神の水

 男手でなければ動かせないような、大きく厚く重い扉を開けたのは、一人の男だった。
 今宵は晴れているのだろう。扉が開いたことで、松明の炎しかなかった洞の中に、柔らかな白い明かりが差し込む。
 しかしそのせいで、ラキが振り返っても、逆光となって男の顔は見えなかった。
「お前が、《神水の巫女》か」
 張りのある声で、男が若いと知れた。もっとも、今年で十七になったラキよりも歳は上だろう。
 この国では、十六で成人とみなされる。しかし、ラキが籠もるこの洞穴は、十六の男が――大人の仲間入りを果たしたばかりの若者が簡単に近付けるような場所ではない。
 ラキの一族が住まう村からここまでは、歩いて一日以上。しかも、道らしい道はなく、案内がなければ簡単に迷ってしまい、やがては森に住む動物たちの餌となる。なんとか洞穴までたどり着いても、入り口を守る見張り――もちろん武装している――が二人、いる。彼らの許しがなければ、この扉は開かない。
 男が、見張りの許しを得て扉を開けたとはとうてい思えなかった。手には何かが滴る剣を携えていて、そしてその背後には、倒れている人らしき塊が見えた。
 もとより、こんな時間に扉が開くはずがない。ラキが扉の外の景色を見られるのは、食事を差し入れられるときと、材料を運び込むとき、そして、できたものを運び出すときくらいのもので、そのいずれも、こんなに月が煌々と輝く夜にやることはない。
「あなたは?」
 男が外部の者であるのは明らかだ。ラキは男の問いに答えなかったが、見張りを殺してまで扉を開けた以上、ここで何を作っているのか、ラキが何者なのか、分かっているはず。
「訊かずとも、分かっているだろう」
 男が鼻で嗤う。
 その通りだ。ラキもまた、男が何者なのか、見当は付いていた。
「《巫女狩り》のフィルムーダ」
 逆光で、男の顔はいまだ見えない。だが、男が口角の端を持ち上げたのが口調から分かった。
「ならば、俺の用件も分かるだろう――出せ」
 血の滴る切っ先が、ラキに向けられる。男が数歩踏み込まなければ、まだラキには届かない。
 しかし、ラキが逃げるよりも、男が踏み込んで切っ先が彼女の体を貫く方が速いだろう。ラキは、蒸留器を前に座り込んでいて、それがあるために、ここより奥には逃げ込めない。もっとも、逃げ込んだところでたいして奥深い洞穴ではないから、逃げられる距離はたかが知れていた。
「あなたには渡せない――そう言ったら、どうするのですか」
「斬る。斬って奪う。それだけだ」
 訊かずとも、男がどうするつもりかは分かっていた。なにせ目の前にいるのは《巫女狩り》の異名を持つ男なのだ。
 ラキは、神水を作る巫女だ。森の奥深く、限られた条件下でだけで育つ穀物を発酵させ、そこに清らかな水を加える。それを蒸留して得られるのが、神水と呼ばれる、特別な酒だ。詳しい製法を知っているのは《神水の巫女》と呼ばれる女たちだけ。ラキもその一人で、先代の巫女から、じっくりと時間をかけて製法を教えられた。
 神水を口にできるのは、この国の王だけだ。それ以外の誰も、飲むのは許されていない。神水には、不老長寿の効果があるとされている。現に歴代の王は、暗殺された場合を除き、いずれも長寿だ。
 神水の原料である穀物は、本当にごくわずかしか採れない。そのため、栽培条件が適している場所に、それを守り育てるための一族と、神水を作るための巫女が、それぞれいる。
 その巫女を殺して回っているのが、ラキの目の前にいる男、《巫女狩り》のフィルムーダだった。彼の目的は明らかでないが、神水の製法を知る巫女を殺しているのだから、神水をなきものとし、王の長寿を阻むのが狙いなのだろう。
 《巫女狩り》と呼ばれるからには、ラキ以外の巫女たちは、フィルムーダに神水を渡すの拒んだのだ。
 神水は神聖なるもの。賢明な王を長らえさせ、国と民を守るためのもの。
 先代からそう教えられ、それを守ってきた。代々の巫女の教えを守り通そうとして、会ったことのないラキの仲間は、この男に屠られたのだ。
 ラキのそばには、蒸留前の神水が入っている陶器の壺があった。蒸留前なので、厳密に言えば、この洞穴に神水はない。しかし、それをわざわざフィルムーダに教える義理もない。
 ラキは壺を引き寄せた。男の視線が、そこに向くのを感じる。
「それか」
「――神水を奪って、それであなたはどうするつもりなのです」
「長寿の王など不要だ。王を長寿にする、その術も」
 切っ先が、幾分ラキに近付いた。
 神水を渡したところで、どうやら助かるものではないらしい。《巫女狩り》と呼ばれるだけはある。
「今まで奪った神水は、では、あなたが飲んだのですか」
「誰が飲むものか。人を不老長寿にするなどと言う、怪しげなものを」
「――これに、それほどの力はないのですよ」
 ラキは壺の縁を指でなぞった。フィルムーダが目を瞠ったのが雰囲気で分かる。
 微笑を浮かべ、ラキは殺気を放つ男を見上げた。
「材料はごく限られた条件でしか育たぬ穀物ですが、出来上がるものは、ちまたで売られている麦酒と大差ないものなのです」
 酒は百薬の長などと言うが、飲み過ぎれば体を害する。神水にしても、それは同じだ。その点では、そこらにある酒と変わらない。原料と製法が特別なだけなのだ。
「飲んで、みますか?」
 ちょうど近くに、ラキが水を飲むのに使っている木製の杯があった。それを引き寄せる。
 フィルムーダの剣先が、かすかに揺れる。
「そう言って、毒を飲ませるつもりか」
「まさか。これは正真正銘、王に捧げる神水です」
 ただし、蒸留前の。胸の中で呟き、壺の中身を杯に注いだ。
「これまで、神水をあなたに勧めた巫女はいないでしょう」
 杯を、フィルムーダに差し出す。男が一歩踏み込み、剣先が、杯を弾き飛ばした。
「ああ、いない。何故、お前は勧める」
「効果を、あなたに知ってほしいのです。神水の効果も知らない、あまつさえ怪しげと言う者に殺されるのは、巫女たちが哀れと思いませんか」
 飛ばされた杯を拾い、土埃を払い落として、壺の中身を新たに注ぐ。
「毒と疑うのなら、わたしが先に飲んでみせましょう」
 ラキは言って、杯の中身を一息にあおった。空になった杯を、静かに地面に置く。
「これで、疑いは晴れましたね?」
 フィルムーダの返事はない。しかし構わず、ラキは壺の中身を注いだ。そして、それをフィルムーダに差し出す。
 男の、剣を持っていない方の手が、ゆっくりと杯に伸びる。
 顔に近付け、まずはにおいを嗅いでいた。
 蒸留前の神水は、穀物を発酵させてできた酒精の、纏わり付くような甘いにおいがかすかにする。酒をたしなむ者ならば、それが毒のにおいでないと分かるはずだ。
 フィルムーダはおもむろに、杯に口を付けて傾けた。すべては飲まなかったらしく、中身の残る杯を投げ捨てる。
「確かに、毒ではないようだな」
 それから、壺に目を向けた。
「ここにある神水は、それがすべてか」
「はい」
「よこせ」
 言われるがまま、ラキは一抱えある壺を、フィルムーダの方に押し出す。八分目ほど入っている。フィルムーダはその壺を蹴倒した。中身が零れ、男の足元に染みが広まり、洞穴の中に酒精のにおいが充満する。酒に弱い者ならば、このにおいだけで酔うかもしれない。
「あとは、神水の製法を知る者だけだ」
 フィルムーダが低い声で言う。ラキは己に向けられた剣先を見、それから、男を見上げた。
「たとえ神水がなくなろうとも、王は存在しつづけます。なのに何故、王ではなく、神水をなくそうとするのですか」
 切っ先がゆっくりとラキに近付いてくる。しかし、ラキは男から目を離さなかった。
「いずれ、王もなくす。神水をすべてなくしてから」
 冷たく鋭いものが、ラキの喉元に触れた。ちくりとしたあとに温かいものが肌を伝う感触で、わずかに斬られたのだと知った。
「それは、きっと無理でしょう」
「なに……?」
 男の体が大きく傾いで、倒れる。遮るものがなくなり、洞穴の中は青白い月光でいっそう明るくなった。
「あなたの《巫女狩り》も、ここでおしまいです」
 ラキはすっと立ち上がり、男の顔のそばに膝をついた。
 フィルムーダは飛び出しそうなほど目を見開き、ぜえぜえと苦しげな息を吐いて、口の端から泡を吹いている。
「どく……ではない、と」
「壺の中身は、正確に言えば神水になる前のものです。あれを蒸留せねば、神水にはならないのです。蒸留前の神水には、毒となる成分が入っているので」
「なぜ、おまえは」
 ぎょろりと見開かれた目がラキを睨む。目は血走り、息遣いは不規則で、荒い。杯の中身をすべて干さなかったとはいえ、長くは保たないだろう。
「《神水の巫女》にとっては、蒸留前の毒が含まれている状態であっても、毒にはならないのです。神水の出来具合を確かめるため、幼いうちから、少しずつ口にしているので」
 ラキが、先代の巫女に跡継ぎと指名されたのは七つのとき。そのときから少しずつ、蒸留前とその後の神水を口にしてきた。神水の出来具合を左右するため、蒸留前の方をより多く口にしていて、歳を重ねるごとに、その量は増えていった。今ではすっかり慣れて、常人であれば一口二口でフィルムーダのような状態になるが、ラキは杯になみなみ注がれたものを飲んでも、なんともない。
「わたしが作った神水のお味はいかがでしたか、《巫女狩り》のフィルムーダどの。味が良いと、王に誉めて頂いたこともあるのですよ。今回のものは、今まででいちばんの自信作でした」
 しかし、フィルムーダの返事はなかった。息はまだかろうじてしているようだったが、口からは血の混じる泡を大量に吹き、目の焦点はどこにも合っていなかった。

〈了〉