心の肖像

 白いキャンバスは縦長で、大きさはA3用紙くらいだった。やすりをかけただけで何の装飾もない木製の額縁に納まっている。
 そこには、僕の全身図が描かれていた。鉛筆か何かで描かれた線画で着色はされていないが、写真と見紛うほどの緻密さが目を引く。しかし、全体的に構図というかバランスが悪いのは、素人の僕にも一目瞭然だった。
 縦長の白を背景に、絵の僕は左寄りに立っている。僕の右側には空白が広がっていた。もう一人、そこに誰かが並んで描かれていてもおかしくないように思えた。
 怪訝そうに絵を眺める僕を見て、この絵を描いた主がくすりと笑う。
「そこにはいずれ君の恋人を描く。そのための空白だよ」


 彼は、僕と同じ大学に通う学生だ。絵を描くのが趣味で、美術系のサークルには入っていないが大学構内で気の赴くままに筆を走らせているそうだ。
 僕がよく出入りする三号棟の前で、いきなり彼に声をかけられたのは二週間ほど前。彼はベンチに腰掛け、このキャンバスを膝に載せていた。最近はそこがお気に入りで、前を通る人の絵を描いていたのだという。
 三号棟には僕の所属するゼミがある。それで頻繁に出入りしていて、彼の目に留まったらしい。僕以外にも同じような学生は多いはずだが、目に留めたのが僕だったのはたまたまだと彼は言った。
 同じ大学の学生とはいえ、はじめは彼を胡散臭いやつだと思った。しかし、彼がいつも携えているスケッチブックを見せられてから気が変わった。僕は絵が分からないが、彼の描く絵は上手いと思ったからだ。スケッチブックには、様々な角度から描かれた僕や、やはり同じ大学の学生であろうたくさんの若者、教授たちとおぼしき壮年の男の姿がびっしりと描かれていたのだ。絵を描くのが趣味というのは嘘ではなさそうだった。
「颯爽と歩く君の姿をよく目にしているうち、描きたくなってね。何枚も描かせてもらって、これはその内の一つだ。勝手にモデルにしたお礼といってはなんだが、完成したら受け取ってくれないか」
 そう言って彼が見せてくれたのが、例の僕の立ち姿を描いた絵だった。そして、右の空白を指摘して返ってきたのが先程の答えである。
「だから、この絵はまだ完成していない。君に恋人ができたら教えてくれ。ここに描いて、それから君にこの絵をあげるよ」
「どうして今、僕に恋人がいないのを知っているんだい」
「人間観察の賜物だよ」
 絵を描くためモデルとなる人物をじっくりと見ているうちにいつの間にかね、と彼は付け足した。
「じゃあ、僕が早くその絵をもらえるように祈っていてくれ」
 それから、僕は三号棟の前を通るたび、なんとなく彼の姿を捜すようになった。毎日いつでもいるものかと思ったが、案外そうではなく、数日見かけないこともざらにある。よく考えれば彼も学生で、講義はあるしバイトもしているだろう。だが見かけて目が合えば、軽く会釈をする。そんな間柄になった。

 あれから三ヶ月後、僕に恋人ができた。
 合コンで知り合った他大学の学生で、絵を描く彼は僕が教えるよりも前に、僕の恋人の存在に気が付いていた。
「君の雰囲気がどことなく以前と違う。だからだよ」
 理由を問うと、そういう答えが返ってきた。
「それも、人間観察の賜物かい」
「ああ、もちろん。それで、君の恋人はどんな人だい。写真でもいい。見せてくれれば、すぐにあの絵に描きたしたい」
 僕は携帯に保存してある写真の一つを見せた。写真のように緻密な絵を描くのだから、その画像がほしいと言われたらどうしようかという考えは杞憂に終わった。彼はしばらくの間じっくりと写真を見つめ、それで十分だと言ったのだった。
「次に会った時に渡そう」
 記憶に刻みつけたのだろうか。それであれほど緻密な絵を描けるのかという僕の疑問は、ほどなく解消されることとなった。
 彼と次に会ったのは、一週間後。差し出された例の絵には、僕の恋人が描かれていた。写真のような緻密さはもちろん、目の前に彼女を立たせて描いたのかと思うほどの出来だった。写真を見て記憶に刻んだだけでこれだけのものが書けるのかと、僕は心底驚いた。
「この絵はこれで完成だ。受け取ってくれるかい」
 絵の僕と恋人は仲良く寄り添っている。僕は恋人と、まだそんな写真を撮ったことがないのに、モノクロームの写真を見ているようだった。
「ありがとう。大事にするよ」
 僕は絵を受け取った。恋人に見せたらきっと驚くだろう。その時の彼女の顔を想像しながら。
「ああ、そうしてもらえると嬉しいよ」
 彼は目を細め、口の端を少しだけ持ち上げる。控えめな笑顔だった。
 持ち帰った絵は、玄関に飾った。ここにあれば、出掛ける時も帰ってきた時も、恋人の姿を見られる。そう思って。

 お気に入りの場所が別のところになったのか、彼の姿を見かけることがなくなった。
 それとなく人に聞いてみるが、彼らしい人物を見たという人さえ見つからなかった。気の赴くままと言っていたから、構外にでも気に入った場所を見つけたのかもしれない。

 絵は相変わらず玄関に飾られているが、彼の姿をとうとう一度も見ることなく僕は大学を卒業した。
 就職して働き始めた僕は、学生の時ほど自由な時間が取れなくなっていたが、恋人との仲はまだ続いている。まだ学生の彼女は、社会人は忙しそうだから就活するのが憂鬱だ、などと言っている。
「君が卒業したら、僕がすぐにお嫁にもらおうか。そしたら就活しなくていい」
「冗談だよ。ちゃんと就活するし」
「僕も冗談だよ」
 他愛もない会話に、僕達は笑った。

 僕が社会人になってから三ヶ月。絵は相変わらず玄関にあるが、それを目に入れる機会は以前より減っていた。
 電車の時間に遅れてしまうと毎朝慌ただしく家を飛び出し、ぐったりとして倒れ込むように帰ってくる。微笑み寄り添いあう絵の中の自分と恋人に、のんきそうで羨ましいよと八つ当たりを覚えるくらいには疲れていた。
 ある日ふと、久しぶりにじっくりと絵を見た。
 絵の中の僕と恋人は、微笑んでいる。しかし、違和感を覚える。何か、以前と違っている気がする。このところあまり絵を見ていなかったから、そんな気がするだけだろうと一度は思ったが、違和感は拭えない。
 何がどう違うのかとためつすがめつ絵を見て、気が付いた。恋人の表情が少し変わっているように見えるのだ。
 絵が変わるはずはない、そんな馬鹿なと思って何度も何度も見てみたが、やはり変わっているように見える。以前の絵の中の恋人は、もっと柔らかい表情をしていた。それなのに今は、少し硬い。無理に作った微笑みを浮かべているように見える。
 そう見えるのだが、絵が変わるはずがない。自分の気の持ちようで、そんな風に見えているだけのことだ。きっとそうだと思うことにした。

 梅雨が明け、学生たちがもうすぐ夏休みを迎える季節。あんなに長い休暇はもう取れないのかと思うと学生時代が無性に恋しくなる。あと半年は学生でいられる恋人が羨ましい。
 今日は早く仕事が終わりそうだったので、一緒に夕飯を食べに行きたいと思って恋人にメールを送った。しかし、今は恋人の方が忙しいらしい。夏休み目前のこの時期になっても、恋人はまだ就活を続けていた。その準備があるから行けないというメールが返ってくる。
 残念に思いながら帰宅して、ふと絵が目に入る。
 いつか抱いた違和感が、どっと甦ってきた。いや、違和感どころではない。手に持った鞄を思わず取り落としてしまう。
 描かれていたのは、微笑み寄り添いあう僕と恋人だった。そのはずだった。しかし、微笑んでいるのは僕一人だけ。彼女は僕と一歩距離を置き、僕から顔をそむけるように横を向いている。
 その横顔にもはや微笑みなどはなく、どこか嘲るように口元を歪めていた。
 どうして絵がそんな風に変わってしまったのかという疑問より、絵の中の彼女が何故そんな表情を浮かべているのかの方が気になって仕方なかった。気が付けば、足は彼女の住むアパートへ向かっていた。
 学生向けの賃貸アパートは、夕飯時でも灯りの付いている部屋はまばらだった。しかし、彼女は部屋にいるらしい。灯りが付いているのを外から確かめ、部屋へ向かう。
 インターホーンを押そうとして、指は直前で止まった。薄っぺらな扉越しに声が聞こえてくる。恋人の声だった。何を言っているのかまでは聞き取れない。しかし、それに応える声があるのははっきりと分かった。低い、男の声。
 扉越しのくぐもった声でも、会話が弾んでいる雰囲気は伝わってくる。聞こえてくる声は、恋人のと男の二人分だけ。
 歪んだ顔で笑う絵の中の恋人を思い出す。扉の向こうの彼女は、それと同じ顔で笑っている気がした。

〈了〉