アリューセリドの道守/前編

 さわさわと、風が草原を渡っていく。
 夕刻が近づき少し赤くなった陽光に照らされる草原は、黄金色に見えた。
 季節は夏から秋へ移ろい、その秋も、もう間もなく終わる。この国の秋は短い。あと何日もすれば、今年最初の雪が空から舞い落ちてくるだろう。
 カイが『彼女』を見たのは、そんな秋の終わりだった。



 黄金色に染まる草原の中を、一本の道がうねりながらも貫いている。通る者など滅多にいない。その道を進む者が、いたのだ。
 純白のゆったりとした衣をまとい、まるで銀糸のように細やかな髪を、渡る風にたなびかせ、静かにゆっくりと黄金色の中を進むのは、一人の若い娘。太陽の沈む方向へ進む彼女は、正面から赤い陽光を受けて眩しそうに目を細めていたが、それでも光を避けようとうつむくこともなく、まっすぐ前を見据え歩んでいた。
 彼女の姿は、カイがそれまで見た誰よりも美しかった。黄金色の草原の中を美しい娘が進むその光景は、まるでひとつの絵画のようだった。
 離れたところから、呆けたようにカイは彼女を見ていた。滅多に訪れる者などいないこの道に、誰かが現れたらすぐに気が付く。けれど、彼女は気が付いたら道を歩いていた。
 いつのまに彼女が現れたのか分からず、最初はそれで驚いた。次に、彼女が息をのむような美しさであることに驚いた。あれほど綺麗な人が、こんな辺鄙な場所に、何故。そして、何故彼女は涙を流しながら、歩いているのだろうか。
 そう、彼女は泣いていた。落ちる涙をぬぐうこともせず、かといって声を上げるわけでもなく、ただただ静かに、涙を流していた。
 いつから彼女がそこを歩いていたのか、何故こんなところへ来たのか、そして何故泣いているのか――疑問は色々あったけれど、近づいてそれを問うのは許されないような気がして、カイはただ眺めることしかできなかった。
 徐々に赤い色が濃くなる陽光を一身に受け、彼女はゆるゆると歩を進めていく。カイに見られていることに気が付いていないのか、気が付いていても気に留めていないのか、彼女がカイの方を見ることはとうとうなく、そのまま、まるで溶けるようにして彼女の姿は赤い陽光の中に消えていった。
 その様子に呆気にとられたカイは、黄昏時を迎え、すっかり夜になるまでその場に立ちすくんでいた。
 その夜、自分が見たものを興奮気味に父親に話すと、父親は静かに微笑みながら言った。
 おまえはアリューセリド様がお帰りになるところに行き合ったんだ、と。

 アリューセリド。
 それは、あの美しい娘が歩いた道の先にある神殿に祀られている女神と同じ名前だった。

 ◆◆◆◆◆

 ここ神聖アスタニア教国も、カイ・ハインズの曾祖父の頃はまだ平和だったそうだ。
 平和を司る女神アリューセリドの神殿に、供物を抱えて足を運ぶ人々の姿が絶えることはなく、いつまでも平和な世が続くことを誰も疑うことはなかったという。
 カイにしてみれば、そんな平和な世があったことの方が信じられない。生まれた時から既にアスタニアをはじめとする周辺国――いや、この大陸全体が戦乱の時代を迎えていて、平和を司る女神に祈りを捧げる者の姿は、絶えて久しくなっていた。
 人と人が争うこの時代、尊ばれているのは平和ではなく、戦の神だった。
 そんな世の中で平和の神アリューセリドを奉るカイは、とんだ変わり者、あるいは腰抜けであった。
 カイの家は代々、アリューセリド神殿に仕えてきた。神殿につながる道の途中に住処を構え、その道と、神殿の保守を続けている。カイが生まれるずっと前から、それはハインズ家の役割だった。こんな時代でも、稀に、本当にごく稀にアリューセリドの神殿を訪れる者がいる。戦続きの世を嘆いた者が、かつての平和を願い足を運ぶのだ。そんな稀な人のために、ハインズ一族は神殿へつながる道が草に埋もれてしまわぬよう、常に手入れをしているのだ。
 だが、それはほんのついででしかないとカイは思っている。
 神殿は、神を祀る場所であり神が住む場所である。女神アリューセリドは、朝日と共に神殿を発ち、アスタニアが平和であるかを見て回り、日没の頃に神殿へ戻ってくる。その時、女神は神殿へつながる道を通っていくのだ。今となっては唯一となってしまったアリューセリドに仕える一族の務めとして、女神が通る道を守り続けている。カイは、少なくともそう思って毎日を送っている。
 女神は神話で語られた通り、確かにこの道を歩いていたのだから。

 ◆◆◆◆◆

「おまえはまだそんなことを言っているのか」
 呆れた顔でカイを見ているのは、幼なじみのフロイだ。使用感のある剣を腰に下げ、やはり使い込まれている甲冑に身を包んでいる。
「女神を見たなんて、子供の頃見た夢を現実と混同しているだけだぞ、カイ」
 フロイは五年ほど前、志願してアスタニア軍へ入隊した。最前線で戦う彼は、戦場でいくつかの武功を立てているらしい。久しぶりの休暇がもらえたとかで、フロイは帰郷していた。しかしそれは短い休暇だったらしく、もう発つのだという。それで、フロイはカイを訪ねてきたのだ。
「夢じゃないさ。俺は、本当に女神アリューセリドを見たんだ」
 黄金色の草原の中を、落涙しながら歩む美しい女神。あの涙はきっと、戦乱の世を嘆いて流したのだろう。彼女は平和を愛する神だから、きっと今も、涙を流しながらあの道を歩いているに違いない。
 その話を、カイは昔から折に触れてフロイにしていたのだが、フロイは一向に信じてはくれなかった。軍人となってからは尚更である。最前線で戦うフロイには平和の神アリューセリドより、戦の神メルスマースの方がまだ信じられるのだろう。
「……カイ。いまだにそんなことを言っているおまえを、村の連中がなんと言っているのか、知っているのか?」
 フロイは物事ははっきりと言う。たとえそれが、言って聞かせる相手にとって耳障りの悪いことであっても、それを言うべきだと思えば遠慮することはない。本人にちゃんと言うのが、彼なりの心遣いなのだ。望まぬことまで聞かされて諍いや不和を招くこともあるが、それを避けることのできない彼のどこか不器用な性分が、カイは嫌いではない。たとえ女神の存在を信じてくれなくても。
「知っているよ」
 カイが腰抜けだの、村の恥だとも陰で言われているのは知っていた。
 村の片隅に居を構えているハインズ家だが、それでも村の一員であることには変わりない。戦乱の時代、男ならば誰もがアスタニアのために剣を取るというのに、ハインズ家の男だけは、剣ではなく供物を持ち、よりにもよって平和を司る女神に仕え続けている。それを快く思わない村人は、かなり多かった。
「だけど、女神アリューセリドに仕えるのが、俺の役目だから」
 昔、女神の帰路を目撃してからその思いはよりいっそう強くなっていた。戦乱の世を憂い、静かに嘆き悲しむ美しい女神。せめて彼女が神殿にいる間だけでも心静かになれるよう、その場所を守りたいと思った。フロイがアスタニアを守りたいと思うのと同じように、カイは女神の居場所を守りたいと思ったのだ。
「俺は、おまえのそんな一途なところが嫌いじゃない。軍に入れば、それがいい方向に働くと思ったんだけどな――」
 フロイは呆れつつも、どこか諦めたような表情に笑みを浮かべた。

 ◆◆◆◆◆

 それから、フロイは戦場へ戻っていった。
 武功を立てて一時帰郷したフロイは、にわかに村の英雄となっていて、その見送りには大勢の村人が駆け付けた。カイは、村の出口に集まる人々から離れた場所から、友人を見送った。村人の大勢いる場所へ行けば、冷ややかな眼差しを浴びることになる。フロイもそれを分かっていたから、出発前に、カイの元を一人で尋ねてきたのだ。
「女神アリューセリドの加護があらんことを……」
 遠ざかり、その姿が豆粒よりも小さくなってしまったフロイのために、カイは彼の無事を願った。また生きて村へ帰ってこられるように、どうか、女神アリューセリドよ――
 すっかりフロイの姿が見えなくなると、集まっていた村人たちも三々五々に散っていった。カイも、きびすを返す。
 フロイのためにも、今日はいつもよりもいっそう丁寧に神殿の掃除をし、道を整えよう。供物は――上等なものを備えたいところだが、戦時中の今、贅沢品はなかなか手に入らない。まして辺境の村となると、尚更困難だ。カイはできる限りのものを揃え、供物を備えるためのカゴに入れると神殿へ向かった。
 さわさわと風が渡る中、風に背を押されて道を行くカイの足が止まる。道のずっと先に、人の姿があった。
 純白の衣をまとい、長い銀糸のような髪を風になびかせる娘。その姿に、カイは見覚えがあった。
 幼い頃にたった一度だけ見た美しい女神、アリューセリド。
 どさりと足下で音がした。知らず知らず、カイは手に持っていたカゴを取り落としていた。それを拾い上げようとカイは慌ててしゃがむが、しかし十数年ぶりに見た女神から目を離せずにいた。
 彼女は神殿へつながる道の真ん中で、じっとたたずんでいた。神殿ではなく、カイの方を――いや、カイのその向こうを見ていた。
 一日の終わり、日没と共に神殿へ戻るはずの彼女が、何故まだ朱に染まらぬ刻限に現れたのか。何故、神殿とは反対の方を向き、じっとたたずんでいるのか。
 初めて彼女を見た時と同じく、疑問が次々と浮かぶ。
 彼女の元へ駆けつければ、その答えを聞くことができたかもしれない。しかし、彼女がまとう静かな神々しさに気圧され、カイはただ眺めているだけしかできない。いやそもそも、女神に気軽に近づくこうとするなど不遜である。
 これから神殿へ戻るのだろうか。身動きもとれないまま、カイはたたずむアリューセリドを見つめていた。そして、気付く。
 アリューセリドは泣いていた。初めて見た時と同じように、ただ静かに涙を流していた。
 彼女は今でも、戦の止まぬ世を嘆いているのだ。カイがどれほど敬虔な気持ちで供物を捧げ、丹念に道の整備を続けていても、それが彼女の嘆きをなくすことにはつながらない。
 カイは胸が締め付けられるような気がした。自分では、彼女の涙を止めることはできないのだ。
「アリューセリド様……」
 戦の絶えぬこの世で、ひとときでもあなたの涙を止めることは叶わないのでしょうか。
 カイはぐっとカゴの縁を握った。カイにできることは、今までと変わりがない。フロイのように戦場へ出て、戦を早く終わらせるために戦うことはできない。女神は戦があることを嘆いているのだから、戦という手段でその嘆きを止めようとすることなど、考えられない。
 だから、これからもあなたのために供物を捧げ、あなたの住む家と通る道を守ります。
 声に出さず、カイは女神に誓った。
 すると、まるでカイの誓いに応えるかのように、カイのその向こうを見ていた女神の視線が、カイに向けられる。深い青色の視線が初めて自分に向けられ、カイはカゴを握ったまま、緊張のあまり固まった。
 カイをじっと見たまま、女神は泣いている。
 何故、自分の方を向いて泣いているのか。女神の意志を量りかねていたカイは、不意に嫌な予感を感じた。
 平和を司る女神は、命を慈しむ。フロイが再び戦場へ戻っていった後に姿を現し、神殿とは反対の、フロイが去っていった方角を見て涙していたということはもしや、フロイの死を予見していたのではないか――
 そんな、まさか。
 カイはすがるように、女神を見返した。しかし、女神はただ涙を流すだけである。やがて女神は静かに目を閉じ、すうっと溶けるように姿を消した。