Great Victory!

 崖の縁でしゃがみ込んで震えているのは、高所恐怖症だからではない。
 緊張で震えているのだ。見ている者が気の毒にと同情してしまうほど、彼は緊張していた。真っ青を通り越して真っ白になった額には、びっしりと脂汗が浮かんでいる。固く握りしめられた手からは、汗と血が滴り落ちてきそうだ。それ以上強く手を握ると、手の甲の血管がはち切れるのではないだろうか。
「おい」
 声を掛けるが、返事はない。返事をする余裕がないのではなく、そもそもこちらの呼びかけが耳を素通りしていそうだ。
「おい、ウィカルド」
 肩を強くつかんで揺さぶる。ようやくウィカルドは自分が呼ばれたことに気がつき、血走った目をゼラルドに向けた。
「ななななんですか」
 どもっているうえに声までひどく震えている。これは重症だ。
 ゼラルドは深々と溜息をついたが、これがますますウィカルドの緊張と不安を煽ることになってしまった。
「なななんなんですか、ゼゼゼゼラルドさん」
 どもっているせいで、どうしようもなく聞き取りづらい。
「そう緊張しないで、もっと肩の力を抜けよ」
「ででででも」
「そんなに肩肘張るようなことじゃないって。緊張するのは分かるが、そんなに緊張してたら、いざ本番の時に体が動かないぞ」
 ゼラルドはウィカルドに発破をかけるように、背中を叩く。
 ところが緊張して固まっていたウィカルドは、叩かれた勢いで前のめりに倒れた。手をつく余裕さえなかったのか、ものの見事に額と地面が激突する。
「おい、大丈夫かウィカルド!」
 あと数歩前にいたら、頭から崖下に落ちていくところだった。まさか前のめりになるとは思っていなかったので、これにはさすがにゼラルドも焦った。
「だ、大丈夫です……」
 手をついて起きあがったウィカルドは、どう見ても大丈夫ではなかった。運悪く石とぶつかったらしく、額が割れて血が流れている。深くはないが、血が流れているのだから浅いということもなさそうだ。
「もうすぐ奴らが来るぞ。行けそうか?」
 ウィカルドは血が流れていても、それを止めようというところまで考えが至らないらしい。流血した顔で、何度も首を縦に振る。もしかしたら、怪我をしていることに気がついていない可能性がある。
 ゼラルドが自分のハンカチを差し出してとりあえず止血しろと言ってようやく、ウィカルドは痛みに顔をしかめた。
「す、すみません。ゼラルドさん」
 額の傷口をハンカチで押さえたまま、ウィカルドがひどく申し訳なさそうな顔で謝った。
「……まあ、謝るな」
 この調子ではいま怪我しなくても(もう既に手負いだが)、おそらくこれからもっとひどい怪我をするだろう。
 ゼラルドはウィカルドに気取られないよう小さく溜息をついて、奴らが来るであろう方角に顔を向けた。
 崖下に繋がる道を歩く人影を見つける。が、まだその姿は遠い。顔の判別もつかないが、五人いることが分かる。
 情報通りだ。ゼラルドは内心で呟くと、ウィカルドを振り返った。
 止血を終えたウィカルドは、自分であらかじめ用意していたのか、額の傷口に膏薬を塗った布を当てて包帯を巻いていく。
「……」
 ウィカルドの自分で自分を手当てする手際は存外に良いが、それ故に、彼は生傷の絶えない人生を歩んできたのだろうと想像してしまう。そもそも、包帯まで持ち歩いていることからして、想像があながち間違いではないことを裏づけているように思える。
 彼がひととおり手当をすませるのを待って、ゼラルドは口を開いた。
「ウィカルド」
「はははい。な、ななんでしょうか、ゼラルドさん。あ、あの、せっかくお借りしたハンカチなんですが僕の血で汚れてしまったので後日新しいのをお返しするということでどうか勘弁してもらえないでしょうか」
 ハンカチを汚したことを相当気にしているのか、ウィカルドは息継ぎもせず一息で言い切った。言い終えたウィカルドは、ぜえぜえと肩で息をしている。
「ああ、それは別に構わないんだが――それより、とうとう奴らが来たぞ」
 ゼラルドはそう言って、さっきよりも近づいてきている人影を指さした。途端に、ウィカルドの顔色が白に戻る。
「えええええ。もも、もうですか? はは、は早く、なないですか、よ予定より」
 ウィカルドの緊張は更に高まったらしく、声はうわずってどもっているうえに早口で、ますます聞き取りづらかった。
「予定は未定だ。早く来たのは仕方がないが、いずれ必ず来ることには違いなかったんだ。気合い入れて行くぞ、ウィカルド」
「はははひ」
 ウィカルドは歯の根も合わなくなってきているらしい。ゼラルドは急に不安になってきた。ウィカルドのこの様子では、奴らの前に姿を見せた直後に自ら地に沈んでいきそうである。
 ゼラルドとウィカルドが先刻から崖の上で待ち伏せているのは、ゼラルドたちの主・魔王の敵である勇者とその一味だ。奴らは恐れ多くも魔王を倒そうとしているのである。
 勇者と名乗る人間がゼラルドたち魔族の王を倒そうとするのは、何も昨日今日に始まったことではない。
 魔族と人間は、一見すると似た外見であるが耳の形が大きく違っていて、人間たちの耳は丸く短いが魔族の耳は長く尖っている。だから、魔族と人間は似ていてもまったく異なる種族だ。どちらが優れた種であるか、この世界の真の支配者であるかを巡り、古来より対立をくり返してきた。
 魔族に昔から繁栄をもたらしてくれている王を倒そうなどという不届き千万な輩がまたもや現れたことを知り、魔族たちは勇者と名乗る一味を抹消するために立ち上がった。
 勇者は少数精鋭なのか、一味の総勢はわずかに五人。恐れ多くも魔王を倒すための旅に出てまだ間もなく、一味は五人から増えていない。悪い芽は早めに摘んでおくに越したことはなく、こうしてゼラルドとウィカルドが待ち伏せしているわけである。
 ゼラルドは剣の腕に覚えがあり、ウィカルドは魔族の中でその名を知られた魔術士である。五人に対して二人とは多勢に無勢でいかにも頼りないようにも思えるが、ゼラルドの剣とウィカルドの魔術があれば、ここで片をつけられる可能性は充分にある――はずなのだが、ウィカルドがこの調子ではそれも段々と怪しくなってきた。
 魔術に縁のないゼラルドでもウィカルドの名は知っていたが、噂に名高い術士が極度の上がり症だとは知らなかった。仲間たちにいつの間にか決められていたコンビなのだが、当初は相棒がウィカルドであると知り、ゼラルドは少なからず安堵した。
 が、しかし。
 その時の安堵が嘘のように、今は不安を感じている。感じてはいるが、盟主を守る存在がいることを勇者一味に示しておかなければならない。そして、できることならば一味の抹消をするのだ。
 重要な役回りということも、ウィカルドの緊張を煽っているのだろう。見ると、カチカチと歯を鳴らしている。
「ウィカルド……大丈夫か?」
 最悪、ウィカルドを置いてゼラルド一人で立ち向かうつもりでいる方がいいのかもしれない。ウィカルドはカクカクと首を振るが、先程以上に大丈夫そうには見えなかった。
 ゼラルドの不安がいやでも膨らんでいくが、そんなことをしている間に、一味がゼラルドたちのいる崖の下にさしかかろうとしていた。
「来たぞ、ウィカルド」
「はひ!」
 ゼラルドが小声で呼びかけると、ウィカルドは意外なほど素早くどもることもなく(ただし少しおかしかったが)返事をし、ゼラルドが驚くほど軽々と崖下に――身を投げた。
「ウィカルド!?」
 着地を考慮しての跳躍などではなく、ウィカルドはまさに身投げするように崖から飛び出していったのだ。
 ゼラルドが慌てて崖下をのぞき込むと、案の定うつぶせに倒れているウィカルドの姿があり、彼のすぐそばには、突然の落下物に驚いて足を止めた勇者一味の姿があった。
 あいつ、生きているのか。
 ウィカルドの生存も心配であるが、この状況で自分がどうやって奴らの前に姿を現すべきか、ゼラルドは考えていた。
 今ここでゼラルドが颯爽と現れたところで、かなり間抜けな登場をしたウィカルドの仲間だと一味が知れば、大したことないとなめられるかもしれない。一味がウィカルドを無視してこの場を去ることを期待し、もっと先の方で改めて待ち伏せをした方がいいかもしれない。しかしそうなると、ウィカルドを捨て置いていくことになってしまう。
 どうしたものかとゼラルドが決めかねていると、突然ウィカルドが起きあがった。ウィカルドの扱いに困っていた一味が、そのあまりの唐突さに再び驚いている。
 せっかく手当をした額からは再び血がにじんでいるが、ウィカルドは一味に向き合うと、なんの前置きもなく呪文の詠唱を始めた。ウィカルドが魔族だと気づいた一味は各々の武器を取り出して構えるが、もう遅い。
 ウィカルドの放った特大級の火の玉が、勇者一味の足下で弾け飛ぶ。轟音と共に、なす術もなく勇者一味は爆風に吹き飛ばされてしまった。
「おのれ、魔族め!」
 吹き飛ばされても意外に元気な一味の男の一人が、いち早く体勢を立て直して呪文の詠唱を始める。どうやら奴も魔術士らしい。ウィカルドはそれに対抗しようと、次の詠唱を始めた。


 荒れ狂う炎と、それによって生まれた熱気が狂喜乱舞するように木々をなめる。
 石のつぶてが、地面にめり込み道を道ではなくしていく。
 魔術の激しい応酬で、崖下は荒れ果てた土地へ変わりつつあった。
 ――後に魔族の間では《ジェルツの大勝利》、人間たちには《ジェルツの大災厄》と呼ばれる出来事の一部始終を、ゼラルドは崖上から呆気にとられて目撃していた。

〈了〉