ゴンレイルンの竜

 小さく積み上げられた薪の山は大半が炭へ変わりくすぶっている。月影を押しやるような炎はとうに絶えていた。
 ただ冴え冴えとした青い月明かりが、木の葉でできた天蓋の隙間から降り注いでいる。
 髪の毛一筋さえ揺らすような風もない森の中、玲瓏な声と竪琴が物悲しい旋律を奏ではじめた。


 忘れられた北の山には竜がいた
 西の大海の遙か向こうから
 乙女の祈りを聞いてやって来た

 忘れられた北の山には竜がいた
 希望さえ凍てつく北の山を
 岩より硬い牙でかみ砕いた

 忘れられた北の山には竜がいた
 北に大地をつくったすぐあとに
 竜はとこしえの眠りについた


 歌詞だけならばごく短い伝承歌だ。しかし、ゆったりとした曲調がそれを感じさせない。
 哀愁の滴り落ちそうな声で謡う青年の、男のものとは思えない白く細い指が弦の上で躍る。しじまを打ち破らないように優しく、そして悲しく音を響かせる。
 おもむろに青年が最後のフレーズを繰り返した。竜のいなくなったことを聴く者の記憶に刻み込むように。


 竜はとこしえの眠りについた
 竜はとこしえの眠りについた
 竜はとこしえの眠りについた


 嫋々とした声と竪琴の音色が、夜の中へ溶けていく。
 やがて足音もなく戻ってきた静寂に包まれるが、旋律はまだそこら中に漂い、こだましているような気がした。
 森の中なのに夜に歌う鳥のさえずりもない。鳥たちもまた男の声に聞き惚れていたのか、それとも恥じ入ってさえずることができないのか。それほど、聴く者を魅了してやまない歌声だった。
「――見事なものだ」
 この程度の言葉でしか青年の歌を褒めることのできない己が恨めしい。ありったけの賛辞を送りたくとも、男は大した美辞麗句を知らなかった。せめて賞賛の意を込めて拍手をする。
 たった一人からの喝采を受ける青年は照れるように笑み、竪琴を抱え直した。
「歌にふさわしい代価には到底及ばないが、これを」
 拍手を送っていた男は、懐に仕舞い込んでいる革袋から銅貨を一枚取り出した。
 今宵の月よりも少々いびつな銅貨には、聖獣とされる翼獅子の吠え猛る横顔が刻印されている。レーテス海沿岸四国共通の硬貨だ。
「そんなに頂けません」
 差し出されたものに、竪琴を抱える青年は目を丸くする。銅貨一枚で彼一人ならば、半月は楽に暮らせるだろう。
「ひとときでも楽しんで頂けたのなら、それがなによりの報酬です」
「遠慮することはない。君の歌声と演奏にはそれだけの価値があった。わたしはそう思う」
 彼はそう言うと、半ば押しつけるように受け取らせた。青年はしばし戸惑った様子だったが、
「かたじけないです」
 目礼し、自分の懐へ収めた。
 ようやく、遠くからフクロウの鳴く声が聞こえてくる。
 男は地面に直接布を敷き、その上に胡座をかいていた。青年は、森の中で見つけた大きな石に座している。しかし座り心地がいまいちなのか、しきりに座る位置を微調整している。
 そんな青年の顔を、男はそっと盗み見た。
 はっきりとした二重瞼の大きな目、すっと通った鼻筋。先程まで鳥をも酔わせる美声にふるえた唇の形は良く、紅をさしたように赤い。男でも見惚れるような端正な顔だが、それ以外にこれといった特徴は見当たらない。
 瞳の色はレーテス海沿岸域ではよく見られる青、髪は小麦色だ。国が違えばそこに住む人間の顔に大なり小なり特徴があるものだが、この美丈夫にはどこそこの国の人間だろうと当たりをつけられるようなものがなかった。
 だが、特徴らしき特徴のない顔立ちこそを最大の特徴とする一族がいる。
 旅する語り部、歴史の記録者、鳥の一族など、いくつもの別名を持つ流浪の民――ヨルン。人々を魅了する甘美な歌声もまた、彼らの特徴の一つだった。
 この青年はヨルンだろうと、男はほぼ確信していた。
 男もまた世界中を旅して回っており、何人ものヨルンを見てきた。
 彼らは一様に、どの土地にも馴染みやすい特徴の薄い外見と優れた歌声を持っていた。どこか浮世離れしている独特の雰囲気をまとっているのもまた、彼らの特徴であり共通点だ。
 レーテス海を抱くこの大陸中を放浪するヨルンは、定住の地を持たないまま一族の血と伝統、受け継がれてきた歌や物語を子に伝えていく。一族といいながらも、この青年のようにただ一人で旅をするのが普通であり、群れることはない。
 ヨルンは赴いた土地でかりそめの婚姻をかわし、代を重ねていく。遙か昔から様々な土地で多様な民族と交わることを繰り返してきた結果、あらゆる民族の血を持つ代わりにヨルンの外見的特徴は削ぎ落とされていったのだろう。
 そして一族のこの特異な伝統が、独特の雰囲気を生み出しているに違いない。
 ヨルンは皆、驚異的な記憶力を誇るという。父祖から伝え聞いた歌はもちろん、旅の中で蒐集した話も一度聞いたら忘れることがないらしい。それゆえ、土着の人々にさえ忘れられた伝統や言い伝えを、その土地を初めて訪れたヨルンが知っている、ということもあるそうだ。
 どこにも定住することがないのに、世界中の様々な土地にまつわる話を知っている。その事実も、独特の雰囲気を生み出す一因なのかもしれない。
「今の歌は『ゴンレイルンの竜』だね」
 男が言うと、青年の端正な顔に驚きが浮かぶ。
「ご存じでしたか」
「何故あれを謡ったんだい? ここはウェルルシアだ。謡うのならその土地に縁のある歌、この夜にふさわしい歌では?」
 森の中なので満天の星空は生い茂る歯の隙間からしか見えないが、よく晴れているのは分かる。そのうえ今夜は満月だ。夜空とはいえ明るい。
 ゴンレイルンはレーテス海北東沿岸の国リオニアの一地方に過ぎない。リオニアの北部、峻険な山々の間にぽつんとある小さな土地だ。
 一方、ウェルルシアは、リオニアの対岸に広がる国。国土全体が緑豊かで森林地帯も多く、リオニアの沿岸部はともかく、ゴンレイルンとは気候がまったく異なる。夏場でも夜になれば寒さを覚えるゴンレイルンと違い、ウェルルシアの夜は半袖でもいいくらいに暖かい。
「それは……」
 歌う時には滑らかだった青年の口元は何かを言いかけてはやめる、ということを繰り返す。視線は落ち着かず、小脇に抱えた竪琴や消えかかっている焚き火など、あちこちに向けられる。
 しかし男には、青年が何故あえて『ゴンレイルンの竜』を選んだのか、おおよそのところで見当はついていた。
「……あなたは、ゴンレイルンで召喚されたと聞きました」
 意を決して口を開いた青年は、まっすぐに男を見た。それから、恥じ入るようにやや声を潜めて続ける。
「僕が知っているゴンレイルンにまつわる歌は、あれ一つしかなかったので」
「気を遣ってくれたわけだね」
 男は口の端をかすかに持ち上げた。
 ヨルンは外見的特徴が乏しいゆえにどの土地にも馴染みやすい。だが自分は――男は自嘲する。
 この大陸の人々は全体的に彫りが深く鼻はつんと高いが、男は違う。鼻は低くて丸っこく、彫りも浅い。彼を見て、めん棒で顔を一度押し伸ばしたのかと失礼極まりないことを言った人もいた。
 髪や目の色こそ同じ人々はいるが、同じような顔立ちの民族と出会ったことはない。大陸のどこへ行っても、男の外見は人々の中に溶け込まなかった。
 無理もないのだろう。
 この世界にとって男は異物、本来はいるはずのない人間だ。それにもかかわらず彼がここにいるのは、青年が言ったように『召喚』されたからだ。

      ○

 有村悟。それが男の名前だ。
 十八歳で召喚されて二十三年。日本で過ごした時間より、この世界で過ごした時間のほうがもはや長い。黒々としていた髪には白いものが目立つようになり、あまり認めたくはないが少々薄くもなっている。
「あの……あなたは本当に、異なる世界から来られたんですか」
 ヨルンの持つ豊富な伝承の中には眉唾の話も多く、異世界人にまつわるものも少なくないという。それでも青年は半信半疑といった様子だった。
 有村は苦笑した。
 いかに彼の顔立ちが珍しくとも、異世界から来たというのはにわかには信じがたい事実。嘘をつくな本当なのかと疑われるのには慣れていた。ただ、ゴンレイルンを含むリオニアだけが、異世界から来たという事実を疑わなかった。そういうお国柄だったのだ。
「本当だよ。顔立ちを見ても分かるだろう。名前はサトル・アリムラ。母国では家名を先に名乗るのが正式なんだがね」
「申し遅れました、僕はケファンです。あの、異世界でも僕らと同じ言葉を話すのですか」
「いいや、全然違うよ」
「ですが――」
「わたしはこの世界へ来て二十三年経つ。君より長く、この世界で生きているんじゃないかな」
 有村の見たところ、ケファンは二十歳前後。二十代半ばには見えない。
 ケファンと同じ言語を流暢に話すから、見た目が異質でもにわかに異世界人と信じられなかったのかもしれない。
「それだけ長くいれば、いやでも覚える。教えてくれる人もいたし、なにより言葉を覚えなければやっていけないからね」
 有村があっけらかんとして言うのが、ケファンには予想外だったのだろうか。面食らったような顔をしている。だがケファンがそんな表情をしているのが、有村には意外だった。
 先に声をかけてきたのはケファンなのだ。
 今日の昼過ぎ、有村がこの場所から最寄りの街を出ようとしていた時に、ケファンから同行しても良いかと訊かれたのだ。ケファンの外見と身なりからヨルンだろうと思った有村は、同行を許した。
 こういうことは、これまでにも幾度かあったのだ。
 有村が異世界人だとどこからか聞きつけたヨルンが、彼のいた世界はどんな場所だったのか、どんな暮らしを送っていたのか、どんな歴史を持っているのか、ここではない違う世界のすべてを聞き出そうと近づいてきた。
 彼もその一人なのだろうと思っていた。だが、どうも違うらしい。
「元の世界へ戻る術はないんですか」
 単刀直入な問いに有村は苦笑する。
 場合によっては相手の感情をひどくかき乱す質問だ。
 それを察することのできないケファンは、そういう質というよりは、何かを聞き出したくて急いでいるように見える。
「ないことはない」
「では何故、戻らないのですか」
 戻る戻らないというのはいろいろな面で単純な話ではない。初対面の人間に投げかけるにはいささかぶしつけだが、ケファンはそれを承知の上で訊いているようだった。
 朗々と歌を紡いでいた時の堂々たる振る舞いからは想像もできないくらい、今の彼は頼りなく、道に迷った子供のような顔をしていた。
「ケファン。君は、わたしからどんな話を聞き出したいんだ?」
 これまで出会ったヨルンには、元いた世界の当たり障りのない話をすればそれで良かった。彼らもそれで満足してくれていた。有村が戻らない理由を追及することはなかった。
「僕が知りたいのは、異世界から来たあなたが何故この世界に留まろうと思ったのか、そこに至った心境の変遷です」
 ケファンはますます縋るような懇願するような表情になる。ヨルンが自負する使命のために訊きたがっているわけでないのは明らかだ。
「まずわたしから訊きたい。君は何故、そんなことを知りたがる?」
 有村の個人的な心の裡を訊いて、彼の何に役立つというのだろう。
「戻れるものなら戻りたい場所が、あるんです」
 竪琴を抱き締め、ケファンは言った。
「けれど戻れないんです。僕がヨルンの血を引くから――」

    ○

 ケファンの父がヨルンだった。母は、ウェルルシアとリオニアの間にある国リュトリザの娘。
 生涯を旅に生きるヨルンは基本的に一人だ。だが、子がいる間だけは二人旅となる。
 親は受け継がれてきたものと自らが集めたものすべてを子が成人するまでに伝え、子は成人の証として親と離れ一人での旅を始める。そして、行き着いた土地でかりそめの婚姻をし、もうけた子と旅に出る。
 何百年何千年と繰り返し、受け継がれてきた習慣だ。
 だが、ケファンはその習慣からこぼれ落ちた。
 ヨルンと結ばれて生まれた子はすべてヨルンの血統とみなされる。ヨルンにとっても、ヨルンを伴侶と受け入れる者にとっても暗黙の了解のはずだった。
 しかしケファンの母はそれを拒否した。ケファンが生まれる前に、父の前から逃げたのだ。
 リュトリザは十二の部族からなる連合国家で、母の部族は沙漠の遊牧民族《イスナシャラ》だ。国の主導権争いや国境付近での小競り合いに熱を上げるほかの部族と違い、昔ながらの遊牧生活を送る部族だ。
 母はその部族長の娘だった。族長――ケファンの祖父は娘と生まれてくる孫のため、一族でケファンの父から逃げたのである。
 リュトリザに広がる沙漠を移動し、一族にどんなヨルンも近づけなかった。ケファンが生まれたあともそれは変わらず、彼は父親がヨルンだと知らされないまま十になるまで族長の跡継ぎとして育てられた。
 転機が訪れたのは、部族会議のために首都へ赴いた時。十になったケファンは、他部族長へのお披露目のため祖父に連れられ、首都へやって来た。そしてそこで、初めて父と出会ったのである。
 ケファンが唯一の跡継ぎだったイスナシャラにとって、ヨルンはほとんど禁忌の存在となっていた。しかしそれでも、遊牧生活の中でケファンがヨルンの噂を耳にするのを完全には防げなかった。
 リュトリザの沙漠地帯を遊牧するイスナシャラより、ずっと広い範囲、遠いところまで旅するヨルン。しかも美しい声で、心躍る物語を歌ってくれるという。幼いケファンは一目ヨルンに会ってみたいと密かに願い、首都でそれが叶えられた。そのうえ出会ったのは、今まで誰も頑なに素性も名前も教えてくれなかった父だという。
 父の歌はたちまちケファンを虜にし、迎えに来たと差しのべられた手はケファンを別世界へ誘う光に見えた。
 そうしてイスナシャラの幼い跡継ぎは、世界を旅するヨルンになったのだ。
「――沙漠を見慣れていた僕にとって、初めのうちは見るものすべてが新鮮でした。イスナシャラだった時にはリュトリザを出ることは思いつきもしなかったのに、父はあっさりとその考えを打ち砕きました。そのことさえも新鮮で刺激的で、父の歌をいつでも夢中で聞き、真似しました」
 ケファンは竪琴の弦を弾く。父から受け継いだもので、父はそのまた父から譲られたと言っていた。
「けれど、僕はまだ十になったばかりで、すぐに母が恋しくなりました。祖父や、イスナシャラの皆にも会いたくなった」
 語りながら、自然と指先は弦を爪弾いていく。琴の音なしに語るのに居心地の悪さを感じる。それは否定したくとも否定できない、ヨルンの血が流れている証左だ。
 母に会いたいという言葉は、当然ながら聞き入れられなかった。おまえはヨルンなのだから、一つの場所に留まることは許されない。鳥は飛び、歌ってこその鳥なのだと言われた。イスナシャラは一ヶ所に留まらないと言っても、リュトリザの中だけのことだろうと反論された。
 ケファンが父に連れられて訪れる場所はもちろん初めての土地ばかりで、どこもそれなりにおもしろかった。竪琴の弾き方や歌い方、伝承を教わるのも嫌いではなかった。
 父もケファンも、どの土地へ行っても馴染みやすい特徴のない顔立ちだが、ヨルンと知れば多くの人が集まり物語を求めた。吟遊詩人や舞踊団と共演することもあった。
 だがそうして人々の喝采を浴びながらも、ケファンはイスナシャラを忘れられなかった。
 定住の地を持たないヨルンに故郷はなく、居場所はただ一人で歩いてゆく旅路の上にしかない。
 しかしケファンは違う。沙漠の遊牧民イスナシャラという故郷がある。そこには間違いなく彼の居場所があった。同郷の仲間もいた。
 父の手を取ったのは自分自身だったとはいえ、それは言葉巧みに誘われたからこそ。幼いケファンに、その後の人生をどれだけ想像できただろう。
 この身にヨルンの血が流れていなければ、イスナシャラの一人として仲間と共に沙漠を渡り、いずれ彼が率いていくはずだった。
 望郷の念を強く自覚したのは、ヨルンとして旅を続けるしかなくなっていた頃だ。
 知らぬ土地の人々がケファンを歓迎するのは、彼がヨルンだからだ。歌や物語と引き換えに、土地を通り過ぎることを許してくれる。だが、留まることは許されない。渡り歩くのがヨルンだからだ。
 家族で団欒し、仲間と共に仕事に励み、時に思い出話をしながら年を重ねていく――ごくありふれた暮らしだが間近に見るたび、そこへ加わりたいと思っている自分に気がついた。終わりのない旅を終わらせたいと、心の底では願っていた。
 成人して父と別れたあと、ケファンは真っ先にリュトリザを目指した。九年ぶりに訪れた首都で耳にしたのは、イスナシャラには新しい跡継ぎがいる、という噂だった。
「……戻る場所はもうないのだと、その時になって気がつきました。部族会議で祖父が首都にいたようですが、僕は会いに行くことができなかった。おまえの居場所はもうないと言われるのが怖くて」
 びん、と弦を弾きケファンは演奏をやめた。
 薪がいつの間にか燃えていた。サトルが枝をくべていたのだろう。赤く照らし出された周囲の景色は陰影が濃く、炎がゆらぐたびに同じように揺れて、生きている人のようにも見える。おまえの居場所はどこにもないと嗤う声が聞こえてきそうだった。
「父がヨルンだったのも母が逃げたのも、僕のせいじゃない! それなのに家族や故郷から引き離されて、ヨルンの使命を果たせと言われて――」
 ケファンは頭を抱えた。足元に竪琴が落ちるが構わなかった。
「教えてください。どうすれば、戻りたくても戻れない故郷を、諦めることができるんですか。戻れずともいいと、今の状況を受け入れられるんですか」
 懇願の声は徐々に小さくなり、闇に飲み込まれていった。

      ○

 ケファンの告白を、有村は黙って聞いていた。
 彼が、異世界から召喚された有村に自分を重ねているのは明らかだ。
 有村もかつてはケファンと同じような苦悩を抱えていた。無関係な世界にいきなり引っぱりこまれ、彼にはまったく無関係と言っていいことに巻き込まれ、帰りたくとも帰れない――。
 今となっては遠い昔の思い出だ。悩んだことも、それを吹っ切ったことも。
 ケファンの独白と演奏がなくなると、森の中はひどく静かだった。ケファンが歌い終えたあとのような余韻は少しもない。世界中から切り離されたようだった。
 豊かな緑に囲まれているのに、この静けさは雪に閉ざされるゴンレイルンの冬と似ている。
「……わたしも『ゴンレイルンの竜』なんだよ」
 有村の言葉に、ケファンが顔を上げる。胡乱な表情だった。
 『ゴンレイルンの竜』はリオニアの建国間もない頃の伝説を題材にした歌だ。
 その昔、暖かく暮らしやすい沿岸域を追われた人々がいた。彼らは北へ北へと追いやられ、最後に辿り着いた峻険な山と厳しい冬が訪れる土地で暮らすしかなかった。
 しかし、人を拒むような山地には家や畑をつくるのに向いた平地がほとんどなく、生きていくのは容易くない。そこで一人の娘が、竜を呼んだ。峻険な山を切り崩して平地をつくるために。
 娘の声に応えてやって来た竜は山を崩して平らかな土地をつくった。そこしか行き場のない人々が暮らしていけるだけの場所をつくり終えたあと、竜はとうとう力尽きた。
 人々は竜の亡骸を丁寧に埋葬し、竜のことを忘れないために、切り開かれた土地にゴンレイルンという名をつけた。ゴンレイルンは、リオニアの古い言葉で『竜の遺骸』という意味だ。
 その土地で、有村は召喚された。
「わたしを召喚したのは若い娘だった。旅の護衛に呼んだんだよ」
 有村は苦笑する。彼が何故笑うのか、ケファンには分からないようで首を傾げた。
「召喚された時、わたしは十八だった。特別な力や知識どころか、何も持たない、本当にただの男に過ぎなかった。この世界で十八と言えば立派な成人だが、その当時のわたしは成人にはほど遠かった」
 その頃の自分を思い出すと、ずいぶん情けなかったと笑うしかない。知らない世界にいきなり呼ばれたのだから多少取り乱しても仕方ないかもしれないが、それでも子供じみていたと、ふと恥ずかしくなり反省することがある。
「何の武器も持ったことがないどころか、子供の時分にケンカでも勝った試しのないわたしに護衛なんて務まるとはとても思えなかった。娘は少々落胆したようだが『せっかく呼んだのだから護衛をしてもらわなければ困る』と言ってね。無茶苦茶だし、理不尽だと思うだろう? わたしは別の世界の人間で、彼女が勝手に呼んだのだから」
 同意を求めると、ケファンが小さく頷いた。
「『旅の目的を果たさなければ帰さない』と言うものだから、仕方なしに彼女と一緒に旅立った。ゴンレイルンを出てリオニアを旅し、リュトリザも巡った。ほかの沿岸国にももちろん足を運び、北のエスラディアにも行ったよ。何年にも及ぶ、長い長い旅だった。だが、娘の目的が果たされることはなかった」
「……旅の目的とは、何だったんですか」
「『失われた本』の失われた頁を見つけることだ」
 有村が言うと、ケファンはわずかに息を飲んだようだった。どうやらこの青年は『失われた本』を知っているらしい。
「本のことは知っているようだね」
「世界の始まりからの歴史を記した唯一の本だと聞きました」
 ケファンが謡うように言う。
「そこに記されているのは揺るぎない真実、揺るがない事実。まことしやかな伝説は記されることも許されない。そも、本に文字を綴るのはほかの誰でもない歴史自身――人間が記録するのではなく、歴史が本に刻まれていくのだとか」
「そう、歴史が刻まれる。紛れもない本当のことだけが、本には記録されていく。それが時として為政者の邪魔になるのは想像にかたくないだろう」
 為政者の命令の下で編纂された歴史書は、彼らの正当性を主張するためのものだ。都合の悪い事実は排除され、都合の良いものだけが残され、時に捏造される。権力者によって編纂された歴史書に、どれだけ真実が含まれているのか、握りつぶされた事実はどんなものなのか。『失われた本』には恐らくそのどちらもが記されている。
「だから、為政者は都合の悪い頁を本から切り離し、隠した」
 『失われた本』の頁は、本から切り離せても細かく刻むことはできない。有村の知る限り、頁の八分の一より小さい切れ端はないし、燃やすのは不可能だ。灰にできない以上、切り離した頁を隠すしかなかった。
 『失われた本』は元々はそういう名称ではなかったはずだが、長い歴史の中で様々な為政者の手に渡り、そのたびに頁を破り取られ『失われて』いくうち、『失われた本』と呼ばれるようになったと言われている。本来の名称や、ばらばらにされてしまった頁がどれくらいあるのか、知る者は誰もいないだろう。
 『失われた本』の存在が最後に確認されたのは六十年ほど前。ウェトシーの宮殿にあったが、当時の王の命令によりレーテス海に沈められたとされている。レーテス海のどこなのかは分からないし、本当に沈められたのかも分からない。
「海の底に眠る本を探し出すのは無理だから、娘は切り離された頁を探すことにした。それもまた、容易ではなかったがね」
「……見つかったのですか」
「見つかったよ、たった一頁だけれどね。娘は約束通り、わたしを元の世界へ帰すと言った。だが、わたしは断った。見つかったのはたったの一頁で、頁の大部分はまだ手掛かりさえつかめていなかった。旅の目的はまだ果たされていなかった。だからまた旅が始まった。そして間もなく――彼女は死んだ」
 ケファンが目を瞠る。何故、とその目が問うていた。
「殺されたんだよ、『失われた本』を見つけてほしくない輩に」
 有村は努めてあっさりとした口調で言ったが、この事実を思い出すと今でも悔しさと悲しさが胸を去来する。
 何故彼女が死ななければならなかったのだろうと、有村も思う。
 彼女は為政者たちのついた嘘を暴きたかったわけではない。ただ知りたかっただけだ。ヨルンに掬われることもなく、時の流れに沈んでいった人々の営みを。ゴンレイルンに竜が飛来したという伝説の真偽を。
「それから、わたしは一人で旅を続けた。娘のものだった旅の目的が、わたしのものにもなっていた」
 娘の目的が有村のものにもなった理由は単純で、有村がこの世界に残る決意をした理由とまったく同じだった。
「君は故郷を諦め現状を受け入れる術をわたしに求めているが、期待には応えられないかもしれない」
 ケファンが怪訝そうな表情になる。不安の色もわずかに見えた。
「単純だったんだよ、わたしは。彼女が好きだった。彼女もわたしを好きだと言ってくれた。だから元の世界へ戻らなかった。それだけなんだよ」
 有村とて悩まなかったわけではない。だが最終的に彼がつかんだ答えは、一言にまとめられるほど簡単なものだった。高尚な理由を求めているかもしれない悩める青年にとっては、とんだ肩すかしだろう。
 二十年以上前に聴いた歌声が甦る。
 有村に『ゴンレイルンの竜』を初めて聴かせてくれたのは彼女だった。お世辞にも上手とは言えない娘の歌声は、しかし彼の耳には甘く響いた。
 あの頃にはもう有村の心は決まっていた。彼女が死んだことで決心はいっそう固くなった。
「娘が死んでも戻る気にはならなかった。家族や友人に会いたいと思うことはもちろんあるよ。だけどわたしは自分のするべきことをこの世界で見つけた。だから、戻るつもりはないんだ。今までも、これからも」
 ゴンレイルンの竜と同じようにとこしえの眠りにつくまでずっと、『失われた本』の頁を追い求め続ける。
 きっかけは、彼を召喚した娘にあった。しかしきっかけはきっかけに過ぎない。元の世界へ戻る道も彼の前にはあったが、そこを進まずこの世界で生きる道を選んだのは有村自身だ。
「諦めるのも受け入れるのも、君の心次第だよ。わたしには、それくらいのことしか言えない」
 ケファンはじっと黙ったまま、再び小さくなった焚き火を見つめている。
 若者のために有村が言えるのは、ごくありふれた当たり前のことしかない。これ以上何か役に立ちそうな話は持っていない。『失われた本』の中にも恐らくはないだろう。
 どれだけ時間が経ったのだろう。焚き火がほとんど消えた頃、足元に転がしたままだった竪琴をケファンは拾い上げた。
「お話を聞かせてくれて、ありがとうございます」
 ケファンの指が、軽やかに弦を弾く。
「ここからは、本来の務めに戻りましょう。聴かせ楽しんでいただくのが僕の役目」
 まだ完全に吹っ切れたわけではない、しかしそれでも憑き物の落ちたような顔でヨルンの青年は微笑んだ。
「今宵はただ一人あなたのために、極上の物語を調べに乗せてお聴かせしましょう」
 どんな話がいいかと、ケファンが目で促す。月光に濡れた青年は、天空神ミアが気紛れに遣わせた眷属かと見紛うほど神秘的で美しかった。
「では、ここウェルルシアにまつわる話を」
「かしこまりました」
 竪琴が嫋々と鳴り、ケファンの澄んだ歌声が夜の大気をふるわせる。
 鳥たちのさえずりがやみ、有村も歌声と音色に耳を傾けた。

〈了〉



※本作は異世界召喚競作企画テルミア・ストーリーズ+の参加作品です。公式設定及びマイ設定(テルミア全般2、リュトリザ1)にオリジナル設定を加え、ミッション12を使用しています。詳しくは企画サイトをご覧ください。