クーラーなしでもようやく寝苦しくなくなった晩夏の夜、目が覚めた。
豆球も点けていないが、遮光カーテン越しに近くのコンビニの灯りが届いているから存外に明るい。
目が覚めたとはいえ、ふとした覚醒だったので眠くて仕方なかった。今が何時か分からないが、枕元の携帯を確認するのも億劫で、うっすら開けていたまぶたをすぐに閉じる。
週末であれば、コンビニの駐車場でたむろする高校生くらいの連中が騒がしいが、平日の夜は平穏だ。聞こえてくるのは隣で眠る妻の寝息くらいで、静かなものだ。
眠いしまたすぐに夢の中へ戻れるだろうと思った時、彼女の寝息以外の音が聞こえた。一瞬、聞き間違いかと思うくらいにかすかだったが、また同じ音が聞こえた。どうやら気のせいではないらしい。
それは、赤ん坊の泣き声だった。うちにはまだ子供はいない。夜泣きの声に、眠気が少々醒める。
だが、よくよく考えれば、ここは賃貸アパートで、隣室の生活音が聞こえてくるのは日常茶飯事。物音の少ない時間帯であれば、昼間は聞こえないような音もよく届く。
隣には、俺たちと同年代のカップルが住んでいる。挨拶くらいしかしないからよく知らないが、二人とも指輪をしているから結婚しているのだろうし、であれば子供がいてもおかしくはない。俺は仕事で帰りが遅くなることが多く、隣の夫婦と顔を合わせること自体少ないから知らないだけで、最近産まれたのだろう。
そう考えているうち、眠気が盛り返してきて、赤ん坊の泣き声が止まぬうちに眠っていた。
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「お隣さん、子供が生まれたんだな」
翌日、遅い夕飯を取っている時、昨夜聞いた泣き声のことを思い出した。
「そうなの? わたし、見たことないけど」
帰りが早い妻は先に一人で夕食を済ませていた。缶酎ハイを片手に、首を傾げる。
「昨夜、泣き声が聞こえたんだよ」
「気のせいか聞き間違えか、夢だったんじゃない?」
帰りが早く休日出勤もほとんどない彼女の方が、隣の夫婦と顔を合わせる機会は多い。その彼女が、隣に子供はまだいないと言うのだから、昨夜聞いた泣き声は何かしらの間違いだったのだろう。目を覚ましたものの、またすぐ眠りに落ちそうな程眠かったのだし、そう納得した。
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その夜、また夜中に目が覚めた。やはり聞こえてくるのは、妻の寝息だけ。
二日連続で就寝中に目が覚めることは頻繁ではないが、ストレスが多いとその限りではないから、別段珍しくもない。今度の休日はゆっくりしようと考えていたら、また、赤ん坊の泣き声が聞こえた。
隣に子供はいない。妻はそう言っていた。しかし、聞こえてくるのは間違いなく赤ん坊の泣き声で、昨日よりも心なしかはっきりと聞こえる。
夢を見ているのかと思い、体を起こす。夢にしては意識がはっきりとしているし、耳で聞いているのは赤ん坊の泣き声にやはり違いない。子供がいないというのは妻の勘違いで、実際はいるではないか。
泣き声に目を覚ますこともなく寝息を立てる妻に、明日そう言ってやろう。
なだめるのにてこずっているのか、赤ん坊の泣き声はまだ止まない。
しかしいずれ泣き止むだろうと横になり、ふと気が付いた。
隣に赤ん坊がいるというのなら、何故、泣き声は昨日よりもはっきりと聞こえるのだろう。
赤ん坊はまだ泣き止まない。それどころか、声は少しずつ大きく――近付いてきている。
夢でもなければ聞き間違いでもない。今度は慌てて起き上がり、辺りを見回した。声はどんどん近付いている。この部屋の中にいるのではないかと思うほど近かった。しかし、薄暗い部屋の中に、俺と妻以外の姿はどこにも見当たらない。
すぐそばで泣き声がして、何かが、タオルケットを握り締める手に触れた。
声を上げて、見えない何かを振り払う。火がついたように泣き叫ぶ声が部屋中に響いているのに、妻は一向に目を覚まさない。
泣き声は、しばらくするとまた近付いてきていた。この状況から逃れたくて、一人で起きているのが恐ろしくて、寝ている妻を乱暴に揺すった。
「なぁに?」
無理矢理起こされた妻は不機嫌な声だったが、そんなことに構ってはいられなかった。
「聞こえるだろう、お前にも!」
赤ん坊の声はすぐ近くで、何かが、今度はTシャツを掴む。
「聞こえないわよ、何も」
妻はむすっとした声で言うと、俺に背を向けてしまった。
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それから、ほとんど毎晩のように目が覚めては、赤ん坊の泣き声を聞いた。声は少しずつ近付いてきて、姿の見えない赤ん坊は俺に縋り付こうとする。何度振り払っても近付いてきて、二時間ほどそれを繰り返し、やがて諦めたのか声は聞こえなくなり、ようやく眠りにつくことができるのだ。
当然のごとく寝不足となり、しかし泣き声など聞こえないと言う妻はその理由を理解してくれない。
睡眠不足はいよいよ限界に近く、どうにかゆっくり眠りたい俺は、自宅ではなく別の場所で寝ることにした。妻には、一週間ほど出張へ行くと嘘を言ってある。
「ひどい顔。奥さんとけんかでもしたの?」
ずいぶんと久しぶりに会った彼女は、俺の顔を見て笑った。
姿の見えない赤ん坊の泣き声のせいで眠れないのだと言ったところで、どうせ彼女も信じないだろう。そんなところだと適当に誤魔化し、しなくていいのと尋ねる彼女に背を向けて、さっさと横になった。
あの部屋でなければ眠れるだろう。そう思っていたのに、やはり夜中にふと目が覚め、赤ん坊の泣き声を耳にした。
苛立ちと恐怖で眠気などあっという間に霧散する。どうしてここでも聞こえるのか。あまつさえ、いつもは遠くから近付いてくるのに、今日はいきなり間近で泣いている。
「――あら、今日は行かないのね」
眠っていると思った彼女が、ゆらりと起き上がる。
完全には覚めきっていない、気怠げな彼女の視線は、赤ん坊がいるであろうあたりに注がれていた。
「君には、聞こえるのか?」
妻は、枕元でいくら赤ん坊が泣き叫ぼうと目を覚まさなかった。俺の話を信じもしなかった。
「聞こえるわよ。自分の子供が泣いているんだもの」
「君の……子供?」
眉根を寄せる俺に、彼女は悲しげな笑みを向ける。
「一人で育てるつもりで、頑張って産んだの。なのに、死んでしまったわたしの赤ちゃん――でもね、今もそばにいるの」
赤ん坊は泣き続けている。彼女は愛おしげな目で、姿なき赤ん坊を見ていた。
「いつもはね、この時間になるとお父さんのところへ行ってしまうのだけど、今日は行かないみたい。誰が父親なのか、ちゃんと分かってるのね」
泣いている赤ん坊の声が、すぐそばで。
震える手に触れたのは、姿のない赤ん坊なのか彼女なのか、俺には分からなかった。
〈了〉