凍える水色

 王の寝所には、ひと抱えはある黒い桶がある。ずっと昔、かつては王弟だった王が即位した頃からあるという。
 漆塗りの桶はぴたりとはまる蓋をかぶせた上で太い縄で厳重に封印してあり、王はそれを誰にも触らせない。よほど大事なものなのかと思えばしかし、蓋にはうっすら埃が積もり、磨かれた様子がない。
 それでも王は黒い桶に誰も近付けさせず、寝台から見える場所に置いていた。

 あの桶には何が入っているのでございます?

 王の寵愛を一身に受ける妃が尋ねても、王は口元を歪めて笑うだけで中身が何かは明かさず、近付くことを許さない。

 きっとたいそう大事なものが仕舞ってあるに違いない。

 王の身の回りを世話する者はいずれも身元確かで、余計なことを喋らぬ口の堅さが求められるが、人の口に戸は立てられぬというもの。
 王の寝所にある黒い桶とその中身について、様々な憶測が密かに、だがまことしやかにささやかれていた。

   ●

 事実を素っ気なく綴ってあるだけの手紙に目を通すと、シェクタはそれを暖炉に投げ入れた。燃えさかる炎に飲み込まれ、あっという間に灰になる。
 今朝は、この冬初めての霜が降りた。しかし、じいやが夜も明けぬうちから部屋を暖めていてくれたおかげで、寝台を出ても寒さに震えることはなかった。
「……良い知らせではなかったのですね」
 部屋の中も、じいやが淹れてくれた茶も温かい。しかし、シェクタの表情は冷え冷えとしていた。寒い朝に聞く知らせとしては、あるいは相応しかったのかもしれないと皮肉に思う。
「《巫女狩り》が死んだ」
 殺された、と言う方が正しいだろう。
 腕の立つ男だった。隣国から流れてきた傭兵で、報酬と引き換えに、シェクタの残酷で途方もない依頼を引き受けてくれた男だった。
 この国の王は、代々長寿で知られている。暗殺されて短命に終わった王もいるが、概ね長生きだ。それを可能にしているのが『神水』と呼ばれる特別な酒だと言われている。
 その製法を知るのは、《神水の巫女》と呼ばれる女たちだけ。
 シェクタは傭兵に、その女たちを捜し出して殺すことを命じた。
 神水は、限定された条件下でしか育たない特殊な穀物を原料にしており、その栽培を託された一族に守られている。《神水の巫女》は一族の中から選出され、引き継がれていくという。しかし、その一族がどこにいるのか、栽培可能な場所がこの国にどれだけあるのかは明らかにされていない。
 一ヶ所ではないはずだ。神水の原料である穀物はほんのわずかしか取れず、だが王は、頻繁ではないにせよ神水を度々口にしている。それを可能にする程度には、栽培可能な場所と製法を知る巫女がいるはずだとシェクタは考え、傭兵を雇った。
 シェクタが考えていた通り、栽培可能な場所はいくつかあり、その数だけ巫女も存在していた。傭兵が《巫女狩り》と、神水に関わる一族に呼ばれ恐れられるくらいに。だが、その《巫女狩り》もとうとう返り討ちに遭った。
 傭兵の調べたところ《神水の巫女》は、彼を殺した巫女を含めて八人。《巫女狩り》の手にかかったのは、そのうちの五人。神水を根絶やしにすることは叶わなかったが、これまでのような量が、王に献上されることはない。
 ――まずまずの成果は得られたか。
 傭兵にも、巫女たちにも、気の毒なことをしたとは思う。
 シェクタは彼らに何の恨みも抱いていない。彼女が恨んでいるのはむしろ神水だった。王に不老長寿をもたらす珍妙なる酒が、この世から消えてなくなればいいと願っていた。そのためならば、どんな犠牲を払っても構わないと考えていた。
「城へ行く。支度を」
 暖かな炎を見つめる瞳は、あの男と同じ凍える水色。
 恨みもない者を殺せと平気で命じる自分は、やはりあの男の娘なのだろう。

   ●

 今の王は、王弟であった時に兄を弑逆し、王位を簒奪した。
 仲の良い兄弟だと言われていた。王弟は兄である王をよく支え、裏切ることなどあり得ないと誰もが思っていた。
 だがある朝、王の寝所から血濡れた姿で出てきた王弟は、今日から自分がこの国の主であると告げた。寝所には、首のない王の亡骸が転がっていた。
 驚天動地どころの騒ぎではなかったという。しかし、謀反を起こす気配を毛の先ほども見せずに兄の首を刎ね簒奪した王弟に誰もが恐れをなし、兄王の正妃をそのまま自らの正妃とすることにも異論を挟まなかった。
 彼が欲しかったのは、王位と、兄の正妃だった。
 仲の良さなどいくらでも取り繕える。あとから生まれたというだけで王にもなれず、慕っていた姫を兄に奪われ、弟は恨みと妬みを募らせていた。
 その恨みつらみがどれほど根深く、王の心のかなりの部分を占めているのか、シェクタは知っている。
 先の王の正妃であり、今の王の正妃でもある女性が、シェクタの母だ。
 シェクタが生まれたのは、簒奪の後。兄と弟、どちらがシェクタの父親なのか誰にも分からない。面立ちは母親似だが、瞳の色は今の王と同じ。だから恐らく彼が父親なのだろう。
 だが、愛情というものを父である王から感じたことはない。王が愛情――愛憎かもしれない――を注ぐ相手は、常に妃であるシェクタの母のみ。シェクタの後に生まれた、紛れもなく王の子である弟たちにも向けられた試しはなかった。
 父であろう王と母が、今のシェクタと同じくらいの歳だった頃、二人は夫婦になろうと密かに誓い合ったらしい。しかし、約束は反故にされ、母は先の王の正妃となった。
 王が簒奪して母を手に入れ、今もそばを離れるのを許さないのはそんな過去があったからだ、と少しだけお喋りな乳母がいつだったか教えてくれた。
 その話が嘘かまことか、母は重要なことではないと言って話そうとしない。前の夫を殺した男の妻にされたというのに、母はたいして王を恨んでいないようだった。正妃という立場の方が、よほど大事なのだろう。
 弟に裏切られ、妻だった女に顧みられることもなく。
 ――あなたは、さて、どれだけ彼らを恨んでいるだろうか。
 それとも、安らかに眠れる日を夢見ているのだろうか。

   ●

 王はこのところ体調が優れず、寝所から出られない日もある。
 シェクタの依頼を受けた傭兵が《巫女狩り》と呼ばれるようになった頃からだ。神水によって抑えられていた持病が、にわかに息を吹き返したのだろう。
 傭兵は殺されたが、これほど弱っているのならば大丈夫だろう。
「昨日、北の地より林檎が献上されたので、見舞いの品にと持参しました」
 侍従に持たせた籠には、紅玉のように赤い林檎がいっぱいに入っている。それを母に渡すと、シェクタは侍従を下がらせた。王は、寝所では母と二人きりでいるのを好むため、シェクタの侍従がいなくなると親子三人だけになる。
 寝台の傍らで王を看ている母が、手ずからその皮を剥いて食べやすい大きさに切り分け、王の口元へ運ぶ。王は嬉しそうに、だが弱々しくそれを咀嚼し、母にも食べるように勧めた。シェクタを一瞥もしないが、いつものことである。
 美味しいですねと林檎をほおばる母と、嬉しそうな顔でそれを見守る王は、仲睦まじい夫婦そのものである。簒奪という陰惨な過去などなかったものであるかのように。
 だが、寝所は再び血で染まる。
 まず王が吐血し、驚いた母が、次いで血を吐いた。悲鳴を上げる間もなく血を吐いた二人を、シェクタは冷ややかな目で見つめていた。
 まだ息はあるようだ。しかし、長くはもたないだろう。
 シェクタは立ち上がり、寝台から見える場所に置かれている黒い桶に向かった。
 縄を解き、蓋をそっと持ち上げる。
 王が誰も近付くのを許さなかった桶。その中に入っている、きっと王の大事なものに違いないと噂されているもの。それは――先の王の首級。
 刎ねた兄の首を、弟はこの桶に入れ、長らくそばに置いていたのである。
 首は、少々青白いが、今も生きているかのような血色だった。
 ――これで、生きている、と言うのならば。
 恐らく、生きているのだろう。
 桶からはむせかえるような酒の匂いがした。神水である。
 弟は、首だけにした兄を生き長らえさせるため、神水に浸していたのだ。
 情けをかけたのではない。首だけになって声も出せない兄に、彼のものをすべて奪ったことを聞かせるために、こうしているのだ。
 先の王が、きょろりと眼を動かして、シェクタを見た。蓋を開けたのが弟ではないと知って、驚いているようだった。
「あなたはもう、眠って良いのです」
 桶の中から首をそっと取り出す。
 しばらくは目をしばたたかせ、先の王はまっすぐにシェクタを見ていたが、やがて動かなくなった。
 シェクタの父親は、先の王なのか、今の王なのか、分からない。
 先の王もまた、冷え冷えとした水色の瞳をしていた。

〈了〉