彼と彼女と書架のあいだ

 ここ数日雨続きで、空気ばかりでなく気持ちまでどんより湿り気を帯びていると思う。
 レポートの提出期限に追われているせいでそう感じる、という意見もあるだろう。
 そしてどちらかといえば、レポートのせいで晴れやかな気分になれない。
「いいからさっさと書きなさいよ」
 私が抱えているアンニュイな気持ちを共有してほしい、とまでは言わないものの同じレポートに取り組んでいる友人として加弥子にはもう少し共感してほしかったのだが、ツッコミ体質の友人の返事はあっさりと言うよりばっさりである。
 大学図書館の四人がけテーブルを二人で陣取り奮闘すること早二時間。相手はなかなか手強いため、死闘の終わりはまだ見えない。同じ科目を履修している友人が加弥子しかいないので、援軍を頼めるのは彼女だけだ。難問にぶつかれば二人で頭をつき合わせて知恵を絞るのだが、文殊の知恵にはあと一人足りないので苦戦することもしばしばだ。なにより、二時間ぶっ続けでレポートに取り組んでいるため、私の集中力は底を突きかけていた。
 腕組みして首を傾げて考えるふうを装うのだが、いっかなレポートははかどらない。先程から数行しか進んでいなかった。洗濯機で脱水したタオルからさらに水を絞り出そうと努力しているようなものだ。
「ダメだ、気分転換してくる」
 私はのろりと立ち上がると書架室へ向かった。
 外の空気を吸いに行きたいところだが、いまはあいにくの雨模様。館内以上に湿気を含んでいるところに自ら飛び出していったら身も心も本当にじめっとしてしまいそうだったので、資料探しも兼ねての気分転換である。
 書架室は元々照明が抑えられている。窓はあるがブラインドで遮光されているし、外はどんよりとした天気で時刻も五時を回っているので、なおさら暗かった。気分転換にと思って来たのだが、なんだかかえって気が滅入ってしまいそうである。こんなことなら雨にも負けず外へ行ったほうが良かったかもしれない。行ったら行ったで、おそらく後悔しそうな雨足ではあるが。
 結局のところ憂鬱になるのはレポートのせいだと諦め、レポートに関係のある分野の書架を見て回る。しばらくうろうろして、良さそうなタイトルの本を見つけた。――見つけたのだが、私はその本を下からじっと見上げることしかできなかった。
 高い。高すぎる。
 平均身長を大きく下回る私が精一杯背伸びしても、本の下のほうに指先がようやく届くかどうかといった高さに、それはあった。背の高い書架のいちばん上の棚である。みっちりと本が並んでいるので、指先が届いたところで取り出すのは難しそうだ。せめて左右に隙間があれば何とかなったかもしれない。
 だが、こういうときの強い味方がある。踏み台だ。書架室内にいくつかあって、自由に使えるようになっている。ただ、いまいる書架の近くには一つもないようだった。
 左右の書架の間をのぞき込んでも、踏み台は見つからなかった。どうやら近くにはないらしい。この大学に関係のあるすべての分野の書籍が集まっているので書架室は縦にも横にも広く、地下三階まである。もっとも、踏み台は各階にそれぞれ用意されているので別の階に行く必要はないのだが、それでも一階の書架室内を探し回らなければならない。
 資料の次に踏み台も探さなければならないのは億劫だ。資料は関係する分野の書架をのぞけばいいからある程度当たりはつくが、踏み台はそうはいかない。どこに隠れているかも分からないのだ。この身長のためにたびたび踏み台にはお世話になっているが、必要なときに限って何故か近くにないものである。ようやく見つけたと思ったら、その周辺には踏み台が三つばかり集まっていたこともある。一カ所に集まるような性質のものでもないだろうに、不思議なものだ。
 それはさておき、私は前後左右を伺った。周囲には誰もいない。踏み台を探しに行くより実は手っ取り早い方法が、あるのだ。それは誰にもお勧めはできないし、それどころかマナー違反である。
 下から二番目の書棚につま先をそっとかける。私の秘密の方法は、書棚によじ登ることだった。背伸びをしても届かず近くに踏み台も人目もないときに、こっそりと何度か実行したことがある。本は汚さないように気をつけているし、用が済んだら棚についたほこりは払っている。とはいえ、胸を張って威張れるようなことではないと重々承知していた。
 棚を足がかりに頭より上の棚に手をかけて、「えいや」と身体全体を持ち上げ――
「高橋、何やってんの?」
 持ち上げようとしたら、いきなり声をかけられて心底驚いた。とっさに棚から飛び降りたが、着地のバランスがいまいち悪くてよろめいてしまう。隣の書架に寄りかかることで、なんとか転倒は免れた。
「大丈夫か?」
 言いながらやって来たのは、同じ学科の寺島君である。
「なんとか……」
 思い切りまずいところを見られてしまったばつの悪さと彼の上背があるせいで、目を合わせられない。
「そりゃ良かった。で、何やってたの?」
「……ちょっと、上の本を取ろうと思って」
 私はちらりと目的の本を見上げる。私の視線をたどるように寺島君の顔が動く。ただし、本を見上げるときの首の角度はだいぶん違っていた。
「どれ?」
 視線をたどったものの、どの本かは分からなかったらしい。寺島君の視線が私の顔に戻される。私は本のタイトルを読み上げた。
 今度こそ寺島君はそれを見つけると、あっさり書架から取り出した。
「ほら」
 私の頭にぽんと置くと、それから改めて目の前に差し出した。
「あ、ありがとう」
 私ではとうてい手の届かない高さに楽々手の届く寺島君がうらやましい。しかもさり気なく親切だ。
「今度は踏み台を使えよ。危ないし、マナー違反だし」
「分かってるよ、それは。ただ、いまはちょっと踏み台が見当たらなかったから――」
「高橋はよく物を落とすんだから、自分ごと落ちるぞ」
 私が物をよく落としているのは事実なのだが、親切を台無しにする一言である。この余計な一言がなければちょっとときめいていたかもしれないのに、高鳴りかけた心はあっという間におとなしくなる。
「そうならないように気をつけますとも」
 それを捨て台詞に加弥子のところへ戻ろうとしたら、
「高橋、有機化学概論のレポート終わった?」
 と声をかけられた。私たちがいま悪戦苦闘しているのがまさに有機化学概論のレポートなのだが、寺島君も同じ科目を履修している。ということは、彼もレポートのために資料探しに来たのだろうか。
「いま加弥子とやってるとこ。寺島君は?」
「俺もまだ。これからやるよ」
 寺島君は苦笑いをする。もしかしたら、まだまったくの手つかずなのかもしれない。
「そっか。大変だね」
 提出は明日の一限目だ。改めて残された時間が少ないことを思い出すと、集中力と共に消えかけていた焦燥感が甦ってきた。
「それはお互い様だろ」
 少しも手をつけていなさそうな寺島君と少しは進んでいる私たちとを比べたら、彼のほうが大変だと思う。だが、寺島君は同期の中でも上位に入る成績優秀者だから、私たちほどの苦労はしないのかもしれない。そう思うと、彼には余裕があるようにも見える。僻みなのかもしれないが、なんだか悔しい。
「……じゃあ、わたしそろそろ行くね」
 悔しいけれど、それでレポートがはかどるわけでもないので地道に進めるしかない。
 取ってもらった本を携え踵を返したとき、「高橋」とまた寺島君に声をかけられた。
「何?」
 肩越しに振り返ると、
「大変だけど、頑張ろうな」
 そう言って笑う寺島君の姿があった。梅雨のじっとりとした空気をそっと押しのけるような爽やかな表情である。
 寺島君、あんな顔して笑うんだ。
 一度は落ち着いたはずなのに初めて見る彼の表情に今度こそどぎまぎしてしまい、「うん、そうだね」と言って私はそそくさと書架室をあとにしたのだった。

〈了〉