十三回目の

 吾が輩は猫である。
 ただの猫ではない。
 二百年の長きにわたり生きている猫である。
 化け猫と呼ぶなかれ。
 吾が輩は猫であり、使い魔なのである。


 使い魔である吾が輩には主(ぬし)がいる。それはもう、愛らしい主である。
 御年七歳になられた我が主は、少し赤く波打つ髪を軽やかに揺らしながら、屋敷の中を元気に駆け回られる。魔術師として、そして貴族としても名門である家にお生まれになった主は、何かと女の子らしく振る舞うよう母君や姉君、それに乳母や侍女たちからも言われるのであるが、主はそのような些末なことなど気になさらない。華美なドレスをお召しになっていようとも、走りたいと思えばまだまだ成長段階の足で力の限り走られ、草むらで横になりたいと思えばその愛らしく小さな身体をためらいなく草むらに投げ出されるのである。
 吾が輩は、そんな自由奔放な主が大好きである。主が走られればもちろん吾が輩はそのあとを追いかけるし、草むらに横になられたら吾が輩もその隣りに寝転がり、時には主のお腹に上がらせて頂くこともある。主はとても温かく、吾が輩は傍にいるだけでこのうえなく心地良い。
 しかし、吾が輩は主を好きなだけではない。
 使い魔たる吾が輩は、もちろんそんじょそこらの猫とは違う。
 吾が輩は、主はもちろん人間たちと意思疎通をするのはお手の物。魔法だって使えるのである。使い魔であるから、主の命に従うのは至極当然である。が、あいにく主はまだ幼い故、使い魔としての吾が輩を殆ど必要とされていないのが少々残念ではある。吾が輩、いつか主が立派な魔術師となられた時には、全身全霊をささげて主の命に従うつもりである。
 なにせ、主は吾が輩の恩人なのだから。

 
 主には、三人の姉君がいらっしゃる。
 吾が輩は慣例で、代々のご長女にお仕えしてきている。そう、本来吾が輩の主は、今の愛らしい主ではなく、主の一番上の姉君なのである。
 ところが、一番上の姉君は、姉君は……っ!
 くあー! 思い出すたび、吾が輩は情けないやら悔しいやらで、決して追いつくことなど出来るはずもない、自分の尻尾を追いかけ続けてしまいそうである。それくらいやり場のない悔しさを、一番上の姉君には味合わせられているのである。
 一番上の姉君が五歳になられた時、吾が輩が正式に一番上の姉君の使い魔となるはずであった。ところが、一番上の姉君は吾が輩の姿を見るなり、かようなことをおっしゃったのである。
「いまどき黒猫の使い魔なんてダサーイ」
 くあー! 吾が輩、そのお言葉に自慢の銀色のヒゲが凍りついてしまうほどの衝撃を受けた。しかも、その時の姉君の心底嫌がっておられたお顔。
 吾が輩は、研磨剤をたっぷりつけたタワシでゴシゴシこすっても決して消えることのない傷を受けたのである。
 一番上の姉君に拒絶された吾が輩は、お気に入りの屋根裏部屋の片隅で己の流す濁りなき涙の海に浸ることとなった。吾が輩の涙を吸って、乙女の黒髪のごときつややかな黒い毛皮はますます輝きを増し、嗚呼、屋根裏部屋の窓から射し込む月光だけが吾が輩を優しく慰めてくれたのである。美しくも悲しき思い出である。
 それから二年後、吾が輩は二番目の姉君の使い魔となることになったが、二番目の姉君も吾が輩を拒絶したのである。
「あたし、もっと賢そうな使い魔がいい」
 くあー! 二番目の姉君のそのお言葉に、吾が輩は無限の闇へ落ちていくのにも似た錯覚を覚えた。自慢の銀色のヒゲはまたしても凍りつき、頭の先から尻尾の先までまるで雷撃を受けたかのごとき衝撃が走り抜け、とっさに爪を出して床に踏ん張っていなければ吾が輩は本当に無限の闇へ落ちてしまいそうであった。清廉な水のごとき涙を振りまきながら吾が輩が走り去ったとしても、きっと誰も咎めなかったであろう。むしろそこで踏み止まった吾が輩を褒め称えてほしい。二番目の姉君は、そんな吾が輩にもはや一瞥もくれなかったが。
 かくして一番目に続き二番目の姉君にも拒絶された吾が輩は、三番目の姉君の使い魔となることになったのである。
「わたし、猫は嫌い」
 く、く……吾が輩、雷に打たれるよりも激しいその衝撃に、ことりとその場で倒れてしまい、しばし愛くるしい猫のぬいぐるみのごとく凍りついていたのである。その後どうやってお気に入りの屋根裏部屋まで帰ったのか、正直覚えていない。
 ともかく、吾が輩は三人もの姉君に拒絶されてしまったのである。いかに二百年にわたりこの家に仕えてきた吾が輩でもさすがにふて腐れさらにぐれたくなってしまったのであるが、どうか叱責しないで頂きたい。それもこれも、かつてない苦渋を味わった故のことなのである。
 お気に入りの屋根裏部屋で、勇ましくなおかつ雄々しく後ろ足だけで立ち上がり、夜空に向かって「なめんなよ!」と叫んだりしていたのは、吾が輩だけの秘密である。
 そんなこんなで仕えるべき主もいないまま不遇なる時を過ごしていた吾が輩の前に、今の主が現れたのである。
 主が五歳となられた時、吾が輩は主と引き合わされた。それまで既に三度も拒絶されていた吾が輩は、もはや目の前に好物があっても飛びつく気にもならぬ諦めの境地であった。
 ところが、主は吾が輩を見るなり、
「かわいい」
 とおっしゃり、吾が輩を使い魔として認めてくださったのである。
 くあー! 吾が輩、お気に入りの屋根裏部屋の窓から飛び出して、見事な四回転宙返りを決め鮮やかに地面へ降り立ったような気持ちであった。
 使い魔でありながら主のいなかった吾が輩は、ようやく務めを果たせることになったのである。主には、どれ程感謝しても足りないくらいである。吾が輩は、主に誠実で忠実であることで、この恩をお返し致すと主の一言を聞いた次の瞬間から心に決めている。
 使い魔は主の命令に絶対服従であるが、吾が輩、命令などなくとも主には服従しているのである。


 主は今日も元気に駆け回られている。
 本日の遊び場は、主の父君の書斎である。いくつにも並んだ棚にぎっしりと詰まる書物の独特のにおい。明るすぎず暗すぎない適度な照明。書斎を彩るのは父君ご自慢の壺や絵画。主はこの部屋がお気に入りでいらっしゃる。
 主は最近覚えられたばかりの魔法で書棚から書物を取り出して床に積み上げたり、その書物で吾が輩を追いかけ回したりしてお遊びになるのである。書物はこの家に古くから伝わるものも多いので父君や母君からしょっちゅうお叱りを頂くのであるが、主はそれで遊びをやめてしまわれるようなお方ではない。
 主はいつものように、魔法で動きを操り書物で吾が輩を追い回されていた。
 吾が輩は棚の間を逃げ回ったのであるが、書物と主に挟み撃ちされたので傍にあった机の上へと軽やかに駆け上った。机の上にはインク壺や水差し、父君ご自慢の花瓶も飾られているのだが、吾が輩がそれらを避けて華麗に机に飛び乗ったことは言うまでもない。
 しかし、主が操られていた書物は吾が輩の動きについてこれず、インク壺を倒した勢いのまま花瓶をもなぎ倒したのである。その当然の結果として花瓶は床に転げ落ちてしまった。哀れ、耳をつんざく嫌な音を道連れに、花瓶は無惨に砕け散ってしまったのである。
「あ」
 数瞬前の面影が微塵も残っていない花瓶を見て、主が短い言葉をこぼされた。吾が輩も、気まずい思いで原型を失った花瓶を見下ろす。この花瓶、数代前のご当主の時代に国王陛下から下賜された一級品である。
 主もその事はご存じであるから、無言で破片を見下ろされている。主はまだ、壊れたものを直す魔法は習得されていない。使い魔たる吾が輩は主の影響下にあるので、やはりその類の魔法は使えないのである。
 一人と一匹が無言で花瓶の残骸を見下ろしていたら、書斎へ近づいてくる複数の足音が聞こえてきた。おそらく花瓶の割れる音を聞き咎めたのであろう。
 父君はお仕事で留守だが、母君はご在宅である。見つかれば夕方までお説教となることは確実であった。
 主、吾が輩も主と共に母君に誠心誠意、謝罪します。吾が輩、たとえ火の中水の中、この世の果てから地獄の果てまでお供いたしますとも。
 主は意を決した顔で破片から吾が輩の方へと視線を移した。主よ、ご立派です。今すぐにでも証拠隠滅をはかりお逃げになりたいでしょうが、そこをぐっとこらえて素直に謝罪しようというそのお心意気。吾が輩、感動であります。
「ごめん、セロ」
 主は吾が輩をまっすぐに見つめておっしゃった。主、謝罪なさる相手は吾が輩ではなく、母君であり父君ではありませぬか?
「セロがやったことにして!」
 主は書斎の窓をお開けになると、素早く外へ出てしまわれた。書斎は一階であるから、窓から外へ出ても問題はない……いや、いやいや主、大いにあります。もしかしなくて、吾が輩にすべての咎を押しつけて逃亡なさった?
「まあ、セロ!」
 主が完全に逃げ去ってしまわれた直後、書斎へ入ってこられた母君が惨状を見てお声を上げる。嗚呼、この状況では、吾が輩が一人遊びをして花瓶を割ったようにしか見えないであろう。
 母君、これは吾が輩だけでやったわけでは……いや、しかしここで主のお名前を出しては、主を裏切ることになるのではないか? 主は、吾が輩を信頼しているからこそお逃げになったのではないか? 吾が輩がやったのだと母君に告げて主をかばうのが、使い魔としての吾が輩の務めではないだろうか。
「セロ。おまえがやったの?」
 う。素直にハイと言えぬ。言えぬが、言わねばならぬだろうし、主は吾が輩にそれを期待してお逃げになったのであろう。
 しかし、しかし主。吾が輩に責任を押しつけられてお逃げするのは、これでもう十三回目であります……。

〈了〉