おわらずの坂

 季節は夏で場所がキャンプ場で夜にやることといえば、キャンプファイヤー――ではなく肝試しだろう。
 デジタル全盛期のこのご時世、キャンプ場と海岸を繋ぐ一本道を下るだけという恐ろしくアナログな肝試しだが、意中の女子とペアになれた俺にとってそんなことはどうでもよろしい。
 キャンプ場と海岸を繋いでいるのは舗装されていない緩やかな坂道で、歩いて五分もかからず海岸へ着くのだが街灯が一つもない。道幅は車一台分ほど、密集する木に挟まれている。シチュエーションとしてはなかなかのものだ。
 風がざわざわと木立を揺らし、彼女は自分で枯れ枝を踏んだ音にキャッと驚き怯える。震える細い肩にすかさず、しかしさり気なくそっと手を添え、
「大丈夫サ。俺がついているからネ」
 などと言った日には、彼女の中で俺の株が急上昇すること間違いなし。これぞキャンプ・ザ・肝試し効果。
 そして、海岸へ無事たどり着くと空には満天の星。二人そろって吸い込まれるように夜空を見上げ、いつの間にか彼女が俺の手をそっと握り――。
 と、妄想をぷうぷう風船のように膨らませていたら、ズボンのポケットに入れていた携帯電話が小刻みに震えた。
「はい、加賀です」
「待たせたな。海岸に着いたから、お前ら出発していいぞ」
 先に後輩と一緒に海岸へ向かった和田さんからだった。前のペアが海岸へたどり着いたら、次のペアに電話する手筈になっているのだ。
「中牧」俺は携帯電話をポケットにしまった。「俺たちの番だから、行こうぜ」
 妄想を現実のものとする、ここからがいよいよ正念場だ。友人と喋って順番を待っていた中牧が、ポニーテールを揺らし駆け寄ってくる。うむ、今日も中牧は可愛い。俺の士気はうなぎ登りだ。
 いざ薔薇色の未来に通じる栄光の坂道へ、俺と中牧はそろって足を踏み入れた。 
「ショボイ肝試しだよね」
 だが、キャンプ場の喧噪を背中で聞く中牧は予想外に明るかった。
「そ、そうか?」
 中牧よ、そんなつれないこと言わずに怖がってくれないか。
「学校で肝試しする方が、よっぽど怖いって」
 確かにうちの大学の校舎は古い。古いのだが、夏休みを利用してサークルの合宿に来ているというこの上なく開放感溢れるシチュエーションは、今ここでしか得られない。だから中牧よ。少しでいいから怖がってくれ。
 携帯画面の明かりを頼りに進むうち喧噪は遠ざかり、風が吹き抜けて頭上で葉擦れの音がする。細い枝がポキリと折れる音もする。が、中牧の悲鳴は聞こえない。
 お星様、どうか中牧を怖がらせてくださいと切に願っていたら、突然中牧が俺の腕を指先で突いた。まさかもう俺の願いが――。
「ねえ、人がいる」
 通じたわけではないようだ。中牧が少し先の暗がりをちらりと見、すぐに視線をそらす。
 道は大きく右にカーブを描いて海岸へ続いている。そのカーブに白いシャツを着た人の姿があった。男だろうか。カーブの外側になる方の端に突っ立っている。
 肝試しの最中だから、サークルの誰かのはずはない。平日なので俺たち以外にキャンプ場には客がいない。すると地元の人だろうか。
 俺と中牧の歩みは自然と遅くなり、男と反対のカーブの内側を沿うように進んでいく。カーブにさしかかるが、俺も中牧もなるべく男を見ないようにして通り過ぎていく。男の視線を感じたような気がして、カーブを抜けた俺たちは早足になっていた。
「ちょっと不気味だったね」
「そうだな」
 ショボイ肝試しが思わぬ男の存在で少しだけ盛り上がったのはありがたいが、すでに中牧から恐怖は去ってしまっているらしい。残念だが、中牧が俺の腕を突くことでわずかながらの接触を果たすことはできた。あとは海岸でいかに中牧と盛り上がるかである。カーブを過ぎればすぐに海岸へたどり着く。満天の星空よ、いい感じにキラキラ瞬いて二人の世界を作るのに貢献してくれ。
「あれ?」
 ところが、砂浜には誰もいなかった。
 俺たちの前には和田さんペアを含めて三組いたのだが、人影はどこにもなく、波が寄せては帰るだけである。
「誰もいないね……」
 中牧も驚きを隠せない顔で、辺りを見回す。
「ちょっと電話してみるわ」
 と、和田さんに電話をかける。すぐに繋がった。
「加賀、お前ら何やってるんだ。早く降りて来いよ」
 和田さんの声と、彼と一緒にいるであろうサークル仲間たちのにぎやかな様子も電話越しに聞こえた。
「あの、俺たち今海岸にいるんですけど」
 俺は前後左右を見回す。中牧の姿以外、人影は見つからなかった。
「は? どこに? いねーぞ」
「いや、いますって。和田さんたちこそどこにいるんですか」
「俺たちは道を降りてすぐのところにいるよ。たいした肝試しじゃないんだから、さっさと来いよ」
 せっかちな和田さんは早々と電話を切ってしまった。訳が分からない。中牧に和田さんとのやりとりを話すと、彼女も首を傾げるしかないようだった。
「戻ってみようよ。もしかしたら、みんなでからかってるのかもしれないし」
 ここから少し歩かなければならないが、海岸とキャンプ場を繋ぐ舗装された道もあるのだ。その道を使って和田さんたちがキャンプ場へ戻った可能性はあった。だが俺たちは急いで戻るため、今来た道を通ることにした。
 カーブの手前でそこに男がいたことを思い出したが、どこへ行ったのやら、彼の姿はなかった。
「おいおい、何で引き返してくるんだよ」
 キャンプ場に戻るなり、俺たちの次に出発する赤川に言われた。
「まさか怖くなって引き返したのか?」
 赤川がニヤニヤと意地の悪い顔で俺を見る。ここで怖がるのは俺ではなく中牧の予定だったのだが。まあ、中牧が怖がっても引き返すつもりはなかった。
「いや、海岸に行ったけど、誰もいなくて」
 俺の言葉に、中牧がうんうんと頷いている。
「嘘つくなよ。お前ら、さっき出発したばかりじゃん。海岸に行って戻って来るには早すぎるぞ」
「嘘じゃない。ちゃんと行ったよ」
「ホントかぁ? ま、どっちにしても海岸にいろよ。みんな降りたら、そのあと花火するんだし」
 そうだった。肝試しの締めには花火をすることになっているのだ。
 最後のペアが花火やバケツを持って降りてみんなで遊ぶ予定なので、和田さんたちが海岸から引き上げるのは妙だった。広場では順番を待つサークル仲間たちが酒を呑んだり喋ったりして盛り上がっているが、その中に和田さんたちの姿は見当たらない。
「赤川。和田さんたちって戻って来てない……よな?」
「当たり前だろ」
 さっさと行けと赤川に急かされ、俺と中牧は顔を見合わせた。
 和田さんたちが舗装された道を使っていれば、まだここにたどり着いていない可能性はある。だが今後の予定を考えると、赤川の言うとおり戻って来るわけがない。
 俺と中牧は納得のいかないまま、しかし仕方がないので再び海岸へ向かった。
「まさか、みんなして、あたしたちをからかってるわけじゃないよね?」
 中牧が眉をひそめる。
「そんなことはないと思うけど……」
 一応そう答えたものの、完全無欠の自信があるわけではない。
 何かのドッキリだろうかと俺も疑わなくはないが、果たしてそんなことをする意味があるのかが分からない。ドッキリとは意味のあるものではないかもしれないのだが。
「あ」
 中牧が小さな声を上げた。すでに通るのが三回目になるのに、どうした中牧。
 ドッキリ疑惑などあっという間に頭の中から消し飛び、中牧がようやく怖がりはじめたのかと期待しかけた。
 彼女が何故声を上げたのかすぐに分かった。カーブのところ、先程と同じ場所にあの男が立っていたのだ。
 戻って来る時にはいなかったのに、いったいいつの間に彼はそこへ戻ったのだろう。中牧も同じことを考えていたに違いない。怪訝な表情を浮かべ俺を見る。
 俺と中牧は無言のまま、男の前を足早に通り過ぎた。通る時、またもや男の視線を感じた。そして――。
 海岸には誰もいなかった。
「おかしいよね……?」
 中牧が不安げな表情を浮かべている。
 海岸はひっそりと静かで波の音しか聞こえない。
「赤川に電話してみる」
 和田さんたちの姿はやはりどこにも見えないが、とにかく海岸に着いたのだ。手筈通り、俺は赤川に電話をかけることにした。
 ところが、呼び出し音がむなしく耳元で繰り返されるばかりでいっこうに赤川が出ない。二十回は繰り返しただろうか。留守電にさえ切り替わらなかったので、俺は諦めて電話を切った。
「駄目だ。出なかった」
「じゃあ、わたしが八千代にかけてみる」
 中牧が赤川とペアの香取に電話をかける。しかし結果は同じだった。俺は再度和田さんに電話をかけてみることにした。
「加賀。さっさと降りて来いって」
 和田さんにはすぐに繋がったが、彼はやはり海岸で待っているんだと少し苛立った声で言った。彼の周囲では相変わらずサークル仲間たちがにぎやかに待っているらしい様子が伺える。
 海岸は砂浜が続いている。隠れられそうな岩場はあるがそれはずっと遠くの方で、闇に沈んで今は見えない。騒ぐ声も少しも聞こえなかった。
「戻ってみよう」
「うん」
 和田さんたちを捜すよりはキャンプ場に戻る方が早い。もう一度戻って、そこに和田さんたちがやっぱりいなかったら、今度は赤川から和田さんに電話をかけてもらおう。
 俺と中牧は足早にキャンプ場へ向かった。カーブには同じ男がいた。中牧の肩がびくりとかすかに揺れたような気がしたが、足が止まることはなかった。
「なんで……誰もいないの」
 中牧がつぶやく。ついさっきまでサークル仲間たちがにぎやかに順番を待っていたのに、赤川も香取も誰もいなかった。
「どこに行ったんだ?」
 見回すが影も形もなく、声も聞こえない。と、ポケットの携帯が震えて心底驚いた。和田さんからだった。
「もしもし……」
 と言う俺の声に、和田さんの声がかぶさる。
「加賀。さっきから何やってるんだよ」
 先ほどよりも苛立っているのが手に取るように分かる声だった。
「あの、和田さん。俺たち以外みんなもう海岸にいるんですか……?」
 この状況からすると、そうとしか思えない。
「お前らが降りて来ないのに、そんなわけないだろう。どうしても嫌だって言うなら、次の奴らを先に行かせろよ」
 そう言って和田さんは電話を切ってしまった。
 俺は戸惑った顔で中牧を見る。和田さんの声は大きくここは静かだったから、彼女にも電話口の声が聞こえていたのだろう。中牧は泣き出しそうな顔をしていた。肝試しが始まる前、俺は彼女のそういう顔を見てみたいとさえ思っていたのだが、今はもうそれどころではなくなっていた。
 赤川にかけてみたが、やはり呼び出し音が際限なく繰り返されるばかりだった。
「とにかくもう一回行こう」
 これ以上ここにいても埒が明かない。そう思ったのだが、中牧は今度は「うん」と言わなかった。
「ねえ、加賀君。なんで誰もいないの。海岸にも、ここにも」
 それは俺が聞きたいくらいなのだが、今にも泣きそうな顔をしている中牧にそう言い返すわけにもいかない。
「海岸にみんなで隠れて、俺たちのことを驚かすつもりなのかもしれないぜ」
 なるべく明るくおどけた声で言ったのだが、まったく効果はなかった。
「なんで? なんでそんなことする必要があるの?」
「だから、驚かすためにだろ?」
「だからってこんなやり方あると思う?」
「それは……」
 俺に言われても困る。俺と中牧の知らないところで、みんなが口裏を合わせている可能性は捨てきれないが、それにしては手が込んでいるという気はしていた。しかしだからといって、では何が起きているのかと訊ねられても答えることはできない。
「ねえ、もうここで待っておこうよ」
 中牧が嫌がるし、それも一つの案だとは思った。ただ、電話の向こうの和田さんは演技ではなく本気で怒っているような感じだったのだ。さっき戻って来た時の赤川の態度にしても同じだ。彼らが演技をしていたとは思えない。
「中牧。とにかくもう一度だけ、海岸へ行ってみよう。それでやっぱり誰もいなかったら、戻ってみんなを待とう」
「……分かった」
 中牧は、もし嫌だと言えば一人取り残されると思ったのかもしれない。うっすら涙の浮かぶ目は充血していたが、同意してくれた。
 三度、俺たちは海岸へ向かう道へ足を踏み入れた。
 短い間に何度も通っているのに、今ごろになって不気味さを感じる。心なしか中牧がずいぶんと俺に寄り添うように歩いている気がした。喜びたいところだったが状況が状況だけに、海岸に誰もいなかった時にいよいよどう考えればいいのか、ということを俺は気にかけていた。
 やがて、カーブにさしかかる。男がやはりいた。中牧がぴったりと俺に寄り添う。これは彼女の肩に手を回すべきか。とっさによこしまな考えが頭をよぎるが、はたと気づいて俺の手は動かずじまいだった。
 一度目にキャンプ場へ戻る時、カーブのところに男はいなかった。その後、赤川にさっさと行けと言われて再び海岸へ向かった時にはまたいたのだが、彼はいったいどうやってそこへたどり着いたのだろう。
 この坂は一本道であり、キャンプ場の入り口からここへ来るにはキャンプ場の中を横切らなければならない。しかし赤川と話をしている時に横切る男の姿は見なかったし、そもそもその場にサークル仲間以外はいなかった。
 背中が粟立った。キャンプ場で待つべきだったかもしれない、という後悔の念が沸き起こる。
 中牧が俺の服の裾をギュッと握りしめていた。俺は我知らず拳を握っていたが、掌はじっとりと汗ばんでいた。海岸へ向かうべきか引き返すべきか。もうすぐ男の前を通る。男の視線を強く感じた。それに耐えきれず顔を逸らそうとした時、男が口を開いた。
「まだ、はじまったばかりだよ」
 姿は男なのに、ひどくしわがれた老婆の声だった。

〈了〉