お疲れさまです

 実に清々しい朝だった。
 眉間にしわを寄せて口をひん曲げ、天に向かってこの世に存在するあらゆる罵詈雑言を並べたてたい。だがそんなことをしたところで、そよと吹いた爽やかな風にあっという間にさらわれてしまうだろう。そんな朝だった。
 なにも朝の訪れを呪いたいのではない。
 愛しい女とのめくるめく素晴らしき夜の終焉を宣告されたわけではないのだ。そもそも、自分と夜を過ごしてくれる女がいない、という悲しい事実がその前に厳然と立ちはだかっているのだが、今はそんなことは問題ではない。ひとまず、問題ではないとしたい。
「くそ、仕事行きたくねぇ……」
 己を大きく見せようと見栄を張り、ありもしない力を誇示したところで、社会を動かす極小サイズの歯車にしかすぎない自分を見つけてしまう、そんな朝。
 大金を言葉一つで右から左に動かして、たった一夜にして大勢の人々の人生をひっくり返してしまう、そんな人間であれば、いつでも朝は、世界が自分を起こすために訪れるものだなんて吹聴することもできただろう。
 だが俺は、ごくごく普通の一小市民だった。休日明けの朝に限ったことではないが、出勤日の朝はいつでも仕事に行きたくないと呟くのが、目覚めてからの第一声となってしまっている、実にありふれた若者である。
 起きたくないのに決まった時間に目が覚める習慣が身に付き、いつまでもベッドの中でうだうだと過ごすわけにもいかないというごく普通の感覚が備わっているおかげで、仕方なくベッドから這い出す。
 顔を洗ってから適当にヒゲをあたり、干すだけ干してたたんでいない洗濯物の山から適当な服を見繕った。気持ち程度にしわを伸ばして着込み、仕事用の鞄を手に取ると、ため息と共に家を出る。起きてから、十五分後だった。

    ×

 新聞記者になる。
 それが、俺がいつの頃からか抱いていた夢だった。この世の中に真実を伝えることこそ、己の仕事だと信じた俺は、厳しい就職戦線を勝ち抜けて、念願の新聞社へ就職した。四年前のことである。
 ところが現実はどうだ。
 俺は長年抱いた夢をつかんだはずじゃなかったのか。つかんだはずの夢は、いったいいつの間に俺の手からすり抜けて逃げていったのだ。

    ×

「これを意中の相手に飲ませれば、坊やを毛虫のごとく嫌う女性でもたちまちイチコロ間違いなしよ」
 そういう前置きと共に鮮やかかつどぎつい水色の液体が入った瓶が、目の前に突き出される。
「はあ」
 俺は生返事をしながら、掌に収まる大きさの瓶越しにそれを持つ人物を見ていた。
 年齢不詳の女。ただし、若いのか歳を取っているのか分からないという意味での年齢不詳ではなく、果たして何十年、あるいは何百年生きているのかという意味で年齢不詳の女。一応歳を尋ねたのだが、「女性に年齢を聞くなんて、失礼な坊やだね」と皺に埋没している目をますます埋没させて、彼女は答えをはぐらかした。
「それは……いわゆる惚れ薬ですか?」
 俺を毛虫のように嫌う女でも振り向かせることができるなら、相当強力な惚れ薬だろう。およそ飲み物と思えない色をしている液体だが、本物であれば数多の老若男女が喉から手が出るほど欲しがることだろう。
「試してみるかい?」
 皺に埋没した目がまたさらに埋まって、どこへ行ったのかも分からないほどになる。おそらく彼女は俺を見ているに違いないのだが、俺は彼女と目を合わせることができない。いや、今の状況ではむしろできない方がいい。
 俺はとてつもない悪寒に襲われていた。身の危険をヒシヒシと感じる。今すぐこの場から逃げるべきだと本能が叫んでいる。明るい明日を迎えることなどできはしない危機がすぐそこに迫っているのだ、全力で逃げ出せ、俺!
「すみません、お手洗いをお借りできますか?」
 俺は蹴飛ばすようにして椅子から立ち上がった。逃げるのは決して恥などではないはずだ。現状ならばなおさら。
 ところが、向かいにいる年齢不詳老女の埋没しているはずの目が、獲物を捕らえた瞬間のようにギラリと光るのを俺は見てしまった。
 背後に誰もいないはずなのに、俺が蹴倒した椅子がぐっと前に押し出されて膝の裏に衝突する。不意打ちを食らった俺は椅子に尻餅をついた。慌てて立ち上がろうにも、見えない手で椅子に押し付けられて動けない。
 焦る俺を尻目に、老婆は傍らのテーブルに用意していたお茶を、カップに注ぐ。注がれたお茶はごく淡い茶色でほのかに湯気がたっている。あのお茶だけならば、きっと普通に美味しいに違いない。
 だがしかし、老女は淹れたお茶をすぐには寄越さない。片手には例の奇抜な色の惚れ薬が入った瓶を握ったままである。
「坊や、これを飲んでからでも遅くはないだろう?」
 老女はにたりと笑い、カップに惚れ薬を数滴落とす。ぐるぐると念入りにスプーンでかき混ぜて、それを俺に差し出した。
「せっかくですが、喉は渇いていません」
 俺はささやかな反抗を試みた。
 しかし、俺を今も椅子に押し付けている不可視の力が右腕にも加わり、無理矢理腕を上げさせられる。そのうえ、指まで一本一本動かされ、差し出されたカップをしっかりと握らせた。
「嫌だ! 絶対に飲みたくない!」
 必死にカップから指を離そうとするが、尋常ではない力で押さえ込まれて指はぴくりとも自分の意志で動かせない。腕は見えない力に動かされ、カップを口元へ持っていく。
 数滴しか混じっていないはずなのに、お茶は青みがかっていた。薬の匂いもはっきりと嗅ぎとれる。こんなに存在を主張する惚れ薬では、相手にバレバレではないか。脳裏にふとそんな心配がよぎるが、今は他人の心配をしている場合ではなかった。
「効果のほどを知るには、体験してみるのがいちばんよ」
 老女は楽しげに笑っている。そこに、俺の悲鳴が重なる。
「ひいいいぃぃ!」
 見えない力は俺の口をこじ開けて、惚れ薬入りのお茶を流し込んだ。
 むせながらもそれを嚥下してしまった俺に起きたその後の出来事が、生涯二度と思い出したくない思い出のひとつとなったことは言うまでもない。

    × 

 俺が勤める新聞社は、新聞以外に様々な雑誌も発行している。俺は新聞記者希望だったが、入社して配属された先は新聞ではなく雑誌だった。
 配属先が普通のゴシップ紙や情報誌だったら、まだよかった。そこで修行を積んで、いずれ新聞の記者になるんだという希望を持ちつづけることができただろう。
 ところが今の俺は、その希望を持ちつづけるのがだいぶん難しい状況に置かれていた。最近は、会社を辞めるべきか辞めざるべきかと考えることが多い。
 新聞記者になるという夢を投げ打ってでもそう考えねば、俺の心の平静は保てない。いや、もう既に平静ではないのかもしれなかった。

    ×

 『月刊魔女』。
 それが、俺の配属された雑誌である。
 世の中の魔女のためというコンセプトで、魔女の間でもそれ以外の人々の間でも話題の雑誌だ。
 魔女の真面目な論文から魔女たちのゴシップ、占術の得意な魔女によるやたらと具体的な占いに、呪術を専門とする魔女による簡単かつ効果覿面な呪いの方法(編集部注:自己責任のもとで実行してください)まで、内容はバラエティに富んでいる。
 俺は、そんな『月刊魔女』である連載を任されていた。
 任されてはいるが、いつでも連載を終わらせる気は満々だった。編集長と打ち合わせするたび連載の終了か担当の交代を訴えるのだが、あいにく俺の意見が通ったことはない。通っていれば、今でも迷うことなく夢に向かって邁進していたことだろう。
 俺の意見がまったく通らないのには理由があった。俺にとっては迷惑このうえないことだが、『月刊魔女』の中でも俺の連載は一、二を争う人気を得ているのだ。
 記者の端くれだから、自分の連載が人気であれば胸を張って己の自信と自慢と誇りにしたい。が、俺はそんなものは野良犬にくれてやっても全然構わなくて、一刻も早くこの連載から逃れることばかりを願っていた。
 俺の担当する連載は『今月も不思議いっぱい! ドキドキ☆魔法体験!!』という、悪ふざけなのかあるいはセンスの欠片が微塵もないと思うしかないタイトルだった。名付け親は編集長である。
 内容はタイトル通り、担当記者である俺が様々な魔女の元を訪れて、彼女たちご自慢の魔法の餌食になる――もとい身をもって体験するというものだが、魔女たち自慢の魔法は奇天烈で奇抜でろくでもないものが多い。いや、それしかないと断言してもいい。
 カエルや牛に変身させられる魔法などまだかわいらしい。
 どんな猛獣にも芸を仕込めると自慢する魔女を取材した時は、ライオンに「お手」をして危うく右手をなくすところだった。
 竜を操れるという魔女の時は、無理矢理竜の背に乗せられた。はるか上空まで竜は舞い上がり、酸欠と寒さで死にかけた。
 自称人形遣いの魔女は、岩で作った人形をこれでもかと見せびらかしてくれた。そして俺はどういうわけか岩人形と戦うこととなり、全治一ヶ月の重傷を負った。
 薬関係の魔法でもひどい目に遭っている。
 原材料が何なのか知りたくもない薬で、頭髪があっという間に白髪に変わったり、ヒゲがずるずると異常な速さで伸びたり、怖いくらいに肌がスベスベのツルツルピカピカになったかと思ったら、皺だらけのじいさんに変わってしまったりと、ろくな目に遭っていない。
 しかし、どういうわけか俺の体験した数々の不幸から生み出される記事は好評で、『今月も不思議いっぱい! ドキドキ☆魔法体験!!』が最終回を迎える気配はとうぶんない。担当が変わる気配もない。
 俺は、俺と連載、どちらが先に寿命を向かえるのだろうかとぼんやり考えてしまう時がある。

    ×

「タクサカ、やつれてるな」
 机に突っ伏して半死人のようになっている俺の隣の席に、同僚がどかりと座った。同じ雑誌の記者なのだし、こいつみたいに生きのいい奴が魔女の体当たり取材に行けばいいのに。
「取材、行ってきたんだ……」
「ああ、今日は『魔法体験』の取材日か。来月号は、媚薬作りで有名なホーセラン婆さんだっけ。どうだった?」
「……思い出したくもない」
 何百年生きているのか分からない、媚薬作りを得意とする魔女。そこに若く健康的な青年たる俺がのこのこ訪ねていって、何事もなく取材が終わるはずがなかった。
「なんだ、またひどい目に遭ったのか?」
 同僚の言葉が、まだふさがってもいない心の傷をざっくりとえぐる。
「今回は今まででいちばん酷い、最悪だぁ! もうお婿に行けないッ!」
 俺はがばっと起きあがって頭を抱えた。ホーセラン婆さんに取材して起きた、まだ生々しい出来事が甦ってくる。
「え。まさか……」
 同僚もさすがに顔色を変えた。

    ×

 惚れ薬入りのお茶を無理矢理飲まされた俺は、今回の取材対象たるホーセラン婆さんに、口にするだに恐ろしいことながら、惚れてしまったのだ。心の底から恋い慕ってしまった。
 しかし不幸中の幸いで、理性がしっかりと働いていて、婆さんを慕う気持ちは惚れ薬のせいだと俺の正気を留まらせる。さすがに見えない力も俺の理性まで抑えつけることはできず、理性と恋心は激しい葛藤を続けた。
 そんな俺を見たホーセラン婆さんは、やはり魔女だった。
「この姿なら、坊やも少しは楽だろう?」
 などと言って、皺だらけの老婆から絶世の美女に変身したのである。
 この卑怯かつ強烈な一撃に、俺の理性は偽りの恋心を前に圧倒的不利に立ってしまった。
 出るところははち切れんばかりに盛り上がり、くびれるところは蠱惑的な曲線を描く。魅惑的ボディを眼前にして、俺の理性は砕け散りそうだった。葛藤はいや増すばかりで、少しも楽にならない。
 しなしなと動く指先が俺の顎を掬い上げる。皺と唇の区別さえつけるのが難しかったホーセラン婆さんの顔は、磨き上げた宝石ようにすべすべでつややかだった。
 俺は目の前の美女が年齢不詳の老女だと知っている。
 知ってはいるが、健全な青年である俺の目に、たとえ惚れ薬を飲まされていたにしても彼女の姿はどうしようもなく魅力的に映った。見えない力が俺の頭部をがっちり固定して微動だにできなかったとはいえ、本来もっと激しく抵抗すべき場面でそうしなかったことが、とてつもなく悔やまれる。
 赤い果実のようなホーセラン婆さんの唇はふっくらとしていて、俺の唇に押し当てられたそれは、予想通り柔らかかった。
「坊や、これであたしの薬の効果が分かったでしょう」
 俺からすっと顔を離したホーセラン婆さんが優雅に微笑む。俺の理性と激しくぶつかり合っていた偽りの恋心は、火が消えたようになくなっていた。
「な、なんで……?」
「あたしの惚れ薬は、口付けすれば効果が消えるのよ」
 呆気にとられる俺の目の前で、絶世の美女が姿を変えて元の皺だらけの老婆に戻る。美女との口付けの余韻は、あっという間に動かし難い現実に塗り潰された。
「惚れ薬で心を手に入れても、それが虚しいこととすぐ分かるようにね」
 ホーセラン婆さんはカラカラと笑ったが、使った側ではなく、使われた側の俺がどうしようもないほど虚しくかつ悲しくなるのは何故だと問わずにはいられなかった。

    ×

「なんだ、貞操は守れたんだからよかったじゃないか」
 俺の身の毛もよだつ体験を聞いた同僚は、拍子抜けした顔をしていた。俺は血を吐く思いで打ち明けたというのに、表情にも言葉にも同情が少しも見当たらないのがはなはだ不満である。
「少しもよくない! 相手が婆さんだと分かってたのに、唇が柔らかかったとか思ってしまった自分が嫌だあ!」
 同僚の同情も慰め得られず、俺はさめざめと泣いた。泣くしかないだろう、あんな目に遭ってしまっては。
「でもまあ、来月号も好評間違いなしだな」
 と、同僚が俺の背を叩く。励ましてくれているのだろうが、俺がほしいのはそれではないことを彼は分かっていない。
「読む方からしたら、面白い」
「俺は全然面白くもなんともないわ!」
 仕事を辞めるか辞めないか、俺の心の天秤は今日も拮抗状態だ。

〈了〉