Eve or Vandor

全身から、ありとあらゆる力が抜けてゆく。膝から崩れ落ちたまま立ち上がる事は出来ず、指先を動かす気力さえもうない。
僅かに残された気力で俺は願っていた。
いつから抱き始めたのか分からない、何度抱いたのかも分からない願い。今度こそこれが『最後の終わり』になればいいという、祈りにも似た切実な願い。
途絶えようとしている意識の中、俺は漸く女の顔を見た。
いつでも俺を殺す女。何度生まれ変わろうとも、銀色の目を持って生まれてくる俺の女。


指先から、魔力の通った不可視の糸が延びていく。五本の糸は蔓草のように彼の体へ絡み付き、ありとあらゆる力を奪っていく。
彼の生命という力さえ奪いながら私は願っていた。
いつから抱き始めたのか分からない、何度抱いたのかも分からない願い。次こそ彼と『最初の出会い』を果たしたいという、凝り固まった切なる願い。
意識が途絶えようとしている中、彼は漸く私の顔を見た。
いつでも私が殺す男。何度生まれ変わろうとも、金色の目を持って生まれてくる私の男。


「愛しているよ、あの時からずっと。何度生まれ変わっても愛しているよ。そして、俺は『本当の心の在処』を知っている」
俺はずっと信じている。お前への想いは俺の、俺だけの魂の声なのだと。
だから確かめる事など何もない。
だがお前が望むのであれば、俺には応じる以外の選択肢はない。喜びと悲しみを持って受け入れよう。お前の言葉を、お前の総べてを。


「愛していたわ、あの時からずっと。何度生まれ変わっても愛していたわ。だけど、私は『心の本当の在処』を知りたいの」
私にはもう分からない。貴方への想いが私の、私だけの魂の声なのかが。
だけど今すぐに確かめる事は出来ない。
本当に最後の終わりを迎えてもう一度真っ新な出会いをしてやっと、私は素直に受け入れる事が出来る。貴方への想いを、貴方の総べてを。

  ***

「先生、さようなら」
「ああ、また明日」
魔術師見習いと擦れ違う度、元気の良い声がかかる。十人以上の見習いと挨拶を交わしたが、自分の控え室に辿り着いた頃には彼らの殆どが帰ったのか、学内はひっそりとしていた。
控え室の窓からは燃え上がる太陽が見えた。雲を茜色に彩る夕日は間もなく稜線の彼方へ隠れるだろう。帰巣する鳥が群れをなして飛んでゆく。
鳥達の啼く声が窓越しに幽かに届いていた。
――他にも、俺の元に届いているものがあった。扉越しでも伝わってくる緊張感に満ちた硬質な気配。俺の魂をざわつかせる、懐かしく愛おしい不穏な雰囲気。
ゆっくりと扉が開く。
「……ヴァンドール」
呼ばれたのは『今』の俺の名ではなく、俺の本当の、魂の名。その名を知り、呼ぶ事の出来る者はただ一人。
「久し振りだな――イヴ」
振り向かなくとも背後に立つのが誰なのか分かっていた。この空気を連れてくる女は一人しかいない。いつの時代でも、どんな場所にいても。
「まだ、私は貴方をちゃんと覚えていて、貴方も私を覚えているのね」
「よく覚えているよ。お前を忘れるはずがない」
「そう……そうよね……」
イヴの声は疲れていた。俺が彼女を覚えていた事、彼女が俺を覚えていた事――未だ変わらぬこの現実に。だが声に疲れはあっても、諦めはまだなかった。諦めを知らないのが彼女の変わらぬ魅力だが、それ故に俺は彼女の顔を見る事さえ満足に出来ずにいる。ずっと。
「残念だわ、とても」
振り返らない俺の背にイヴが掌を沿わせる。
「さようなら、ヴァンドール。今度こそ、違う名で貴方を呼びたいわ」
イヴが深く息を吸う。彼女が何をしようとしているのかはもう分かっている。俺は逃げはしないし抵抗もしない。これまでと同じように、イヴに殺されるのをただ待つだけだ。
「……さようなら、イヴ。今度こそ、違う名でお前を呼びたいよ」
イヴの唇から妙なる調べのように呪文が流れ出る。何度も聴いた決して飽く事のない、俺の為に奏でられる旋律。
俺の命を奪う魔術の檻が彼女の指先から見えない糸となって伸びてきて、俺の体に絡み付いてゆく。
イヴ、俺のイヴ。本当は、俺の愛するお前であれば名など何でも構わない。お前とまた二人、手を取り合い寄り添い合って生きてゆければそれでいい。
それだけでいい。

  ***

もう何百年も前の事だ。人々は《獣》と呼ばれる魔物の存在に怯えていた。
《獣》は闇に紛れて何処にでも現れ、巨大な口で人や家畜、時には建物さえも飲み込んだ。火を恐れず刃も通じない。毎夜現れて各地を荒らし回る事もあれば、数ヶ月数年に渡って一切姿を現さない事もあった。
武器の通じない《獣》を退治出来る可能性があったのは魔術師だけだった。故に数え切れない程多くの魔術師が《獣》に立ち向かった。魔術師達は《獣》に傷を負わす事が出来た時もあったが、退治は叶わなかった。
それでも《獣》の暴挙に終わりはやって来た。二人の若い魔術師がとうとう《獣》を封印する事に成功したのである。
それが、俺とイヴだった。


私とヴァンドールは、《獣》が猛威を奮っていた時代に別々の場所で生まれ育った。二人して年端もいかないうちから天才と呼ばれ、これこそが己の使命と《獣》の退治に乗り出した。
私達は《獣》を追う旅路の中で初めて出会い、同志として共に《獣》と戦い、封印したのだ。
《獣》の存在に怯え続けた人々は私達を称賛した。私達の名は英雄の称号を添えられて瞬く間に広がり、各地の諸侯は恩賞を惜しまなかった。私とヴァンドールが妙齢の男女だった為、吟遊詩人達はその仲について想像を膨らませ英雄譚を謡った。
人々の温かな祝福に包まれ、私達は広く謡われたように愛し合っていた。
《獣》を封印した、その後から。


《獣》を追い詰める最中、俺もイヴも一番の関心は《獣》にあった。互いの身を心配する事はあっても、それは同志に向ける以上のものではなかった。
《獣》の脅威が去って漸く、他に関心を向ける余裕が生まれたのだ。その関心が多くの苦難を共に乗り越えてきた相手に向くのは自然の事に思えた。
鍛え上げた刃のように澄んだ銀色の瞳を持つ女。俺のイヴ。
お前が傍らにいるだけで何もかもが満ち足り、戦いに明け暮れ殺伐としていた旅路は昔日の記憶へ変わっていった。俺達は道中そうであったように片時も離れる事はなく、あの頃とはその意味がまったく違っていた。
だが俺達は長く時を共有する事はなかった。離れてしまわないよう強く激しく求め合っていたのに、俺達は離れ遠ざかるしかなかった。


日中の太陽のように輝く金色の瞳を持つ男。私のヴァンドール。
彼と離れる事は我が身を引き裂かれるようだった。けれどそうするよりなかった。
私とヴァンドールが一緒にいるだけで周囲に歪(ひず)みが生まれ、そこから魔物を呼び込んでしまう。
天才魔術師と言われた私達でも、歪みが生まれるのをどうする事も出来なかった。
どうする事も出来たはずがないのだ。私達が《獣》を封印したせいで歪みは生まれていたのだから。
日々を穏やかに過ごす人々を恐れさせたように、《獣》は立ち向かった魔術師達をも恐れさせた。どんな武器も魔術も通じない。魔術構成ごと術師を飲み込む事さえあった。数多の魔術師が志半ばで露と消え、《獣》は倒す事の出来ない脅威と嘆き諦める者も少なくなかった。
けれど私とヴァンドールはそれを封印した。
――そう、『封印』したのである。倒したわけでは、なかった。


魔物は、肉体を滅ぼすだけでなくその魂まで完全に滅却しなければ再生を果たす。
だが想像を絶する強さを持つ《獣》の魂を消し去る事は、俺とイヴでも不可能だった。
《獣》の魂を二つに分かち、己の魂でもってその力を抑え込むという方法を取るしかなかった。たとえ俺達の魂が《獣》の魂の影響を強く受けてしまうとしても、他に術などなかったのだ。


二つに引き裂かれた《獣》の魂は、私達の魂で抑え付けられていてもなお力を放ち続けた。
押し込めきれなかった力が私達の周辺に歪みを招き、魔物を呼び寄せてしまう。私とヴァンドールが近付くほどに、一つに戻りたがる《獣》の魂が声なき叫びを上げ、より一層強い歪みを生んだ。
だから、私達は遠ざかるよりなかった。


魂を引き裂かれるとはこういう事なのかと、イヴと離れた時に思った。
共に生死を賭け《獣》に立ち向かったイヴは同志であり戦友だった。《獣》を封印した後は同じ苦楽を唯一分け合った伴侶となった。
だが人々が《獣》のいない平穏を謳歌しているのに、俺達にはそれが許されなかった。《獣》を封印した俺達には、決して。
人々の平穏の為に俺とイヴは自らを生け贄として捧げた――。そう謡った吟遊詩人もいた。
だが時が流れるにつれ、人々が《獣》の脅威を少しずつ忘れてゆくにつれ、吟遊詩人達の謡う内容は歪んでいった。
英雄と呼ばれた二人の魔術師は、実は強大なその力を得る為に《獣》の魂を自らのものにしたのだ、と。
《獣》の魂を分かち持つ二人が再び出会う時、《獣》はもう一度この世に解放されるのだ、と。
離れ遠ざかって生きてゆく事を選んだ俺達が、新たな脅威と看做される迄に長い時はかからなかった。


眩い金色の瞳を持つヴァンドール。
静かな輝きを放つ銀色の瞳の私。
それが目印となり、人々は私を見つけると恐れ戦きながら武器を手に取り向かってきた。彼らを退けるのは容易かったけれど、そうすればますます恐れられる。だから逃げるしかなかった。
私のヴァンドール。貴方はあの澱んだ水底のような時代をどんな思いで過ごしたのだろう。
私は貴方と過ごした束の間、平穏で幸せだった思い出を糧に、それだけを心の拠り所に生きていた。
ただ生きるだけの時が流れていた。
生きて死ぬ事だけが、いつからか目的となっていた。
 

魂だけからでも再生を果たすのが魔物。
引き裂かれてもなお強い力を放ち続ける《獣》の魂は、俺達の魂を変質させた。再生を果たす魔物のように、何度も生死を繰り返すようになっていた。
俺とイヴは紛れもなく人間だ。何度この世に生を受けようともそれだけは変わらない。ただ成長するにつれて《獣》を封印した魔術師『ヴァンドール』と『イヴ』の記憶を、人格を取り戻してしまうのだ。
どんな名を授けられようとも、俺は『ヴァンドール』であった自分に目覚める。かつて自分が何を成し遂げ、何を失ってしまったのかを思い出してゆく。
イヴ。俺の失われた伴侶。お前の顔をもう一度見る為、俺はいつでもお前を待ち続けていた。


魂を完全に滅却しない限り再生を果たすのが魔物。
私達を何度でも生まれ変わらせるほど強い力を持つ《獣》の魂であっても、力を放ち続ければいずれ涸渇する。私達が転生を繰り返す事で《獣》の魂の力は僅かながら削ぎ落とされていく。
ならば私達が転生を繰り返していけば、いずれ力を使い切った《獣》の魂は消滅するだろう。その時初めて、私とヴァンドールは本当に《獣》を倒した事になるのだ。
どんな名を授けられようとも、私は『イヴ』だった自分に目覚める。かつて自分が何を成し遂げられないまま、何を見失ってしまったのかを思い出していく。
ヴァンドール。私の伴侶かもしれない男。貴方と共に生と死を繰り返す為、私は貴方を捜し続けていた。


《獣》の脅威が去って数百年。
それを封印した魔術師も、《獣》の事さえ忘失されて久しかった。俺とイヴだけが何も忘れる事なく、《獣》を封印した事で陥った運命を踏み拉(しだ)いていた。
イヴ。お前はいつも、《獣》の力を削ぐ為に生と死を繰り返すしかないと言う。俺達のこの心が、魂の叫びが、俺達だけのものではないかもしれないと言う。
漸く再会を果たせても、その喜びは長く続かない。俺達が近くにいれば変わらず歪みが生じ、魔物を呼び寄せてしまうからだ。
それでも俺は、お前を求めるこの心が本当に俺だけのものだと信じている。お前の心も、お前だけのものだと信じている。《獣》の魂など関係ない。俺はいつでもお前と、お前だけと一つになりたいと願っている。
イヴ。俺はお前を愛している。再会が一瞬でも愛おしいお前と会えるのならば構わない。それが俺の、俺だけの感情なのだと言い切る事が出来る。
お前と惹かれ合ったのが、《獣》を封印した後であっても。


《獣》を封印して数百年。
私とヴァンドールは数え切れないほどの転生を繰り返していた。後戻りの出来ない歪(ゆが)んだ運命を辿るうち、私には分からなくなっていた。
ヴァンドール。貴方でないと私の心にある洞(うろ)を埋める事など出来ない。貴方と一つになりたいのだという声なき叫びが、轟々と吹き抜ける風となって私の中で谺している。
貴方を見つけ出した時に見せてくれる優しい笑顔。それを見るといつも、いつでも、私は泣きそうになる。でも、漸く貴方と会えた嬉しさの為なのか、すぐに別れなければならない悲しさの為なのかは分からない。
そもそも私は、貴方に焦がれるこの心が本当に私だけのものなのか分からない。貴方の心が貴方だけのものなのか疑ってしまう。一つに戻りたい《獣》の魂が、引き裂かれた己の片割れを欲しているだけなのかもしれない。
ヴァンドール。私はきっと貴方を愛している。だけど狂おしいほど貴方を求めるこの感情が私の、私だけのものだと言い切る事が出来ない。
貴方と惹かれ合ったのは、《獣》を封印した後だったから。

  ***

西の端は夜の残滓で藍色に沈んでいるけれど、彼方の水平線は白く輝き始めていた。一足早く届いた陽光が縦に延びる雲の底を明るく照らし、頂上には影が滲んでいる。
なだらかな丘陵地に広がる畑のあちらこちらに人の姿があった。だけど誰も夜明けの瞬間など見ていない。収穫期の真っ只中で休む間もないほど忙しいのだ。
目の前には収穫を待つ赤く熟れた果実があるのに、私の手はさっきから少しも動いていなかった。
収穫した果実の一部は種用に取っておく。次の春、畑に蒔くのだ。そしてまた収穫の時を迎える。それをずっと繰り返してきている。
――私もまだ、繰り返しの中にいる。
「ヴァンドール……」
農民の子として生まれたけれど、今や私のすべき事はこの場所にはなかった。
イヴである事を思い出してしまった私のすべき事は、イヴである私のすべき事はただ一つしかない。
生まれたての朝日と同じ金色の瞳を持つ男。彼を捜しに行かなければ。
ヴァンドール、私のヴァンドール。私の心は貴方を求めている。胸が焦げ付くほど貴方が愛おしい。今すぐに貴方の顔を見たい。貴方の声を聞きたい。貴方がいなければ気が狂ってしまいそう。
だけど私には、それが本当に私の、私だけの感情なのかが分からない。もうずっと前から分からない。
だから確かめなくては。
確かめる為に終わらせなくては。
終わらせるにはこの繰り返しの環から抜け出さなくては。
貴方がこの世界の何処にいても、私の――私のだけではないかもしれない魂が、片割れの在処を感じている。
私はまた貴方を見つけてみせる。

〈了〉