最強の壁 後日談・晩餐危機一髪
 肌寒い風が、鮮やかに彩られた秋の終わりを知らせたある日のことだった。
 何日かおきに《南の朱の塔》で、リーベスリートと共に昼食をとるのが嬉しい習慣となっているアルドレに、なんの前触れもなく彼女が言った。
「ねえ、アルドレ。今夜、うちで一緒に食事をしない?」
 リーベスリートはまるで明日の昼食も一緒にとでも言うような、気負わない調子だったが、アルドレは違っていた。ほおばっていたものを一気に飲み下し、それからまじまじと正面に座るリーベスリートの青い瞳を見つめ返していた。
 リーベスリートとの交際は順調に進んでいるが、一騎士団長でありながら見習い騎士に世間体もへったくれもなく真っ正面から決闘を申し込んできたオイセルストの目はやはり厳しく、今までのところ、会うのは王宮内で時間帯も昼休み限定だ。午後の修練を終えて夕食までの空き時間にリーベスリートに会いに行こうとしたことはあったのだが、運悪くオイセルストに見つかってしまい、冷ややかな笑顔で「どこに行くんですか?」と訊かれ、その後は夕食までみっちり剣技の特別指導を受ける羽目になってしまった。それ以来、あえて夕方に会いに行こうと挑戦したことがない。
 交際期間がそこそこ長くなっているわりに、オイセルストのせいで会える時間がちっとも増えていないことに不満を感じていたアルドレにとって、リーベスリートの思わぬ誘いは当然ながら嬉しいことだった。
 しかし、単純に喜んでばかりもいられない。リーベスリートは、彼女の自宅に来て夕食を食べようと言っているのだ。リーベスリートの自宅には、当たり前だがその父親であるオイセルストもいる。アルドレがのこのこ行って、とんでもない目に遭わされたりしないだろうか。
「アルドレ? もしかしてもう予定があった? イルゼイさまには前もってお話しを通してあるから、大丈夫だと思ったんだけど」
 反応がないことに不安を感じたらしいリーベスリートが、首をかしげる。
「いや、予定なんてちっともない。全然ない。嬉しいよ、リートと一緒に夕食を食べられるなんて。でも」
「でも?」
「その、なんというか、オイセルストさまは、俺が行っても怒らないのかなって……」
 オイセルストの過保護ぶりはリーベスリートも呆れるほどであるが、やはり面と向かってオイセルストがなにをしてくるか分からないからちょっと怖い、とは言いにくい。
「それなら大丈夫よ。母様が帰ってきたから、父様だって下手なことはできないわ」
 リーベスリートはアルドレの心配を察したようで、心強いことを言ってくれた。
「ああ、そういえば《緋の夏陽》が帰ってきてるんだっけ」
 リーベスリートの母・コントラルトは、騎士団の一つ《緋の夏陽》の団長を務めており、さきごろ遠征先から戻ってきたのだ。オイセルストの妻でもある彼女は、暴走するオイセルストを止められる数少ない(あるいは唯一の)人物である。コントラルトが同席しているならば、アルドレの身の安全は確保されるだろう。
 しかし、そうなると新たな不安が生まれてくる。
「リート。一家団欒に、俺なんかがお邪魔していいの?」
 《緋の夏陽》の騎士たちは、帰都を祝う宴やなにやらで数日を王宮で過ごし、昨日あたりからそれぞれ自宅に戻り始めていると聞いている。団長のコントラルトもそれは同じことだろう。もしかして、今夜が久しぶりの一家団欒なのではないだろうか。いくら交際しているとはいえ、まだコントラルトと対面したこともないアルドレが加わるのは気が引ける。
「母様が是非と言っているの。父様に決闘を申し込まれても逃げなかったアルドレに、興味があるみたい」
 リーベスリートは自分が褒められているような嬉しげな顔で笑った。
 そんな彼女が無性に愛おしく思えて、アルドレは今夜シュナウツ家に必ず行くと言っていた。

 ○ ● ○ ● ○

「アルドレ。今夜は気を楽に、ゆっくりと楽しんでもらえればと思っている」
 晩餐の席について自己紹介を終えた後、コントラルトは口調はともかく、《戦女神》と言われている女性とは思えないほど穏やかな笑みを浮かべて言った。
「はい、ありがとうございます」
 気を楽にしてと言われても、《フィドゥルムの双璧》の二人を前にして緊張しないわけがない。それだけでなく、コントラルトとオイセルストはリーベスリートの両親でもあるのだ。とにかく粗相をしないように気を付けるので精一杯だ。
「帰りたくなったらいつでも言いなさい。丁重に見送らせていただきますよ」
 コントラルトの隣りに座るオイセルストが笑みを浮かべるが、明らかにアルドレの同席を歓迎していない。アルドレの隣のリーベスリートが小さく溜息をつく。アルドレは硬直した顔のまま、なんとも返答のしようがなかった。
「オイセルスト。客人に対してなんて言い草だ」
 屋敷の主人であるはずなのにまったく客をもてなす気のない夫に、その妻がかなり厳しい視線を浴びせる。さっきまでの穏やかな顔が嘘のようで、アルドレはそれがコントラルトの本来の姿であることに気付き、ますます身を固くする。
「ヴェルソはまだ見習いですよ。休日でもないのに本営の外で食事をするなんて、いったいどこの誰が許可したんです」
 しかし、オイセルストはさすが長年の付き合いだけに、コントラルトの険しい表情など一向に気にしていない。
「イルゼイにあらかじめ言ってある。問題はない」
 昼間、リーベスリートが同じようなことを言っていたことをアルドレは思い出した。
 見習い騎士のアルドレは、オイセルストが言うように、休日以外は基本的に本営で寝起きし食事もとらなければならないのだ。しかし、今日の午後の修練が終わるやアルドレはイルゼイに捕まり、命じられるままに彼が用意した衣装に着替え、ついでにどこからともなく現れた熟練そうな侍女に髪型やなにやら整えさせられて、送り出されたのである。いつかの徒競走の時のように、アルドレを送り出すイルゼイは楽しげだった。
「コントラルト、それは公私混同で職権乱用ですよ」
「貴様が言うか」
 おそらくオイセルストの言うことの方がこの場合は限りなく正しいのだが、コントラルトはじろりとオイセルストを睨み付ける。
「俺がなにをしたと言うんです」
「立場も考えず、アルドレと決闘をしただろう。ナーゲルたちに聞いているぞ」
「俺が誰かと決闘をするのは、今に始まったことではありませんよ」
 コントラルトの問い詰めるような厳しい口調に、オイセルストはしれっとした顔で応える。アルドレと決闘したことを、少しも悪びれていないらしい。過ぎたことだし、リーベスリートとも交際できているので今更文句を言う気はないが、オイセルストにもう少しだけ彼の立場を顧みてほしいのはアルドレも同じだ。
「わたしがそんなことを言いたいと思っているのか、貴様は」
 まだ食前酒に手もつけないうちから、なんだか夫婦の間が剣呑な雰囲気になってきている。アルドレは自分のせいでこんな状況に陥っているとしか思えなく、どうすればいいのかもはや分からない。リーベスリートは、こうなるかもしれないことをある程度予想していたのか、呆れ半分諦め半分といった様子である。
「立場をわきまえろ、オイセルスト。貴様のしていることは、今に笑いの種にされるぞ」
「俺は気にしません」
「気にしろ」
「コントラルト。俺が、そんな些末なことを気にする小さい人間だと思うんですか」
 オイセルストはむしろ朗らかな笑みを浮かべ、堂々と言い放った。そこまであっけらかんとされると、なんだかもうなにを言っても無駄という感じである。
「……貴様にはむしろそうなってほしいくらいだ」
 コントラルトが大きく溜息をつく。昔から二人の間では似たようなやりとりを繰り返しているのではないかと思わせるような溜息だった。
「ほかでもないあなたがそう言うのであれば、俺も考えないことはありませんが、長年こうやって生きてきたのですから、そうそう簡単に変わるものでもありません」
「変えようと努力する気はないのか、貴様は」
「俺をその気にさせるのはいつでもあなたですよ、コントラルト」
 オイセルストがにやりと笑う。アルドレを送り出した時のイルゼイを彷彿とさせるような笑い方だった。
「あなたが勝てば、あなたの言うとおりにしましょう」
「……貴様は昔からどうして素直に人の言うことを聞かないんだ」
 オイセルストの言葉にコントラルトが頭を抱える。
 アルドレにはいったい何をしてコントラルトが勝てばいいのか分からず、話が見えない。解説を求めるようにリーベスリートを見ると、彼女は肩をすくめて小声で言った。
「母様が父様と決闘して勝てば言うことを聞くってこと。昔からよくあることなの、気にしないで」
「……」
 オイセルストは見習いのアルドレだけでなく、妻のコントラルトに決闘を持ち掛けることさえ躊躇することはないらしい。リーベスリートにとっては当たり前のことなのか、二人を止める気さえないようだ。自分が来たことで《フィドゥルムの双璧》が決闘する事態になってしまっては、気にしないでと言われても気にならないわけがない。しかも、昔からこの夫婦はたびたび決闘を繰り返してきているのだろうか、それも気になる。《双璧》が決闘するなんて、フィドゥルム最強の夫婦ゲンカに違いない。
「俺は人に指図されるのは性分に合わないんです。知っているでしょう」
「貴様という男は……」
「それで、どうしますか、コントラルト。あなたが勝負さえしないというのなら、俺は今すぐヴェルソにはお帰り願いますが」
 それまでアルドレとリーベスリートの存在を忘れたように二人で話を進めていっていたのに、アルドレは急にその場に引きずり込まれた。しかも、晩餐と言いながらなにも食べていないうちから追い返されそうである。どうしてオイセルストが絡んでくると、普通に穏便に事が進まないのだろう。
「ちょっと父様。なにを勝手なこと言っているのよ」
 父の横暴に、さすがにリーベスリートが抗議する。
「リート。これは、俺とコントラルトの問題です。黙っていなさい」
「どこがよ。父様が一人で勝手に二人の問題にしてるんじゃない。ねえ、母様」
 不満そうに唇を尖らせたリーベスリートが、コントラルトに同意を求める。
「まったくその通りだ」
「……分かりました。それでは、俺は自分一人の問題として、自分一人で解決しましょう」
 妻と娘にそっぽ向かれたオイセルストは、じろりとアルドレを睨んだ。アルドレは思わずひるんで、座っているのに後ろに体を引いていた。
「ヴェルソ。本営まで俺がきっちり送り届けましょう」
 言って、オイセルストが立ち上がった。アルドレを叩き出すつもり満々なのは、見るからに明らかだ。送り届けると言いながら、何故か両手の指を鳴らしている。
「待て。ちょっと待て、オイセルスト」
 それを見たコントラルトが、慌ててオイセルストの腕をつかむ。
「《蒼の冬月》の団長である俺が直々に送るんです。どんな小さな危険もありません」
「そう言っているおまえがいちばん危険だろうが。なにをするつもりだ、なにを」
「問題解決を図るつもりです。ご心配なく。俺一人の問題なので、俺一人で片を付けます」
 オイセルストの平坦な口調に、アルドレは身の危険を感じ始めていた。本営に戻る前に、自分は路上で冷たくなってしまうんじゃなかろうか。
「ホントに貴様という奴は!」
 少しも耳を貸そうとしないオイセルストに観念したのか、コントラルトが椅子を蹴飛ばすような勢いで立ち上がった。
「いいか、わたしが勝ったら絶対に言うことを聞いてもらう!」
「望むところです」
 コントラルトとオイセルストは侍従にそれぞれの剣を持って来させると、そのまま揃って庭に面した窓から外へ出て行ってしまった。ほどなくして、庭から雄叫びや金属のぶつかる音が響いてくる。
「……アルドレ、ごめんね。せっかくくつろいでもらおうと思ったのに、かえって気を悪くさせちゃったね」
 リーベスリートは庭で繰り広げられている両親の騒ぎを聞きながら、肩を落とした。
「そんなことないよ。コントラルトさまともお会いすることができたんだし」
「みっともないところしか見せてないわよ、二人とも」
 リーベスリートはますます肩を落とし、溜息をつく。確かに、あまり他人に見せられるようなことではないが、リーベスリートの両親と顔を合わせることができただけでも、アルドレにとっては一歩前進だ。《フィドゥルムの双璧》の意外な一面を見ることができたのも、見習い騎士の自分にとっては貴重な体験だろう、多分。知らなくてもいいことかもしれないが。
「でも、おかげで二人きりで食事できるわね」
 リーベスリートが顔を上げ、微笑んだ。その笑顔に、アルドレの体を固く縛っていた緊張が一気にほぐれていく。どうして、リーベスリートの笑顔はいつでもアルドレを晴れやかな気分にしてくれるんだろう。
「ああ、そうだね」
 オイセルストはあれだけアルドレを追い返したがっていたのに、自らアルドレがリーベスリートと二人きりになる機会を与えている。最大の邪魔者でありながら、実は最大の協力者でもあるのかもしれない。本人がそれを自覚したら、ただの邪魔者になるだけだろうから、ずっと気が付かないままでいてほしい。
 かくしてアルドレは、何故か左の頬を赤くしたオイセルストと右の拳をさするコントラルトが食卓に戻ってくるまで、リーベスリートとの晩餐を楽しんだのであった。

〈了〉