パスワードは「愛してる」

 きっかけがなんだったのも思い出せないような、些細な喧嘩だった。いつもそうだ。おそらくしょうもないことでちょっとした口論が始まり、それがやがて激しくなっていく。
「もう知らない!」
 妻はそう言って、けたたましい音を立ててドアを閉めた。しばらくすると、玄関の開く音。
 いつもこれだ。
 ソファに座ったまま、隈元幸平は天井を仰いだ。
 自宅を出た希和(きわ)が帰ってくるのは、お互いの頭が冷えた頃。今回はいつもよりちょっと怒っていたから、十日は帰ってこないだろう。
 やれやれ、当分は悲惨な生活になる。
 結婚するまで実家暮らし、妻の希和は専業主婦。そのため、幸平は料理はもちろん、家事もできない。希和に教えてもらわなければ、洗濯機も使えない。
 だがもう慣れたもので、危機感はあまりない。結婚して二年。希和が出て行くのはこれで五回目だ。
 いずれ帰ってくるからまあいいかと、たばこに火をつける。希和がいる時はベランダで吸わなければならないから、ここぞとばかりに、ソファにふんぞり返って味わっていた。
 天井に向けてゆるゆる煙を吐いていたとき、チャイムが鳴った。
 希和だろうか。しかし帰って来るには早すぎるし、そもそも鍵を持っているはずだからチャイムを鳴らすわけがない。
 日曜の昼下がり、来るとすればセールスか、宗教か。
 面倒くさいなと思っていたら、もう一度チャイムが鳴った。幸平は灰皿にたばこを押しつけ、玄関に向かう。
「お忙しいところすみません。お時間取らせませんので、ちょっとお話だけでも」
 満面の愛想笑いを浮かべた背広姿の男だった。幸平より少し若い、社会人になって二、三年目と言ったところだろうか。営業スマイルがぼちぼち板についている。
 なんのセールスか知らないが断ろうと幸平が口を開く前に、男はそうはさせじとばかりにまくし立てた。
「私、レンタルのアンドロイドを取り扱っている会社レンタロイドの大桝(おおます)と申します。弊社では外見も中身もお客様のご希望に合わせてカスタマイズしたアンドロイドを、安価にて貸し出しております。弊社のアンドロイドは高性能かつ精密でして、お客様には大変ご好評を頂いておりまして、はい、リピーターになる方も多いのですが、お客様も一体、レンタルしてみませんか」
 小脇に抱えた鞄からチラシを取り出す。
「ただいまキャンペーン中でして、初めてご利用のお客様には大出血サービス価格にて貸し出しいたします。外見、中身のカスタマイズがもちろん可能です、はい。それでなんと一日たったの千円! しかも最大三十日までレンタル可能です。どうですか、この機会に是非一度、お試しいただけませんか」
 人と見分けがつかないほど精巧なアンドロイドが製品化されて早十年。家庭用アンドロイドも販売されているが自動車より高く、幸平のような一般庶民の家庭にはまだまだ普及していない。
 アンドロイドをレンタルする会社は確か近所にあったが、こういう名前だっただろうか。レンタルであっても使い道がないので利用しようと思ったこともないが、レンタロイドとかいう会社の料金が破格に安いのは分かった。レンタカーだってもうちょっとかかる。
「……カスタマイズするのに、どれくらい時間がかかるんだ?」
 押しつけられるように受け取ったチラシには、あまり細かいことが書かれていない。
「今からですと夕方には完了いたします。どうか、是非! 一日だけでもレンタル可能ですので」
「期間は前もって決めないとダメなのかな」
 幸平は脈ありと見て、セールスの男がぐいぐい食いついてくる。
「いいえ、弊社にご連絡いただければ、何日でも延長可能でございます。当初より長くレンタルする場合でも、延滞料金は頂きませんのでご安心ください」
「予定より短くなっても大丈夫?」
「はい、もちろんでございます! お客様のご都合に合わせて貸し出しいたします。あ、ただし今はキャンペーン期間中ですので、一日千円での貸し出しは、最大三十日までとなります。申し訳ありません」
 その時には、幸平の心は決まっていた。
 希和がいなければコンビニ弁当や外食が増えて、一日の出費が千円以上になる。それを考えると、アンドロイドのレンタルは悪くない選択だ。
 注文したのは希和そっくりのアンドロイド。外見は希和にしておかなければ近所の人に不審がられてしまう。ただ、中身は別物にした。性格まで希和に似せる必要はない。どうせ家政婦としてレンタルするのなら、素直でかわいらしい貞淑な妻を演じてほしい、とセールスの男に注文した。
 しかし本当に、夕方までに希和そっくりのアンドロイドを用意できるのだろうか。カスタマイズが終わったらアンドロイド自ら来るそうで、返すときも自分で帰って行くから楽ですよ、と男は言っていた。
 どうせ一日千円。満足できなければすぐに返せばいい。

    ○

 チャイムの鳴る音で、幸平は飛び起きた。
 ソファでまたたばこをふかし、見るともなしにテレビを見ているうち、うたた寝していたらしい。外はもう真っ暗になっている。
 再びチャイムが鳴る。そう言えばアンドロイド。あれはどうなったのだろう。幸平は慌てて玄関に向かった。
 ドアを開けて、息を呑んだ。そこにいたのはどこからどう見ても妻の希和だったのだ。違うと言えば、服装くらい。希和は滅多にスカートをはかないのに、ここにいる希和は裾の長いスカートをはいていた。
 希和が怒りを鎮めて帰ってくるには早すぎる。そうなると、やはりこれはアンドロイド。驚くほどそっくりだ。
「隈元幸平様のお宅でしょうか。私、ご用命を受けてレンタロイドから派遣されたものです」
 一体どうやったのか、声も希和とよく似ている。ただ、本物の希和とは全然違う、たおやかな話し方だ。外見だけでなく中身も、どうやら本当に幸平が注文した通りのようだ。
「俺が、隈元幸平……ですけど」
 希和とそっくりな顔に名乗るのは妙な気分である。
「恐れ入りますが、ご依頼人確認のため、パスワードを入力してください」
 希和の顔と柔らかな口調で事務的なことを言われると、ますます奇妙な気分になる。
 レンタルの注文をした時、はじめにパスワードを入力しなければならないと説明を受けていた。アンドロイドがきちんと依頼人の元に行ったかの確認と、アンドロイドを受け取ったのが間違いなく依頼人であることの確認のためだそうだ。音声認証で、そのためのサンプルは、セールスの男が録音して持ち帰っている。
 幸平は咳払いした。いざ言うとなると言いにくいし、相手は本物ではないと分かっていても、恥ずかしい。
「……愛してる」
 パスワードは何でもいいけど類推されにくいものの方がいいと言われ、それにした。本物の希和には長らく言っていない言葉だ。
「隈元幸平様ご本人であることを確認いたしました。本日よりどうぞよろしくお願いいたします」
 アンドロイドの希和はにっこりと笑い、深々と頭を下げた。
 自分で設定したとはいえ、希和の顔をしているアンドロイド相手でも恥ずかしいのを我慢して言ったのに、こうも事務的に受け流されると、一体なにをやっているのかという空しさを感じなくもない。
「……まあ、じゃあ、うちに入って」
「お邪魔いたします」
 あくまで希和を演じてもらうのだから、他人行儀なところは改めてもらわなければならなさそうだ。
 家の中を一通り案内し終えると、夕飯の用意を頼んだ。アンドロイドのお手並み拝見である。

    ○

「……うまい」
 肉じゃがを一口食べて、幸平は思わず声に出していた。 
「ありがとうございます」
 向かいに座るアンドロイドが、にこにこと言う。
 希和が作る料理とは味つけが違っているが、おいしいかった。と言うよりも、希和が作るものよりうまい。箸が進む。
「お口に合ったみたいで、良かったです」
 アンドロイドは食事の必要がないので、食べる幸平をにこやかに見守っているだけである。だが、初々しさのあるその笑顔は、希和と付き合い始めたばかりの頃を思い出す。あの頃は希和もこんなかわいらしい顔をしていたし、幸平も彼女の作るものを何でもうまいと言って食べていた。
 時の流れがそうさせたのか、夫婦になるとそんなものなのか。希和の料理にうまいと最後に言ったのがいつだったか、まったく思い出せなかった。
 夕食後の後片づけに風呂の用意と、アンドロイドは手際よく動く。当然なのだろうが、文句の一つも言わない。それどころか「お風呂の用意ができました」とか「背中を流しましょうか」とか、本物の希和は絶対言わないことを言ってくれる。
「それでは、おやすみなさい」
 用を言いつければ働くそうだが、幸平が寝ている間にしてもらうようなことはない。そう言うときは省エネモードに切り替わるそうで、見ていたら、リビングのソファに座って目を閉じたかと思うと、そのまま微動だにしなくなった。そういうところを見ると、いくら見た目は希和にそっくりでも、やはりアンドロイドなのだなと思う。
 朝になればタイマーで起動して朝食を用意し、起こしてもくれるという。便利なものだと感心しながら眠りについた。

    ○

 アンドロイドの用意した朝食は、朝から驚くほどのボリュームだった。希和であれば、トーストと茹でたウインナーくらいしか出てこない。それでは昼間で持たないからいつも駅に向かう途中でコンビニに寄っていたが、しばらくその必要はなさそうだ。
 しかも、弁当まで用意していた。もはや衝撃である。希和が弁当を作ってくれたことは一度もない。弁当箱などというものが我が家にあったのかと、それにも驚いた。
「あ、ネクタイ曲がってますよ」
 出勤する幸平を見送りに玄関までついてきて、そしてさりげなく身だしなみを整えてくれる。こんな絵に描いたようなことをまさか体験できるとは思ってもいなかった。アンドロイドはすごい。
 その日、幸平はいつものごとく残業で帰宅が遅くなった。だが、きっとアンドロイドの希和は夕飯を用意して待っていて、にこにこしながらで迎えてくれるのだろう。
「ただいま」
 ドアを開けると、思った通り、アンドロイドがぱたぱたとやって来た。だが、何故か無表情である。
「認識許容時間を超えています。恐れ入りますが、ご依頼人確認のため、パスワードを入力してください」
 てっきり「お帰りなさい」と言われるとばかり思っていたので面食らった。
 セールスの男に言われていたことを思い出す。
 アンドロイドの視界から依頼人がいなくなって一定時間経過すると、パスワードの再入力が必要になる。その時間は十二時間。残業で遅くなればあっさり超過してしまう。
「……愛してる」
 だが、パスワード入力は、一度目のときより恥ずかしくなかった。
「隈元幸平様ご本人であることを確認いたしました。お帰りなさい」
 アンドロイドの希和は、ようやく幸平が期待していた笑顔を浮かべたのだった。

    ○

 パスワード入力を求めるときや確認したあとのやや事務的なところは頂けないが、それ以外は申し分なかった。
 慣れてくれば「愛してる」と言うのも苦ではなく、むしろ必然と感じるようになっていた。
 一日千円でこれは悪くない。良い買い物――ではなく良いレンタルをした。
 一週間経っても本物の希和からはまったく連絡がなく、いつ帰ってくるかも分からなかったが、幸平は気にしていなかった。
 彼からも、希和に特に連絡を取っていない。その必要を感じなくなっていた。

    ○

 その日、幸平は珍しく残業がなく、いつもより早い帰宅となった。
「ただいま」
「お帰りなさい。今日は早かったのね」
 朝、アンドロイドの希和と別れてからまだ半日経っていないので、今日はパスワード入力を求めてこない。
「仕事が早く終わったからね……愛してるよ」
 だが、帰宅したら彼女に愛してると言わなければ、落ち着かなくなっていた。
 希和ははにかみながら、わたしも、と返す。二十日も経つと、ずいぶん変わってくるものだ。
「うん、これもうまいよ」
「本当? 良かったあ」
 食事も和やかである。食べているのは幸平一人だが、希和はずっと嬉しそうな顔で見ているので、特に寂しいとは思わなかった。
 アンドロイドの希和との生活に、すっかり慣れている。彼女といる方が心安らかで、落ち着ける。本物の希和からはやはり何の連絡もこないが、むしろもうこなくて良いとさえ思っていた。
「――それ、誰なの?」
 それなのに、突然の固い声。
 本物の希和が、目を見開いて、ダイニングの入り口に立っていた。
「メールも電話も全然してこないから、どうしてるのかと思ったら――どういうことなの、説明してよ!」
 金切り声をあげ、本物の希和が食卓に手を叩きつける。
「誰なの、その女! どうしてわたしと同じ顔なのよ!」
 希和が指さす先にいるのは、アンドロイドの希和だ。困惑した表情で、怒れる顔の希和を見ている。
「彼女はアンドロイドだよ。希和が出て行ったから、代わりに彼女をレンタルしたんだ」
「ロボット……?」
「よくできたアンドロイドだよ。優しくて、気が利いて、料理もうまい。俺は、彼女で満足してる」
 幸平は箸を置いた。本物の希和を見て、それから、アンドロイドの希和に微笑みかける。
「は……満足してるってなにそれ、わたしはもういらないってこと? まさか、ロボットの方がいいなんて言うんじゃないでしょうね」
 希和が半笑いする。アンドロイドの希和は、そんな無様な顔を決してしないだろう。
「そう言ってるだろう。俺は、彼女がいいんだ」
「幸平、あんたどうかしてるわよ!」
 希和はそう言って、いきなりアンドロイドの希和の胸ぐらを掴んだ。
「やめてください――」
「わたしと同じ顔で、しおらしいふりしないで!」
 甲高い音が響く。希和に平手で頬を打たれ、その勢いでよろめいた希和は壁にぶつかり、くずおれる。
「何をするんだ!」
 幸平は慌てて、床に倒れた希和に駆け寄った。
「レンタルなんでしょ、さっさと返してきなさいよ。わたしが帰ってくるんだから」
 希和が冷たい声で言うが、幸平は聞いていなかった。
 倒れたきり、希和が動かない。抱き上げて顔をのぞき込むと、目の焦点が合っていない。
「――不測のエラーが発生しました。再起動しています……」
 アンドロイドは精密な機械だ。希和に殴られ壁に叩きつけられ、どこか壊れたのかもしれない。くれぐれも取り扱いは丁寧に、とセールスの男に言われていたのに。
「ご、依頼人確認の、ため、パスワードを入力し、てください」
 目の焦点は合わず、声はぎこちない。
「愛してる。希和、愛してるよ」
「ちょっと、幸平。なに、それ……」
「おそれいり、ますが、ご依頼、人、確認のため、パスワードを入力してくださ、い」
 幸平が間近で愛していると言っているのに、希和は認識してくれない。
「愛してる、愛してる……希和、頼む、起きてくれよ……」
「――幸平、あんた、頭おかしいわよ!」
 どたばたとした足音が遠ざかっていく。それが一体誰のものなのか、幸平は考えもしなかった。
 幸平の腕の中でパスワードを求める希和に、呼びかけ続けた。
「愛してる、希和、愛してるよ。だから、起きてくれ。俺を見てくれよ」
「パスワード、を、入力――さい」
 これだけ言っているのに、希和の声はどんどんぎこちなく、声音もおかしくなっていく。
「愛してる、愛してる、愛してる……」
「パスワードを――」
 耳をつんざく電子音が鳴り響き、それきり希和は沈黙する。
 それでもなお、幸平は言い続けた。
 愛してる、愛してる、愛してる、愛してる――君が動かなくなっても、ずっと。 

〈了〉