最強の壁 02
 リーベスリートと(アルドレ的に)劇的な出会いを果たして以来、アルドレは彼女の姿を見ていなかった。侍女が騎士団の本営に来ることはおろか、近くを通りかかることさえ稀なのだから当たり前と言えば当たり前だが、アルドレはリーベスリートと出会ったあの日のような偶然が、もう一度起こることを願い続けていた。
 見習い騎士のアルドレが、もっともな理由もなしに王宮へ行くわけにはいかない。見習いは本営にて日夜修練に励むべし、と規則に明記されているわけではないのだが、それが暗黙の了解なのだ。恋い慕う相手に一目会うため王宮に行くなどということは、アルドレのようなひよっこには許されない。先輩騎士たちでさえ、公認の相手でもなければ騎士団の用件以外で王宮に足を踏み入れることは滅多にできないものなのだ。
 午前中の修練が終わった昼食までの空き時間、アルドレは野外である修練場の隅で溜息をついていた。
「溜息なんかついて、まさかもう疲れたのか、アルドレ」
 うずくまっているアルドレの隣に立つハルスが、肩を回しながら言った。
「バカ言うなよ、ハルス。いくら修練に励もうとも、俺の心にできた空洞を埋めることなんかできないんだぞ」
 膝を抱え込みそこに額をつけてうつむいていたアルドレは、ちらりと隣りに立つ友人を見上げ、呟く。
「はあ? おまえ、なにを言ってるんだ?」
 友人の溜息の原因にまったく心当たりがないのか、ハルスが妙な声で返してきた。アルドレはそんなハルスを見て、頭を振った。きっとハルスは、アルドレがいままさに感じているような、胸が焦げ付くほどの熱い思いを抱いたことがないに違いない。
 出会ってから五日。リーベスリートという存在を知ってしまった今、彼女の姿を見られないだけで、アルドレの目の前を過ぎ去る時間は緩慢でどこか色をなくしている。騎士になることを唯一の目標に掲げて剣を握っていた先日までの自分が、嘘のようだ。リーベスリートに会えないだけで、剣を取る手にも力はみなぎらない。
「ハルス。俺は自分がこんなに弱いとは思わなかったよ」
 アルドレは掌を握ったり開いたりを数度繰り返した。握る時に力を込めても、以前のように強く握り拳をつくることができていない気がする。
「いや、だからおまえはさっきから、一体なにを言っているんだよ」
 困惑しているハルスをよそに、アルドレは自分の世界に没頭していく。
「恋に落ちると人は変わるというけど、本当だったんだな……」
「……おまえ、いま、かなり恥ずかしいことを言ったぞ」
 アルドレはもう一度溜息をついた。リーベスリートに会えない切なさと虚しさは、アルドレからあらゆる気力を奪っていく。もう一度会える日が来るかも分からなくては、なんとか踏ん張って立ち上がろうという気持ちも湧いてこない。
 彼女との出会いは僥倖(ぎょうこう)だった。けれど、リーベスリートに会えない今は苦痛を強いる時間でしかなく、リーベスリートと出会いさえしなければ訪れるはずはなかった苦しみだ。しかし、そんな苦しみを抱えていても、アルドレはリーベスリートと出会えたことを後悔してはいなかった。彼女に出会えた喜びは、どんな苦痛をも凌駕する。
 彼女の姿は、今でも目の裏にしっかりと焼き付いている。思い出すと、少しだけ苦しさは紛らわせた。
「おーい、暇な見習いはいるか」
 アルドレが隣にいるハルスの存在も忘れ、一人でリーベスリートに会えないことに苦しんだり耐えたりしていたら、修練場を囲む回廊から、一人の騎士が出てきた。
 その呼びかけに、自主訓練に励んでいた見習い騎士たちが手を止めて彼を見る。アルドレも顔を上げた。
 現れたのは、騎士育成の主担当でもある騎士団《碧の秋星(みどりのしゅうせい)》の第一分団団長、イルゼイ・アルト・クナイフェントだった。
「団長自ら見習い騎士を呼ぶなんて珍しいな。俺たちも行ってみようぜ、アルドレ」
 ハルスは驚いた顔をしながらも、イルゼイのいる方を指さした。イルゼイの周りに、修練場にいた十数人の見習いたちが何事かと集まりはじめている。アルドレはハルスに促されて、彼らのいる場所に向かった。
 ちょっとした人垣にアルドレとハルスが加わったところで、イルゼイが満足げに集まった見習騎士たちを見回した。何かを企んでいるような笑みを浮かべているのが気になった。
「いやなに、大した用事じゃないんだ。いま《南の白館》にマニエラがいるんだが、そいつにこれを届けてほしいと思ってな」
 そう言って、イルゼイは筒状に丸められた書状を見せる。マニエラというのは、イルゼイが率いる分団の副団長だ。
 《南の白館》は、その名の通り王宮の南に位置する白い壁が特徴の館だ。《南の白館》がある場所は知っていても、その役割についてアルドレは詳しいことをほとんど知らない。だが、マニエラがいるということは、騎士団に関わりのある場所であるらしい。
 しかし、そんなことはいまはどうでもよかった。《南の白館》は王宮内にあるのだ。そこへ書状を届けに行くということは、当然普段は近づくことも容易ではない王宮に堂々と入れるということである。運が良ければ、リーベスリートに会えるかもしれない。
「誰か行ってくれないか?」
 イルゼイが言い終わらないうちに、その場に集まった見習い騎士のほとんどが勢いよく挙手していた。もちろん、アルドレもだ。そんなアルドレを、挙手しなかったハルスが目を丸くして見ている。
「書状はひとつだから、行くのは一人でいいんだが」
 イルゼイは面白がるような顔をしている。この人はもしかして、この状況を楽しんでいるんだろうか。
「それならば是非ぼくにお任せください」
「いいえ、このぼくに」
「ぼくならば誰よりも確実にお届けできます」
 なんとか指名してもらおうと、挙手した見習いたちが口々に自分を売り込む。アルドレ以外にこれほど王宮へ行きたがっている仲間がいるとは思いもよらなかった。しかも、誰もが一歩も譲ろうとしない。アルドレのように、王宮に目当ての娘がいるのだろう。
 もしや、それはリーベスリートではないのだろうか。ハルスがリーベスリートについて「みんなが騒いでいた」とか言っていたじゃないか。なんてことだ。あれだけの美貌が、年頃の少年たちの心をくすぐらないわけがない。
 アルドレには、いま挙手している仲間たちが皆、リーベスリート目当てとしか思えなくなってしまった。噂にまで上ったリーベスリートの存在を五日前に知ったばかりのアルドレは、恋敵たちに追いついてそれどころか一歩抜きん出るためには、なんとしても自分がお使いの役目を引き受けなければならない。
「たかがお使いにやる気十分だな。俺は嬉しいよ。だが、お使いには一人いれば十分だから、どうにかしてこの中から選ばなければならない」
 もったいぶるようなイルゼイの言い回しに、見習いたちが顔を見合わせる。
「手っ取り早く決めようじゃないか」
 そう言っておきながらイルゼイの提案したのは、果たして最も手っ取り早いのかどうか、はなはだ疑問の余地がある方法だった。

 ○ ● ○ ● ○

「全員位置に着いたな?」
 一本の木の根元に立っているイルゼイが、そこから離れた位置にいる見習い騎士たちに向かって大声で尋ねた。
「よーし。それじゃあ、ハルス、適当に合図してくれ」
「はあ」
 嬉々としたイルゼイに対し、ハルスがなかば当惑した声で答えていた。アルドレはそんなハルスを視界の隅でとらえながらも、神経は前方の、イルゼイがいるあたりに向いていた。
(絶対に負けられない)
 イルゼイが提案した方法は、手っ取り早いかは謎だが単純なものだった。徒競走である。
 出発の合図をするのは、挙手をしなかったハルス。決勝線は、イルゼイの立っている地点。全力で走って十秒ほどの距離を競うことになる。
 イルゼイの役に立ちたいというのはもちろん口実だ。大義名分があれば大手を振って王宮へ行くことが出来る。
 おそらくまったく同じことを考えている見習い騎士たちが、横一列に並んでハルスの合図を待っていた。お使いを賭けた徒競走に挑む見習いたちは、アルドレをはじめ皆気合いがみなぎっている。
 ハルスが仕方なさそうに右手を掲げた。
「用意……」
 はじめ、という言葉と共に手が振り下ろされた瞬間が、戦いの始まりである。
「――はじめぇ!」
 ハルスの合図と共に、気を吐いて地面を蹴った。
 一歩を大きく、なおかつ素早く前後させてアルドレは両隣を走る仲間たちを引き離していく。決勝地点で待つイルゼイの姿が大きくなっていくのに、なかなかそこへ到達できない錯覚を覚え、アルドレはいっそう大きく腕を振り、足を前へ前へと運んだ。
「っ……あぁ!」
 なだれ込むようにイルゼイの目の前を駆け抜けた。十数歩も通り過ぎてからようやく足が止まり、アルドレは振り返った。
 いちばんに決勝線に達したのは、アルドレだった。
「やるじゃないか、アルドレ」
 イルゼイが手を叩いてアルドレの勝利をたたえてくれた。そのイルゼイ越しに、出発点にいたハルスが歩いてやって来るのが見える。アルドレにつづいて仲間たちが次々と決勝線を越えるが、勝負がもうついてしまったために、出発時とは比べものにならない落胆した表情をしている。
「じゃ、これ。よろしく頼むよ」
 まだ肩で息をしているアルドレに、イルゼイがくだんの書状を渡す。アルドレは全力疾走して汗ばんだ掌を慌てて服で拭い、書状を受け取った。
「場所は《南の白館》の三階西棟《白鎖の間》。そこにいるマニエラに渡してくれ。ほかの団の団長や副団長が何人か集まっているし、場所はすぐに分かるだろう」
「え」
 《碧の秋星》第一分団副団長のマニエラ・ピュイ・ルウルマンは、修練の時に顔を合わせるのでよく知っている相手だ。落ち着いた静かな物腰は、騎士というより紳士で、気負うことなく接することができる人だ。しかし、ほかの団の団長たちとなると、名前以外はほとんど人柄も何も知らない。
 いやそもそも、何人もの団長たちがいるところに見習いの自分が行くなど。叙任された後でも、複数の団長を間近に見る機会などそうそうないはずで、アルドレは走った後とは違う汗がにじむのを感じた。
「うわぁ、俺、勝たなくてよかった」
 負けた仲間の一人がげんなりとした声で言い、ほかの者も同意するように頷いた。多分誰もが、お使いの座を射止めようと全力で走っただろうが、今回のお使いにもれなく付いてくることがほぼ間違いない緊張感は、全力疾走の苦労をも上回る。アルドレも、実は内心で少しだけ、勝ったことを後悔した。
 いやしかし、全力で勝ち取ったこの好機をみすみす逃しても絶対後悔するに決まっている。団長が何人集まっていようとも、リーベスリートに一目会えるのならば、それくらいの苦労を惜しまないでどうする。
「イルゼイさま。俺、行ってきます!」
「お? ずいぶん気合いが入ってるな、アルドレ」
 イルゼイが軽く目を見張ってアルドレを見る。この人は、お使いに行く先に待ち構えている光景を明かすことで、緊張に体を強ばらせた見習い騎士を見てみたかったのかもしれない。
「いままで王宮の方に興味なさそうにしてたのに、いったいどうしたんだ、アルドレ。もしかして、目当ての子でもできたのか」
 しかしイルゼイは、早速次の楽しみの種を見つけたようで、からかうような口調をアルドレに向ける。顔も、笑っている。
「いえ、俺はそんな不純な動機で」
「建前はそうだろうが、本音はお目当ての子に会えるかもしれない、だろう? 照れるな照れるな。誰もが一度は経験することだ」
 そう言って、ばしばしとアルドレの背中を叩いた。
「どうせもうすぐ昼休みだ。お使いが終わっても、午後一の修練の時間までに戻ってくればいいからな。ゆっくり会ってこいよ」
「いえ、そんなわけには……」
 イルゼイはまるでだれかれ構わず絡んでくる酔っ払いのようだった。アルドレはそんなイルゼイにしどろもどろに答えつつ、絡まれている時間も惜しくなってきたので、「とにかく行ってきます」と書状をつかんで走って逃げた。



「で、あいつはいったい誰がお目当てなんだ?」
 アルドレから直接聞き出すつもりだったのに逃げられてしまったイルゼイが、ハルスの方を向いた。
「無謀な相手ですよ。俺は止めたのに」
 ハルスは肩をすくめた。陰ながら応援するとは言ったものの、やはりアルドレのこの恋は無謀ではないかと思っているのだ。聞いている方が恥ずかしいような台詞をハルス以外の前でも口走るようになる前に、諦めてくれたらと友人としては思う。
「無謀な相手? まさか、王女殿下とかか?」
「ある意味、王族の方よりももっと無謀な相手ですよ」
 今度は肩を落として、ハルスは息を吐いた。
「オイセルストさまのお嬢さんに一目惚れしたんです、あいつ」
「ほお、それはまた……。いやしかし、友人のおまえが無謀と言ってやるな」
「でも、オイセルストさまの変人……じゃなくて過保護ぶりは有名ですよ」
「アルドレのあの気合いのいれようなら、もしかしたオイセルストに子離れをさせるかもしれないぞ。見物じゃないか」
 イルゼイは楽しげに笑った。
「笑い事じゃないですよ。アルドレがオイセルストさまに変に目を付けられたりしたら……」
「心配するな、ハルス。オイセルストは変人だが悪い奴じゃない。非常識なことはしないさ――あまり」
「いま、『あまり』っておっしゃいましたよね?」
「それより、アルドレは早速オイセルストと対面することになるかもしれないわけだな。どうなるか楽しみだ」
 イルゼイは口元を歪め、楽しげな顔で《南の白館》のある方向を見た。
「もしかして、集まっている団長の中にオイセルストさまもいらっしゃるんですか」
「ああ、いるはずだぞ」
 イルゼイが頷くのを見て、ハルスはアルドレが無事に戻ってくることを、我知らず祈っていた。

 ○ ● ○ ● ○

 王宮の方に足を踏み入れる機会が滅多にない見習い騎士だが、王宮内部の間取りをまったく知らないわけではない。今のところ心配はないだろうが、敵国の侵入を許してしまった場合、見習い騎士も動員することが想定されている。そんな時、右も左も分からないのでは足手まといになるので、王宮内の見取り図を覚えさせられるのだ。もっとも、見習いに渡される見取り図には、ひよっこどもは知らなくていいと言わんばかりの空白地帯も結構あるのだが。
 アルドレは、頭の中に叩き込んだ見取り図を思い出しながら本営から王宮へとやって来ていた。土埃が舞い、男たちの雄叫びが響き渡るばかりの本営とは全然雰囲気が違っている。なんというか、全体的に清楚で上品な雰囲気が漂っているのだ。
 アルドレは庶民出だが、ハルスは貧乏とはいえ貴族の子息だ。ハルスだけではない。大部分の騎士は出自が貴族なのだ。しかし、それなのに本営は、同じ貴族出身者たちがひしめいているはずの王宮とはなにもかもがかけ離れている。すれ違う人たちは誰もが静かに通り過ぎていき、間違っても大声で叫んだりしなさそうだ。
 貴族の子息でも騎士ともなると日々を修練に塗りつぶされて、上品さを忘れてしまうのかもしれない。
 そんなことを考えながらも、アルドレの目はリーベスリートの姿を捜し求めていた。《南の白館》に行くまでの間、運良く遭遇することはないだろうかという期待を込めて、それこそ血眼になって、すれ違う人から遠く離れた所を歩く人まで見ていた。だが、そんなアルドレの懸命さを嘲笑うかのように、《南の白館》は近くなっていく。
 とうとう辿り着くまでの間に、アルドレはリーベスリートとの二度目の邂逅を果たすことはできなかった。
 意気消沈しながら《南の白館》に入り、階段を見つけて三階まで登っていくが、先程の徒競走で発揮した軽やかさは微塵も残っておらず、それどころかその足取りはすっかり重くなっていた。しかしそれはなにも、リーベスリートを見つけられなかったことばかりが原因ではない。アルドレは自分が向かう先に待ち構えている人々のことを思い出していた。
 マニエラをはじめとする、数人の団長と副団長たち。彼らの前に自分は立たなくてはならなかったという事実は、今更のように緊張となってアルドレの精神の重しになっていく。
(しっかりしろ、アルドレ・ヴェルソ。書状を届けた後は、午後の修練が始まるまでに本営に戻ればいいんだから、ゆっくりとリーベスリートを捜せるんだぞ)
 足取りとは正反対に、高く早く脈打つ自分の胸に言い聞かせ、アルドレは西棟の三階に到着する。
 建物の北側が廊下になっていて、部屋はすべて南向きだ。しかし、外に面した窓は大きく縁取られていて、直接陽が差すことはないが明るかった。その廊下を進み、間を空けて並ぶ扉を見る。扉には部屋の名前を意味する意匠が装飾として施されているらしく、階段にいちばん近い部屋の扉には交差する剣が彫刻されている。多分、《白剣の間》とでも言うのだろう。イルゼイがすぐに分かると言っていたのはこういうことか。
 その時、扉の開く音がした。アルドレの行く手にある扉から、二人の男が出てくるところだった。一人はアルドレの父親と同じくらい、もう一人はそのひとまわりほど年上で威風堂々とした人物だった。剣を帯びた身なりと風格からして、どこかの団長と副団長に違いない。心の準備がまだ完全ではない時の不意打ちに、アルドレは一気に緊張した。
 二人の騎士はアルドレのいる方へ向かってくるので、アルドレは慌てて廊下の端によって道を譲ろうとした。
「君は、見習い騎士ですか」
 直立不動で二人が通り過ぎるのをまとうとしたアルドレに、丁寧な口調で声をかけてきたのは、意外にも年上の騎士の方だった。
「あ、はい。《碧の秋星》のクナイフェント第一分団団長からお預かりした書状を、ルウルマン第一分団副団長にお届けに参りました」
 緊張して少しうわずった声になってしまったが、どもることなくなんとか言い切ることができた。
「イルゼイも人使いの荒いことを……。お昼休みにご苦労様です」
 騎士は優しげに微笑んだ。どこかの団長に違いないのに、とてもそうとは思えない。アルドレは慌てて首を横に振った。
「いいえ、とんでもありません」
「面倒な用事はさっさと済ませるに越したことはありません。ナーゲル、すぐにマニエラを呼んできてください」
「はい」
 年上の騎士に命じられたもう一人の騎士は、すぐに踵を返してついさっき出てきた扉の向こうへと消えていった。あそこが、《白鎖の間》ということだろう。
 それにしても、とアルドレは密かに残っている騎士を見る。イルゼイやマニエラを呼び捨てにしているから、いよいよどこかの団長に間違いない。どの騎士団を率いている人だろうかと、アルドレは推理を巡らせる。
 王都に常駐している騎士団は《碧の秋星》の第一分団と《暁の盾》の二つだけだ。前者はイルゼイが団長だから、そうなると《暁の盾》の団長だろうか。《暁の盾》は王族や重臣の身辺警護、王宮内の警備が主な任務で、見習い騎士の指導に顔を出すことはないから、団長もその副団長も顔を見たことはない。
 いや、待てよ。マニエラを呼びに行った騎士は、ナーゲルと呼ばれていた。その名前には、聞き覚えがある。《蒼の冬月》の副団長が、たしかナーゲルといったはずだ。そうすると、もしかして今アルドレの前にいるこの騎士が……。
 アルドレは目を見開いて、騎士を見た。
 黒い髪に濃い青の瞳。よく見るとその面差しは、アルドレがいま恋い焦がれている少女と似ているような気がする。
 彼が若い頃は、その端整な容姿に王宮の多くの女性たちが夢中になったという。
 《蒼の冬月》の団長。《フィドゥルムの双璧》の片割れ。大陸最強の男。ハルス曰く、普通の比じゃない過保護ぶりを発揮する父親――オイセルスト・ルフティヒ・シュナウツ。
(……見習い騎士でも決闘を吹っ掛けるとかハルスは言ってたけど、とてもそんな人には見えないよな)
 オイセルストの姿を遠目に見たことはあるが、間近で見るのも言葉を交わすのも、これが初めてとなる。彼に関する噂は色々とあって、昔は魔物が数多く棲んでいる危険極まりない《沈黙の森》に住んでいたとか、国賊として賞金首になっていたこともあるとか、名家出身の騎士とは思えない類のものも多いが、いまアルドレの目の前にいる騎士は、およそそんな噂とは縁遠いたたずまいだった。
「お待たせしました」
 緊張と驚きで固まったアルドレがオイセルストと一言も交わす間もなく、ナーゲルがマニエラをつれて戻ってきた。マニエラの姿に、アルドレは少しだけ安堵する。
「ルウルマン副団長。クナイフェント団長からお預かりして参りました」
 アルドレは預かってきた書状を、マニエラに両手で差し出す。
「ありがとう。わざわざ昼休みにすまなかったね。どうせ、団長が無理を言ったんだろう」
「いえ、そんなことは」
 言いながらも、アルドレはイルゼイがどう見ても面白がっていたことを思い出していた。イルゼイの悪ふざけに、マニエラはいつも渋い顔をする。
「困った上司を持つと部下は苦労するからね」
 ナーゲルが妙に実感のこもった声で、肩をすくめる。
「ナーゲル。君は苦労しているんですか」
 オイセルストはにこやかな表情のまま、ナーゲルを見たが、その時の彼の目はあまり笑っていないように見えた。ハルスの言っていたことは、やはり本当だったのかとアルドレが不安に襲われる前に、ナーゲルが「いいえとんでもない」と言ってオイセルストの表情は元に戻っていたから、見間違いだったのかもしれない。
「ご苦労さま。あとは、本営に戻って午後の修練が始まるまでゆっくり休みなさい」
「はい。ありがとうございます」
 アルドレは三人の騎士に深々と頭を下げると、くるりと踵を返して背筋を伸ばし、いつになく整った歩き方で階段へ向かった。