竹林の君

 月が美しく輝く夜だった。
 夜空であるのに月明かりが満ちた空はほのかに蒼く、漂う薄雲も淡い光に照らされて陰影をつくっていた。
 耳を澄ませてようやく葉擦れの音が聞こえるほどの風が吹き抜けていく。前の風が通り抜け、次の風がやって来るのを感じながら、今宵も静かであるなと月を見上げていた。
 君と出会ったのは、そんな夜だった。
 一陣の強い風が吹き抜けたかと思うと、小さな君を連れた君の母上が、そこに立っていた。
「こんなところまでは、きっと誰も捜しに来ないわ」
 君の母上は、愛おしげに君の額に接吻をした。顔には疲れとやつれが露わに出ていたが、安堵もあった。
 おもむろに母上は表情を引き締めて、しなやかにしなる竹の節のひとつに触れる。
「――今日からここが、あなたのおうちよ」
 母上は君をそっと竹に押し当てた。君は竹に溶け込むようにするりと、竹の節の中へ入ってしまった。君は小さな赤子だったけど、節の中へ入れるほど小さくはなかった。それでも、母上が何かふしぎの術を使ったのだろう、君は竹の中にすっぽりと収まった。
 竹の中に入ってもう姿の見えなくなった君。しかし母上には、君の安らかな寝顔が目に焼き付いていたに違いない。君を入れた節に手を添え額を押し当て、涙を流しながら約束した。
「いつか――いつか必ず、ほとぼりが冷めたらあなたを迎えに来るから」
 それまでこの子を預かっていて。
 最後のささやきは君に向けたものでなく、君を取り込んでも変わらずしなやかに揺れる竹にだった。母上の哀願に応えるように竹林中の竹がしなり、葉擦れの音、上の方で竹同士のぶつかる軽やかな音がした。母上は未練を断ち切るように目元の涙を拭い、静かに耳を傾けていた。
 母上は現れたときと同じように、突然に姿を消した。あとには、君と母上が現れる前と同じ静かな夜があるばかり。君は何事もなかったように――何事も知らないかのように、すやすやと竹のゆりかごの中で眠っていた。
 母上のふしぎの術は、君を竹の中へ入れるだけではなかった。竹の中に入った君に流れる時間はとても、とてもゆっくりとしていた。
 夏が終わり、秋が来て、辺りが白い雪に覆われて、春に筍たちが一斉に芽を出してもなお、君は安らかに眠っていた。何度も何度も季節が巡っても、君は一度も目覚めることはなかった。
 君が初めて目を覚ましたのは、君がここへ来てから十度目の春の終わり、暖かく晴れた日だった。母上がそばにいないことに気付いた君はひどく泣いて泣いて、翁が君を見つけるきっかけになった。
 母上のふしぎの術は鉈で一刀両断。人の良さそうな翁は、竹の中で泣きじゃくる君を見て腰を抜かさんばかりに驚いていた。それでも翁は大事なものを扱うように君を家に連れて帰ったのだった。
 竹の中から連れ出されて、君に流れる時間は再び正常に戻った。いや、ほとんど止まっていると言っていいほどゆっくりだったせいか、翁も媼も驚くべき速さで成長した。
 一年と経たず、君は美しい娘になっていた。母上によく似ている。
 君の眠っていた竹林と翁の家はさほど遠くなくて、君はよくここへ来る。母上のことを覚えていない君にとって、ここは生まれ故郷のようなものだから。
「竹から生まれたから気味が悪い、と言われるの」
 翁と媼は、君を目に入れても痛くないほどにかわいがっている。すると、二人ではなくその他の誰かが言っているということだ。誰が、そんな心ないことを君に言ったんだい。
「はす向かいのサラちゃんが。わたしの目が青いのは、竹から生まれたせいだって。そうも言うの」
 君は太い竹のひとつにしながれかかり、悲しげに息をつく。青い竹の滑らかでひんやりとした感触が気持ち良いと、君はいつも思う。
 君は竹の中に預けられただけで、ちゃんと人間の母上がいる。母上も瞳は青かった。ここではない、遠い遠い異国から来たのだろう。はるか遠い西の地には、青や緑の瞳をした人々がいるという。
「わたし、おじい様かおばあ様に似ていれば良かった。そうすれば、あんなこと言われないのに」
 君の気持ちを考えると、複雑だ。君は母上にとてもよく似ているけど、君は母上のことを少しも覚えていない。孫のように大事に慈しみ育ててくれた翁と媼が君にとっての親だから、二人に似ていたかったと言うのも無理はない。
 でも、はす向かいのサラちゃんが君を悪しく言うのには理由がある。サラちゃんは幼なじみのリクが好きだけど、リクは君が好きなのだ。翁に連れられここへ来た君を、リクはたまたま目にした。遠くからだったけど、そのとき一目見ただけで、リクは君を好きになった。サラちゃんはそれが気に入らなくて、君にひどいことを言うのだ。
「……わたしのせいじゃないのに」
 そうだね、君のせいじゃない。君はただ、君としてここにいるだけ。瞳が青かろうと、誰もが息を飲むほど美しい顔立ちをしていようと、君は、君。竹の中で健やかに眠っていた姿も、地面にたくさん散った竹の葉をかき集めて空に向かって放り投げ、舞い落ちるその中ではしゃぐ姿も、他の子供たちとなんら変わらない。他の子供たちと同じように、君を大事に思う親もいる。
「おじい様とおばあ様じゃなくて、わたしの……本当の、お父様とお母様?」
 母上は君とよく似ている。でも髪の色が母上とは違う。つややかな黒は、きっと父上に似ているのだろう。
 君は目を瞬かせる。翁と媼は君にとっての親だ。でも、血の繋がった両親という存在は、君の心の中の何かを、少しだけ動かした。
「お父様とお母様は、どうしてわたしのそばにいてくれなかったの……」
 君は泣きそうな目で言った。湖から水が溢れそうだった。
 父上と母上がそばにいないのは、母上が泣く泣く君を竹の中へ預けたのは、君のせいじゃない。ただの偶然だったのに、とても理不尽な理由で、そうするしかなくなったのだ。
 君を竹の中に預けたあとも、母上は君に語りかけていた。竹林の竹は、地下を這う根でみな繋がっているひとつの個体だ。母上の話は、この林の中にあるすべての竹が知っている。
 君がこの世に生を受けた日は、君の本当の故郷ではとても縁起が良いとされる日だった。その日に生まれた子供は幸せになる、と言われている。
 君の故郷の皇帝の娘も、同じ日に生を受けていた。娘の誕生を喜んだ皇帝は、縁起が良いとされる日の幸運を我が子だけのものにしたいと考えた。そこで皇帝は、その日に生まれた子供は、我が子以外は生まれながらの罪人であるというおふれを出した。皇帝の娘と同じ日に生まれた子供は城に連れ去られ、二度と帰ってこなかった。
 君の母上は産後間もない体にむち打って、厳しい捜索の目をかいくぐって異国へ逃げたのだ。数年経てば、皇帝の娘と同じ日に生まれたかどうかなど分かりようもない。その日が来るまで、安全に身を隠せる場所として、ここを選んだのだ。
「――わたしが、生まれたせいで」
 君は呆然としていた。勘違いは良くない。君のせいなどではないのだ。悪いのは、まともとは到底思えないおふれを出した皇帝だ。
「でも」
 君は今にも泣き出しそうな顔で辺りを見回す。風が通り、葉擦れの音があちこちからする。君のせいではないと、そこら中で言っているのが、君には聞こえるだろう。
「でも……!」
 媼が君を探しに来て、「でも」の続きは聞けなかった。君の言いたかった言葉は、分かる。でも、君のせいじゃない。君のせいでは、決してないのだ。
 美しく成長した君の評判は、風に乗って広がっていった。噂を聞いて、君をぜひ妻にと望む高貴な人々が、毎日のように家を訪ねてくるようにもなった。
 でも君はその誰にも会わず、結婚してはどうかと勧める翁と媼の言葉にも頑として首を縦に振ることはなかった。それどころか、君を諦めきれない熱心な求婚者たちに、君は無理難題をふっかけた。その難題を乗り越えた人の妻になると君は言ったけれど、どれも到底達成できそうなものではなく、案の定、君の出した難題に応えられた者はいなかった。翁と媼も、君に結婚を勧めるのを諦めた。
「ああ、ようやくまた静かな生活に戻ったわ」
 君は晴れやかな顔をしているけど、本当は、少しだけ後悔しているはずだ。熱心な求婚者は五人いて、君はそのうちの一人の男を、心憎からず思っていたのだから。
 求婚者たちと少しは話をしたらどうかと言う媼から、君はいつものように逃げ出してここへ来た。竹にもたれてさわさわと吹く風を頬に感じていると、葉を踏みしだく音がして驚いた。翁が連れ戻しに来たのかと思ったけれど、現れたのは若い男だった。竹林が綺麗だったので散策をしていたと、彼は言う。
 男は、君の姿を見ても何も言わなかった。目の色のことも、言わなかった。
 それから数日に一度、男は竹林を訪れるようになって、君が高貴な人々の間でも噂になっている娘だと知ってから、翁と媼に正式に君との結婚を申し込んだのだ。
 そう、彼は一度、君に直接求婚した。でも君は、翁と媼を通さないと受け入れられないと言い、そして他の求婚者たちに出したのと同じように無理難題を出したのだ。男が君の手を取り、目を見つめてぜひ私の妻にと言ったとき、君は頬を赤らめていたのに。
「……」
 龍が持っている玉を求めて旅立った男は、二年経った今も帰ってこない。君は、彼の帰りを待っているんじゃないのかい。
「……わたしは、罪人だもの。結婚なんて、できないわ」
 罪人なものか、君は何も悪くない。
「悪くないのなら、どうして本当のお母様という人は、わたしを迎えに来ないの。わたしは何年経とうと罪人だから、迎えに来られないんじゃないの?」
 君は、翁と媼から離れたいのかい。
「違う、そんなことない。でも、罪人のわたしが、優しいおじい様とおばあ様のそばにいてもいいのかって思うときが、あるの」
 君は罪人じゃない。
「罪人よ。前はそうじゃなかったかもしれない。でも、わたしと結婚したいって言う人たちに無茶な要求をして。中には、帰ってこない人もいる。わたしの、言ったことのせいで。――だから、わたしはもう立派な罪人だわ」
 君は悪くない。風が吹き抜けて、竹林中がざわめく。伸びた竹の先端同士がぶつかって、軽やかな音が降ってくる。聞こえているかい。誰も君は悪くないと言っている。
「あなたは、何も悪くないわ」
 優しい女の声に、君は心臓が喉から飛び出しそうなほど驚いた。
 君の数十年後のような顔の女が、君を見つめている。月が美しかったあの夜、もっと若々しい姿をしていた女が――君の母上が、そこにいた。
 君は息を飲んで、母上の顔を食い入るように見つめた。顔を見れば、名乗らずとも彼女が何者なのか、君もすぐに分かったのだろう。声にはならなかったけど、君の唇は「お母様」と言っていた。
「大きくなったわね」
 母上は涙のにじむ目を細め、君を見つめる。その眼差しは、君を竹に託したあの夜と少しも変わっていない。
 君は、突然のことにどうすればいいか分からなくて戸惑った表情を浮かべていた。母上が手を伸ばすと、逃げるようにあとずさる。母上は悲しげな表情を浮かべ、君もまた、そんな母上の顔を見て悲しい顔になる。
「……迎えに来るのが遅くなってごめんなさい。でも、もう大丈夫よ。皇女様は降嫁されて幸せな日々を送っているわ。今度は、あなたが幸せになる番よ」
 母上はきっと、君を抱き締めたかっただろう。でもさっき君が思わずあとずさりをしてしまったから、母上はそれを我慢したようだった。
「帰りましょう」
「……すぐには、帰れないわ。おじい様とおばあ様に、お別れを言いたいの」
 君は、帰る決意をした。いや、帰るしかないと思った。帰った先で幸せになれるか分からないけど、ここで過ごす日々はもう潮時なのだ、と思った。
 翁と媼は君をとてもかわいがっている。二人は、君の瞳の色など気にしていない。近所の人たちが、竹から生まれた気味の悪い娘と後ろ指をさしていても、二人はどこ吹く風と君を慈しんだ。翁と媼は隠していたけど、気味の悪い娘を育てる気味の悪い老夫婦だとそしられて色々な苦労をしていたのを、君は知っていた。だから、自分がいなくなれば翁と媼はもう心ない言葉を浴びせられることはない、と思ったのだ。本当の親と時を過ごしたい、という思いもあっただろう、きっと。
 君の気持ちを察した母上は、十日後の満月の夜に迎えに来ると言って、やはりあの夜と同じように姿を消した。
 それから数日は、君は翁と媼に打ち明けられなかった。一緒にいられないと思っても、やはり二人とは離れがたい。でも、君が悲しそうな顔で円に近付く月を見上げているから、翁と媼もただ事ではないと、どうしたのかと君を問い詰めた。君もようやく、迎えが来るから帰らねばならない、と二人に告げた。自分は罪人で、それ故竹の中にいたのだと。
 悲しむ翁と媼を残して去る自分はやはり罪人なのだと、君は思っているのだろう。君は何も悪くないと言っても、自分は罪人だと言って君は受け入れてくれないから、いつまで経っても堂々巡り。ならば、君なりに償っていくしかない。
 月が美しく輝く夜だった。
 夜空であるのに月明かりが満ちた空はほのかに蒼く、漂う薄雲も淡い光に照らされて陰影をつくっていた。
 耳を澄ませてようやく葉擦れの音が聞こえるほどの風が吹き抜けていく。前の風が通り抜け、次の風がやって来るのを感じながら、君は月を見上げていた。君と出会ったときも、こんな夜だったんだよ。
「……綺麗な夜ね」
 腰に届くほど長かった髪は、背の中程までの長さになっていた。滝のように流れる髪を、今日の昼に自らの手で切り落とし、自分だと思ってほしいと翁と媼に渡したのだ。二人は泣きに泣いたけど、君の決意が固いのを知り、また、迎えに来るのが君の母上だと知り、幸せになるのだよと君を送り出すことを決めた。
 君の母上は、やはり風とともに現れた。君は竹林で母上を待っていたけれど、母上は翁と媼にどうしても礼を述べたいと言った。
 瞳の色は君と同じ、でも髪の色は月の光を吸い込んだような黄金色。君を育ててくれた翁と媼は、母上の髪の色に驚いたものの、君とよく似た面差しを見て、君を迎えに来たのは、本当に本当の親だったと知って、固いはずの決意をより固くした。
 煌々と月明かりが降り注ぐ中、母上に肩を抱かれた君は、最後のその瞬間まで翁と媼を見つめていた。風が吹き、二人の姿がかき消えると、竹林の中にこだまするのは、翁と媼がすすり泣く声と、葉擦れの音。風にしなってぶつかり合う竹の音は、いつになく悲しげでうつろで乾いていて、むせび泣く翁と媼に降り注いでいた。竹林は――君が母上に連れられてきたときからずっと君を見守っていたわたしは、翁と媼のように涙を流せないから、いつまでもそうして葉をかき鳴らし、体をぶつけ合って君ともう二度と会えないことを悲しんだ。


 君が去ってから幾年も経って、翁が旅立ち、媼もあとを追うように旅立った。君は帰ってしまったけど、二人は君と過ごせて幸せだったといつも言っていた。時折、弱った足で竹林に来て、君が眠っていた辺りの竹を愛おしげに撫でていた。
 ある日、風がこんな噂話を運んできた。
 君の出した難題に応えるため龍の持つ玉を求めて旅立ったあの男が、はるか西の彼方で生きているという。その地に住む人々は瞳が青や緑の者が珍しくなく、新しく即位した皇帝のもと、平穏な日々を送っている。男は彼の地で青い瞳に黒い髪の娘と夫婦になり、幸せに暮らしているという。
 風が吹き、竹がしなって先端がぶつかり、軽やかな音を立てる。
 今宵の月も美しい。遠く遠く離れても、君が見上げる月は、ここで見ていたのと同じ月だ。男と肩を寄せ合い、見上げているだろうか。その膝には、君か男に似た幼子が座っているだろうか。
 はるか西の地の噂はそれきり流れてこないけど、君はきっと幸せに違いない。

〈了〉