屋の奥まった、日当たりの良い六畳二間だ。ふすまで仕切って一方は子供が、一方は両親が使っている。廊下をさらに奥に進んで突き当たりを曲がると、そこが祖父の部屋だ。二葉が本家の一人娘だからここがあてがわれているのだろうか、と一昨年から信一郎は考えている。
「兄ちゃん。早くみんなのとこに行こうよ」
 すっかり車酔いから立ち直った彰二に腕を引かれた。
 本家に来るのは嫌だけど、同年代の親戚に会うのは楽しい。両親と一緒に大広間で顔見せ程度に挨拶したあと、彰二の手を引いて子供たちの集まる部屋へ走っていった。
 エアコンのきいた十畳の和室には先に到着した子供たちが六人ほどいて、同じ携帯ゲーム機で遊んでいる。信一郎たちもすぐその輪に加わって、最近はまっているソフトを見せ合ったり、同じゲームをいかに自分がやりこんでいるか自慢し合ったり。気が付けばあっという間に夕食の時間になっていて、呼びに来たおばのひとりに「いつまでゲームしてるの!」と大声でどやされて、みんなで慌てて大広間へ移動した。
 挨拶に来た時はいなかった玄一郎も、今は大広間のいちばん奥まった場所にいる。信一郎たちの家族は、食事の時も玄一郎のいちばん近くが定位置だ。玄一郎のしわだらけの顔はいつも怒っているように見える。そして実際に厳しい人だから、怒るのは珍しいことではない。子供だけで集まって食べる方が楽しいが、食事は家族同士集まって食べるのが昔からの習わしだ。もっとも、夕食はそのまま宴会になるから、その時になると大人たちは好きなところに好きなように座って飲んでいる。
 そこからは、再び子供だけの時間だ。父親たちはお酒を飲んでいるし、母親たちは台所で片付けに次のつまみの準備にと忙しい。早く宿題をしなさいとか、お風呂に入りなさいとか、口うるさく言う人はいない。思う存分遊べる。
「兄ちゃんのゲームやらせてよう」
 しばらくはみんな夕食前の続きをやっていた。だけど、切りのいいところまでやるか飽きるかして、違うゲームを始めている子もいる。彰二は多分、うまくいかないことが続いて飽きてしまったのだろう。そして、人のやっているゲームがうらやましくなったのだ。信一郎の腕を引いて、しきりにやらせてくれとねだる。
 全然切りが良くないしいいところだから中断したくない。それに、今やっているソフトは信一郎がお小遣いをためて買ったものだ。彰二は飽きるまで返してくれないから、クリアするまで貸したくはない。
「ねえ兄ちゃぁん。やらせてよぉー」
 彰二はだんだんとだだをこねる声になっていく。だめだと何度言っても聞かず、信一郎の背中をぽかぽか叩きはじめた。信一郎より一学年上のはとこが、見かねて「わたしのやっていいよ」と彰二の気を逸らそうとするけど、彰二は信一郎のやっているゲームがやりたいと、とうとう泣き出してしまった。
 その大声に、ほかの子たちは困ったように顔を見合わせたり、彰二と同じくらいの子はよく分からずぽかんとしたりしている。先ほどのはとこには、貸してあげればいいのにと冷ややかな目で見られたが、そうは言ってもこのソフトは親に買ってもらったものではないし、こうなったらどっちみち彰二はしばらく何をしても泣きやまない。
 そのうち、彰二は泣きじゃくりながら部屋を出ていった。二葉のところに行ったのだ。
 これで落ち着いてゲームができる。やれやれと肩をすくめていたら、ずっとBGMのように聞こえていた大広間の喧噪が、ぴたりと止まった。誰かが怒鳴っている声だけが聞こえる。でも何を言っているかは分からず、声はもう一度か二度、何かを言ってから聞こえなくなった。
 今度はいったい何なのだろうと、信一郎たちはまた顔を見合わせる。しばらくすると、寄せる波のように大広間の喧噪が戻ってきた。

     ●

 その日の夜中、トイレに行きたくなって信一郎は布団を抜け出した。大広間ではまだ飲んでいるようだ。障子越しに届く明かりが、廊下をぼんやりと照らしている。
「――なが集まっているところで、みっともない」
 みしりと廊下を軋ませた時、奥から聞こえた祖父の吐き捨てるような声に思わず足を止めた。
「信一郎のものは信一郎のものだ。彰二がそれを欲しがってはいかん。ちゃんとそう教えているのか」
「はい……」
「ですがお義父さん、彰二も本気で欲しがったわけではないですよ。ただ信一郎のが少しうらやましかっただ――」
「うらやましがってもいかん。それと邦克くん。わたしは今、二葉に言っている。――いいか、二葉。信一郎のものをうらやましがるのも欲しがるのもだめだと、彰二にちゃんと教えておけ」
 トイレに行きたかったはずなのにすっかりそんな気がなくなり、信一郎は足音を忍ばせて、一昨年の夏と同じように布団の潜り込んだ。隣では、何も知らない彰二が寝息を立てている。
 あのソフトは信一郎が小遣いをためて買ったものだから、信一郎のものだ。ねだられても彰二にまだ貸したくないと思った。
 だけど、両親が祖父に怒られるようなことなのだろうか。少しくらい貸してやれ、と信一郎が叱りつけられてもいいのではないのだろうか。

     ●
 
 本家に一族郎党が集まったその夜は自由気ままに過ごせるが、次の日からは大人たちが目を光らせるので、遊んでばかりもいられない。一つの部屋に集められて机を並べ、みんなで宿題だ。
 信一郎は休みに入ると宿題を先に片付けるタイプなので、お盆の頃まで残っている宿題はそう多くない。あとは習字と読書感想文、それから課題研究だ。
 習字は家に帰ってから、読書感想文は課題図書を読んでいる最中。お盆の間に課題研究を片付けてしまおうと、前々から決めていた。
 県では最近、記紀編纂1300年を記念していろいろな事業やイベントをやっている。県がやるからには、当然公立学校でもやる。日本の神話について調べてみよう、というのが課題研究のテーマだった。
 図書館に行けば関連の本はたくさんあるはずだけど、どの学校でも同じテーマになっているのかいつ行っても貸出中で、参考になる本がない。ならばインターネットで調べればいいかと言えば、それも簡単にはいかない。身近にある神社の起源なども調べなければならないのだ。有名な神社はともかく、地元の小さい神社の起源なんてネットには載っていないだろう。
 しかし、信一郎にはあてがあった。本家の一角に、古いけれど日本の神話関連の本が何冊も入っている本棚があるのだ。何年か前、探検と称してみんなで家のあちこちをのぞいた時に見たのを覚えている。
 その部屋は、信一郎の一家が泊まる部屋の、中庭を挟んだ向かいにあった。鍵はかかっていない。八畳の和室に古そうなカーペットが敷いてある。窓際には勉強机、その脇に例の本棚。壁には古いカレンダー。――かつて、この部屋に住人がいたことを伺わせる。二葉の部屋だったのだろうか。でも、母が神話に興味があるとは聞いたことがない。
 覚えていたらあとで訊いてみよう。それより今は、課題研究を片付けるのが先である。並んでいる本はどれも古いけど、神話なのだから本が古くても新しくても中身はきっと変わってないはず。
 適当に引っ張り出してぱらぱらとページをめくり、めぼしい本を勉強机に置いていく。何冊目かを引き出した時、薄いノートのようなものがその本に引きずられるように出てきた。
 ノートと言うよりは薄い手帳のようだった。何気なく手に取ってみて、その表書きに思わず声をこぼしていた。
「なん……だよ、これ……」
 それは母子健康手帳で、保護者の名前は『興梠一美』と書いてある。
 二葉は一人娘だ。でも、かつて姉がいたそうだ。仏間には遺影があって、本家の墓にその名前が刻まれている。若くして亡くなった伯母の名が、一美ではなかっただろうか。
 ここは二葉ではなく、姉の一美の部屋なのだ。だから、彼女の母子健康手帳があったのは分かる。
 だけど何故、そこに記されている子供の名前が『興梠信一郎』なのだろう。
 震える手でページをめくる。妊娠の経過や検診の結果が日付入りで記録されている。出産の記録に辿り着いた信一郎は、もう一度、同じ台詞を呟いた。生年月日は、信一郎とまったく同じ。産まれた場所も、昔二葉に訊いて教えてもらったのと同じ病院だった。
 今度は急いで、前のページに戻る。保護者の詳細の記載があるページだ。でも、そこに父親の名前は書いてなかった。
 どれくらいそこに立ち尽くしていたのか分からない。エアコンも扇風機もなく窓も開けていない。窓ガラス越しに蝉時雨が届いて余計に暑くて仕方がないのに、信一郎は凍り付いたように動けなかった。
「信一郎? こんなところにいたの。もうお昼だから――」
 ドアは開け放したままだったから、それで気付いたのだろう。二葉が顔をのぞかせる。そして、信一郎の手にしているものを見て息を飲むのが分かった。二葉はこの手帳の存在を知っているのだと、信一郎は直感した。
「母さん……これ、どういうこと?」
 ここに書いてある『興梠信一郎』は信一郎のことなのだろうか。それとも、存在を知らないいとこなのだろうか。だけど、名前の漢字も生年月日もまったく同じという偶然があるとは思えない。そうなると意味するところは――。
「ここに勝手に入ったのがお祖父ちゃんに知られたら怒られるわよ、信一郎。その本も元通りにして」
 しかし、二葉は信一郎の示した手帳には目もくれず、机の上に積まれた本を指さす。いつになく固く厳しい表情で、重ねて問おうとした信一郎は、それに気圧されて結局何も訊けなかった。
 大広間に向かう間、二葉は何も言わなかったし、信一郎もやっぱり何も言えなかった。
 午後は、子供達が待ちわびていた自由時間である。誰かがセミ取りに行こうと言い出して、みんなで出かけることになった。彰二も嬉しそうに出かける準備をしている。
 そんな中、信一郎はひとりだけ別行動を取った。彰二のことは、一つ上のはとこに頼んだ。あとでアイスをおごる羽目になったけど、どうしても調べなければ気が済まないことがあったから、それを承諾した。

     ●

 真夏の日差しは肌が焦げそうなほど強い。帽子はかぶってきたけど、タオルも持ってくれば良かった。本家を出てまだそんなに歩いていないのに、もう額から汗が流れていた。
 記憶を頼りに、信一郎は本家の墓に向かっていた。猛暑日の田舎道を歩く人の姿はほかにないから誰に尋ねようがなく少々不安だったが、やがて雑木林の中に見覚えのある霊園が見えた。
 耳が痛くなるほど、セミたちが鳴いている。小さい霊園にもやはり人の姿はないものの、お盆だからどの墓にも新しい花が生けてある。興梠家の墓も同じだ。
 普通の家の二つ分の広さがあって、入り口には小さな門柱まである立派な造りである。信一郎はその端に立っている墓標に駆け寄った。
 最後に亡くなった興梠本家の人は、信一郎の祖母だ。その隣に、興梠一美の名前が刻まれている。『興梠信一郎』が産まれてから半年も経たないうちに、彼女は亡くなっていた。
 墓へ来たからには手を合わせておかなければまずい気がして、信一郎は目をつぶって手を合わせた。いつもは祖母や会ったこともないご先祖様に帰ってきましたと胸中で言うが、今日は何も浮かんでこない。
 これはいったいどういうことなのだろう、という疑問が頭の中でぐるぐると渦巻いていた。
 『興梠信一郎』と書いてあった母子健康手帳。訊いても何も答えない二葉。信一郎のものを欲しがるなと怒る玄一郎。本家の跡取りは信一郎だとささやくおばたち。
 ――信一郎の母は、二葉ではないのだろうか。父は、邦克ではないのだろうか。彰二とは、兄弟ではないのだろうか。
 自分の立っていた場所が急に不安定になってしまったみたいで、急ぎ足で来た行きと違い、今は引きずるような足取りになっていた。
 あんなもの、見つけなければ良かった。
 鼻の奥がつんと痛くなり、信一郎は慌てて上を向いた。誰もいないけど、泣くのはごめんだ。だけど、目頭が熱くなるのを止められない――。
「信一郎。泣いてるの?」
 不意に、降りしきる蝉時雨の中、女の声が届いた。
 手の甲で目のあたりを拭っていたのを誰かに見られた。信一郎は慌てて手を下ろして、声のした方を向く。
 霊園に続く道から外れた雑木林の奥、生い茂る緑の合間を縫っていく筋もの光が差し込んでいる。天然のスポットライトを浴びて、彼女は立っていた。
 そのすぐそばには古ぼけた小さな鳥居があって、鳥居の向こうには小さな祠がある。あんなところに神社があったなんて知らなかった。
「泣いてたでしょ」
 二十代前半くらいの彼女は、いたずらっぽい笑みを浮かべる。信一郎と呼んだから親戚の誰かだろうかと思ったけど、大広間に集まった中に彼女はいなかった。知らない人だ。だけど、見たことがあるような気がする。
「誰かに意地悪言われたの?」
 どこで見たのだったろう。
 信一郎が立ちすくんで思い出そうとしている間に、彼女は下草を踏みしだいて近付いてくる。
 親しげな口調に、優しい表情。やはりどこかで見たことがある。めったに会わない親戚の誰かだろうか。
「あの……どうして、僕の名前知ってるんですか」
 彼女が近付いてきたので、信一郎は慌てて目元を拭っていた手を下ろした。
「生まれる前から、信一郎を知っているから」
 すぐそばまで来た彼女は、謎めいた笑みを浮かべる。
「じゃあ、興梠の家の人?」
 生まれる前から知っているとなると、やはり親戚なのだろう。
「信一郎もわたしを知ってるはずよ。小さい頃から何度も何度も、会ってるから」
 首を傾げるしかない。そう言われても、どこかで見た気はするものの、誰なのかがいっこうに思い出せないのだ。何度も会っていれば、小さくても覚えていそうなものなのに。
「わたしのことは、二葉も、邦克も知ってるわよ」
「え」
 両親の名前を知っているとなればやはり親戚に違いない。だけど、まだ二十代前半の彼女が、四十近い二人を呼び捨てにしたことにぎょっとした。
「――おねえさんは、誰なんですか」
 顎くらいの高さで切りそろえた黒髪を揺らし、驚く信一郎をおかしげに見ている。
「わたしは、かずみ」
 紅い唇を綻ばせて秘密を明かすように告げられた名前に、信一郎は再び驚いた。
 名字は。
 そう訊こうとした瞬間、前触れもなく強風が吹き抜けて帽子が飛ばされた。
 風に運ばれる帽子を慌てて追いかけて拾い上げ、振り返ると彼女はいなくなっていた。
 雑木林の中とは言っても見通しが悪いわけではない。だけど三百六十度見回しても、影も形も見当たらない。唯一隠れられそうなのは、神社の祠くらいだ。
 ほんの数秒の間にあそこまで行って身を隠せるのか疑問だけど、かずみと名乗った女性はどこにもいないのだから、可能性としてはそれがいちばん高い。
 近付いて見ると祠は思っていた以上に小さかったが、扉を開けたら大人ひとりくらいは入れそうだ。でも、風雨にさらされて古ぼけているものの、長年人が触った形跡がない。
 もう少しよく見ようと裏手に回って、山の斜面にぽっかりと空いた洞穴を見つけた。正面からだとちょうど祠に隠れて見えない位置にある。自然にできた穴のようで、身を屈めれば大人でも簡単に入れそうなほどの大きさだ。奥は結構深いのか、洞穴の入り口に草が茂っているせいもあって、黒々とした穴はどこまでも続いているように見えた。
 彼女は、ここに隠れているのかもしれない。そんなことをする目的は分からないけど、周辺で姿を隠せそうなのはここしかないようだった。
 草をかき分け、恐る恐る中をのぞき込んでみる。光の届く範囲には何もなく、相当奥行きがあるのかひんやりとした空気が流れてくる。
「兄ちゃん、なにしてるのー!?」
 もっと奥をのぞいてみたい、と信一郎が洞穴に手をかけて頭を半分つっこんでいたら、遠くから彰二の声がして心底驚き、その弾みで低い天井に頭をぶつけてしまった。
 下草を踏む音がいくつも近付いてくる。セミ取りに行っていた親戚の子供たちだった。蝉時雨とは別に、カゴの中のセミたちが鳴いていてにぎやかだ。
「あ、どうくつだ!」
 先頭を走っていた彰二が声を弾ませる。ほかの子供たちも歓声を上げるが、彰二の面倒を頼んだはとこが、だめだよ、とみんなを引き留めた。
「そこは危ないから近付いちゃだめって、うちのお母さんが言ってた」
「えー、探検したいー」
「危ないからだめ。それに、奥に行くとコウモリとか、もしかしたらお化けもいるかもよ?」
 はとこのその脅しがきいたのは彰二や小さい子供だけだったけど、年長の言うことを聞かずにいたら、あとで親たちに怒られるかもしれないからと、案外子供たちはあっさりあきらめた。
「信一郎も、セミ取り行こう」
 セミ取りをしたい気分ではなかったけど、ここに残りたいと言えば、彰二たちがまた探検したいと言い出すかもしれないので、信一郎は弟たちのあとに付いていった。

     ●

 昼間は結局、かずみがどこへ行ったのかも、彼女が何者なのかも分からなかった。それに、『興梠信一郎』のことも。
 少なくとも『興梠信一郎』に関しては、このままそっとしておいた方がいいのかもしれない。二葉は『興梠信一郎』について確実に何かを知っているだろうが、あからさまにはぐらかすのだ。信一郎には知らせたくない、あるいは教えたくないと思ったのだろう。理由は分からないが、それを追求して、いい結末が待っているとは、二葉の様子を見る限り思えなかった。
 気にならないと言えば嘘になる。だけど、二葉に問い詰めた結果、訊かなければ良かったと後悔しそうで、それも怖い。あんな手帳、やっぱり見つけなければ良かった。
 別のことに集中して忘れてしまいたいが、信一郎に残されている宿題は課題研究しかない。本家にいる間はそれだけをやろうと思っていたから、読書感想文用の本は家に置いてきてしまっていた。
 ところが、課題研究をするには資料となる本がいる。それがあるのは一美の部屋。今、そこに行くのは気が進まなかった。進まないのだが、お盆休みが終われば部活が再開するし図書館へ行っても相変わらず本は貸出中だろう。
 仕方なく、信一郎は一美の部屋へ向かった。
 必要なものだけ持ってすぐに出ればいい。あの手帳があったところは避ければいい。そう思って部屋に入ったはずなのに、信一郎が真っ先に手を着けたのは、机の引き出しだった。
 引き出しには、ノートや文房具がきれいに整頓されて収まっている。大学ノートの表紙には難しそうな科目名が書いてある。墓碑に刻まれていた一美の享年は二十五歳。ノートは大学の頃のものなのだろう。
 自分はいったい何を探しているのだろうと思いながら、信一郎は引き出しの中をあさるうち、整頓されていたノート類の一番下から一冊のアルバムを見つけた。
 アルバムのタイトルは何も書かれていない。表紙をめくると、高校の卒業式と思われる写真が数枚あった。友人たちで集まって撮ったものらしい。小さく写っている顔のひとつひとつを見ていくうち、信一郎の視線はあるひとりのところで止まった。
 その人物は、大体どの写真にも写りこんでいる。髪の長さは違うものの、写真の中に写っている彼女は、信一郎が雑木林の中で出会ったかずみと同じ顔だった。
 ページを繰ると、大学の入学式、サークルの仲間など、大学生活の一場面を切り取った写真が並んでいる。そのどれにもかずみの姿があった。
 見覚えがあるはずだ。
 このアルバムを見て、信一郎ははっきりと思い出したのだ。仏間に並ぶたくさんの遺影。その中に、興梠一美の写真もあるのだから。
 何故、かずみと伯母の一美はこれほど似ているのだろう。他人の空似と言うには似すぎていて、同一人物かと思うほど似ている。だけど、伯母の一美は十三年も前に亡くなっているのだ。同じ人のはずがない。でも、笑顔で写っている一美は、今日会ったかずみに似ている。
 どういうことだろうと思いながらページを繰るうち、信一郎の目は一枚の写真に釘付けになった。
 どこかの観光地を背景に、若い男女が並んで写っている。恋人同士なのか二人の距離はとても近い。女の方は一美、男の方は――邦克だった。
 邦克の写っている写真は、ほかにも何枚かあった。その中には、一美と仲睦まじく肩を寄せ合って写っているものもある。
 これはどういうことなのか――と、二葉と邦克にあえて訊かなくても。
「信一郎」
 固い声で呼ばれ、信一郎はびくりと体を揺らした。
「ここに入ってはだめと、昼も言ったでしょう」
 エプロン姿の二葉が、険しい顔をして立っている。あたりは薄暗く、そろそろ夕食のできあがった頃だから、探しに来たのだろう。
「母さん。この写真、ここに写ってるのは父さんと、一美伯母さんだよね」
 二葉は昼よりも厳しい顔をしているが、信一郎も今度は退かなかった。一美と邦克が一緒に写っている写真を二葉に突きつける。
「『興梠信一郎』って書いてある一美伯母さんの母子健康手帳もあった」
 二葉は唇を固く閉じて、じっと信一郎を見ている。写真を見ようとはしなかった。だけど、この写真の存在を知らないはずがないだろうと直感で思った。
「俺は、本当は、母さんじゃなくて、一美伯母さんの子供なの?」
 昼に手帳を見つけた時から、薄々そうではないかと思っていた。でもいざ口にしてみると、自分で思っていた以上にショックだった。
 二葉と血縁関係がないわけではない。彰二とも。父親は、きっと邦克だ。でもやっぱり、今まで信じていたものが違うと分かると、確かだった何かをなくしてしまった喪失感に襲われる。
「――信一郎。あなたはわたしの子よ。誰が、何と言おうと」
「でも」
「わたしと、お父さんの子よ」
 二葉が珍しく強い声でそう言うのだから、信一郎はもっと喜んでもいいはずだ。だけど、写真と母子健康手帳の存在が、二葉の言葉を否定している。
 自分はいったい何を信じればいいのだろう。

     ●

 その日の夜中、眠っていた信一郎はふと目を覚ました。
 大広間の宴会も終わったようで、しんと静かだ。物音を立てないように気を付けて、信一郎は部屋を抜け出した。ビーチサンダルをつっかけて、夜でも鍵をかけない玄関から外に出る。
 街灯もほとんどない田舎だが、満月に近い月と晴天のおかげで白々と明るい。
 どうして真夜中に外へ出ようと思ったのか、自分でも分からない。二葉や玄一郎に知られたらきっと怒られる。だけど、誰かに呼ばれたような気がして、信一郎はそこへ向かわずにはいられなかった。
 熱帯夜だけど、昼間ほど暑くはない。耳が痛くなるほどだった蝉時雨は今はなく、夜の虫たちがひっそりと鳴いている。
「来たわね、信一郎……」
 雑木林の中はさすがに目をこらさなければならなかった。だけど、神社のそばに立つかずみの姿は不思議とはっきり見える。改めて見ると、一美と瓜二つ。同一人物としか思えない。
「――あなたは、俺の母さんなの……?」
「そうよ。わたしは、興梠一美。二葉の姉で、あなたのお母さん」
 ふふっと一美が笑う。
 夢を見ているのかもしれない、と思った。信一郎の母は二葉で、伯母の一美は十三年前に亡くなっているのだ。この世にもういない人が目の前にいて、話ができるはずがない。
「どうして、ここにいるの」
 興梠一美で母だと言われても、信一郎は彼女を何と呼べばいいのか分からない。
「わたしは十三年前、ここで死んだから。正確に言えば、祠の裏にある洞穴の中で」
 これが現実なのかとても曖昧だった。じっとりと汗ばむ暑さは生々しいけど、夢を見ているようなふわふわとした心地もまとわりついて離れない。
「信一郎、この神社の名前を知ってる?」
「……知らない」
 一美と会った昼、初めて存在を知ったくらいなのだ。名前など知りようもない。
「ここは石永神社といって、イワナガヒメをまつっているの。イワナガヒメは知ってる?」
 イワナガヒメは知っていた。
 日本神話に出てくる人物で、妹のコノハナサクヤヒメと一緒にニニギノミコトに嫁いだものの、イワナガヒメは醜かったために一日で親元へ送り返されたのだ。
 よく知っているわね、と一美は微笑んだ。
「ニニギノミコトの命が岩のように永遠のものとなることを願って、父親であるオオヤマツミはイワナガヒメを嫁がせたのに、肝心のニニギノミコトは顔が醜いというだけで送り返して、美人なコノハナサクヤヒメだけを妻とした――神話とはいえ、ひどい話よね」
 見た目だけで判断されたのだから確かにひどくはあるが、いきなり同意を求められても信一郎は何とも答えようがない。
「ふふ。わたしと二葉も、イワナガヒメとコノハナサクヤヒメみたいだったのよ。わたしは美人じゃないけど、二葉は近所でも評判の美人だった」
 そう言えば授業参観のたび、二葉を見た同級生にきれいなお母さんでうらやましい、と言われる。自分の親のことでしかも毎日見ていると、美人かどうかはよく分からない。それに、一美はイワナガヒメのように醜いとは思わなかった。
「だから、邦克は二葉を選んだ――懐かしい話よねえ?」
 そう言う一美の視線は信一郎を通り越している。
 振り返ると、二葉と邦克が寝間着姿のまま、そこにいた。
「本当に、姉さんなの?」
「一美。どうして、お前が……」
 驚愕に目を見開く二人の顔が青白いのは、果たして月明かりのせいだけなのだろうか。
「お盆だもの、里帰りするわよ。そのついでに、自分の息子に会ってもいいじゃない。ねえ、信一郎?」
 一美は猫なで声で、信一郎の頬をなでる。ぞっとするほど冷たい手だった。
「信一郎から離れて、姉さん! その子は、もうわたしの息子なのよ!」
 二葉が前に踏み出して大声を上げた。彼女がそんなに声を張り上げるところを、信一郎は見たことがない。
「二葉。あなた、わたしから恋人を奪うだけじゃ飽きたらず、息子も奪おうと言うの?」
「それは……わたしが悪かったわ。でも、信一郎は」
「信一郎はわたしの息子よ。二葉の子じゃないわ」
 ああやっぱりと思いながら、信一郎は大人たちの会話を聞いていた。
 一美の冷たい手が、信一郎の腕を掴む。
「信一郎、あなたを迎えに来たの。一緒に行きましょう」
「一緒にって……どこに?」
「黄泉の国。イザナミ様も、喜んであなたを迎え入れてくれるわ」
 あの洞穴から行けるのよ、と一美は祠の裏手を指す。イザナミ様というのは、きっと神話に出てくるイザナミノミコトのことだ。
 信一郎がぞっとしたのは、一美の手が冷たかったからでも、驚くほど強い力で掴まれたからでもない。死者の国へ行こう、と言われたからだ。
「姉さん!」
「一美、それはだめだ!」
 邦克が、悲痛な声で叫んだ。そんな邦克を一美は冷たい目で見る。
「あなたに捨てられたわたしは、悲嘆にくれたまま黄泉の国へ行ったの。イザナミ様とイワナガヒメは、そんなわたしにとても同情して労ってくれたわ。わたしを裏切った二葉と邦克の元にいるより、わたしと一緒に黄泉へ行く方が、信一郎にとって幸せよ」
 自分の腕を掴む一美の手を、信一郎は掴んだ。
「――だ」
「信一郎?」
「嫌だ。俺、行きたくないよ」
 一美の指を引きはがそうとする。だけど、腕に食い込んだように離れない。このまま、黄泉の国へ連れて行かれるんだろうか。そんなのは嫌だ。
「一美! 信一郎を連れて行ってはいかん!」
 突然のしわがれた声に、一美までも驚いた顔をした。
 肩で息をしている玄一郎が、二葉たちの後ろにいた。
「お父さん……どうしてよ。だって、この子はわたしの」
「信一郎はもう二葉と邦克くんの子だ。生まれたその子の面倒も見ずに恨み言を残して死んだお前が、今更母だと言うな!」
 一美の表情が凍り付き、それからひび割れたように泣き崩れる。
 腕の力が緩み、信一郎は解放された。だけど、雑木林の中に響く嗚咽に胸が痛み、その場から動けない。
「信一郎……」
 二葉たちは信一郎に駆け寄ろうとしたけど、信一郎が動かないからためらっているようだった。そんな両親や祖父を振り返り、大丈夫だと言うように、信一郎は頷く。
「一緒には行けないよ。でも、産んでくれてありがとう……母さん」
 一美が涙に濡れた顔を上げる。はじめ驚いていたが、嬉しそうに表情を綻ばせる。それと同時に彼女の姿は薄くなっていき、やがて夜の中に溶けて消えた。

〈了〉