最強の壁 01
 騎士団本営の周囲を走り込んでいたアルドレは、ふと足を止めた。このあたりではあまり見かけない、アルドレとそれほど歳の違わない少女が途方に暮れたように歩いていたからだ。着ているお仕着せは、掃除や洗濯などをする下働きのものではなく、王宮内の身分ある人に仕える侍女のものだ。
 こんなところに珍しいと、アルドレは少し驚いて少女を見た。
 騎士団本営は一応は王宮の敷地内にあるが、その中心部からは遠く離れた端の方にあり、本営の近くにあるのは倉庫や馬房(王族用ではないが)で、下働きはともかく侍女が来るような施設はほとんどない。
 もし侍女が本営近くを歩いているとすれば、それはおおかた、騎士団にいる意中の騎士に会うためだろう。時折、そんな侍女を見かけることがある。だが、それでも普通は複数でかたまって見に来る。やはり、騎士とはいえ男ばかりの場所に、少女が一人で来るのは相当の勇気が要るのだろう。
 だからこそ、一人でいる少女の存在は珍しかった。
 少女は、辺りをキョロキョロ見回しながら、おどおどとした足取りで近くの建物を時折覗き込んだりしながら、歩いている。誰かを捜しているようでもあるが、それにしてはなんだか様子がおかしい。
(もしかして、迷子なのか?)
 王宮は広い。今はまだ見習い騎士のアルドレは、本営以外の場所へほとんど行ったことがないから、王宮の中心部の方へ行けばどこになにがあるのか分からず、きっと迷子になるだろう。侍女の仕事と直接関係のない本営周辺で彼女が道に迷っていても、おかしいことはなかった。
 アルドレは、倉庫のひとつを覗き込んでいる少女のもとへ早足で向かった。
「そこの君」
 アルドレが声をかけると、倉庫の中を覗き込んでいるせいでこちらに向いている少女の肩が、怯えたように震えた。迷子になって心細いところに、急に声をかけられれば余計に不安が募る。アルドレに、彼女を怖がらせるつもりはもちろんなかった。
 しかし案の定、振り返った少女の表情にはそんな不安の色が浮かんでいた――のだが。
「……」
 濃い金色の髪は首の後ろでひとくくりにされ、滝のように背中に流れ落ちている。
 アルドレを見つめる瞳は、秋の空を思わせる深く澄んだ青色で、不安をのぞかせながらも、不思議と惹き付けられるような強さがあった。
 そしてなによりアルドレの目を惹いたのは、少女の端整な顔立ちだった。神がこの世の美を凝縮したのではないかと思わせる容貌は、彼女が侍女のお仕着せではなくドレスを着ていれば、一国の王女だと見まごうほどだった。
「あの、わたしは怪しい者ではないのです」
 少女の美貌に言葉をなくしてしまったアルドレを、少し怪訝そうに見ながらも少女が口を開いた。顔に似合わず、少しだけ低い声。しかし容姿との落差が、少女の存在感をいっそう強くする。
「道に迷ってしまって、いつの間にかここまで……。あの、《西の朱の塔》には、どのように行けばよいのでしょうか」
「あ、ああ、やっぱり迷子だったんだ。このあたりに君みたいな侍女がいるのは珍しいから、どうしたのかと思ったんだよ」
 アルドレは、少女に見とれて当初の目的をうっかり忘れそうになったことを慌てて取り繕った。
「それで、お声をかけてくださったのですか」
「うん、走り込みしてたら、たまたま見かけてね」
 さっきまで自分が走っていたあたりを指さす。アルドレが示した先にあるのは、本営の倉庫で、その向こうに修練場や宿舎がある。
「訓練中だったのですか。それでは、お邪魔をしてしまったのですね。申し訳ありません」
 少女は丁寧な物腰で、深々と頭を下げたのでアルドレは慌てて少女に顔を上げさせる。
「いや、今は訓練中じゃなくて空き時間だったから、俺は本営の周りを走ってみようかな~と思って走ってただけで、全然邪魔なんてしてないよ」
「そうなのですか。でも、自主訓練中でもおいそれとお邪魔をしてはいけないと、両親は申しておりました」
 少し首をかしげ、少女が言う。アルドレは、少女のそんな一挙手一投足を見るたび、何故だか自分の動悸が速くなるのを感じた。今は走っていないはずなのに、おかしい。
「そうなんだ。でも、大丈夫。ねえ、それより、君《西の朱の塔》に行きたいって言ったよね」
「あ、はい」
「《西の朱の塔》は、あっちの――」
「おーい、アルドレー」
 アルドレが、何故だか高鳴る胸を押さえつつ、少女に道を教えようとした時、遠くから彼を呼ぶ、聞き覚えのある声が聞こえた。少女と共に振り返ると、思った通りの人物がやって来るところだった。
「そろそろ午後の修練が――って、あれ? もしかして、邪魔しちゃった?」
 アルドレの隣に少女がいるのを見て、ハルスが少し気まずそうに、しかしどこかからかうような顔で言った。
「いや、そんなんじゃない。彼女が道に迷ったって言うから……」
「あ、リート!」
「こんなところにいたのね、捜したわよ」
「やっと見つけたぁ!」
 またもやアルドレの声が遮られる。今度は、なんともにぎやかで華やかな、少女たちの声だった。見ると、本営とは反対方向から、三人の少女が駆けてくる。三人とも、迷子の少女と同じ年頃で同じお仕着せを着ている。侍女仲間なのだろう。迷子になった彼女をどうやら捜していたらしい。彼女たちは、アルドレとハルスの姿に気が付いてなのか、驚いた表情を見せ、駆け寄ってくる歩調が少し遅くなった。
「良かったね、友達が見つけてくれて」
 そうは言ったものの、アルドレはどこか惜しい気持ちで迷子の少女を見た。もう少し彼女と言葉を交わせれば良かったのにと、初めて顔を合わせた相手に抱くにしては不自然な思いを、ごく自然に抱いていた。
「はい」
 少女はアルドレの心中を知ってか知らずか、ほっとした顔で頷く。それから、アルドレとハルスに頭を下げた。
「どうも、ご迷惑をおかけしました。ありがとうございます」
 そして、駆け付けた侍女仲間の元へ軽やかに駆けていく。迷子の少女が仲間たちのもとに辿り着くと、少女たちはひとしきり喜び合い、それからアルドレたちに小さく会釈をした。アルドレも、答えるように小さく会釈すると、少女たちはなにやらささやき笑いあい、ちらちらとアルドレたちに視線を送りながら、現れた時と同じようににぎやかに去っていった。
 少女たちの姿が建物の陰に消え、にぎやかさも風と共に失われると、本営の周囲に元からある殺伐とした雰囲気が、ますます色褪せたものになってしまったような気がする。
「すんごい可愛かった……」
 アルドレは、少女が去っていった方向をぼうっとした表情で見つめて、ぽつりと言った。魂を抜かれたようなふやけた顔になっているアルドレを、ハルスが呆れ顔で見ていることには気が付かない。
「今のが、みんなが騒いでた子だよな」
 ハルスは溜息をついたあと、アルドレと同じ方向を見て言った。
「騒いでた? あの子のこと知ってるのか、ハルス」
 アルドレは、それまでのふやけ顔から驚いた表情に変わり、ハルスを見る。ところが逆に、ハルスが驚いた顔でアルドレを見た。
「おまえ聞いたことがなかったのか? 結構有名だぜ、今の子」
「彼女、誰なんだ。名前は?」
「なあ、アルドレ。おまえもしかして、あの子に惚れた?」
 面白がるのではなく何故か怪訝そうな顔で、ハルスはアルドレを見た。しかしアルドレは、ハルスのそんな表情などまったく気にせず、それどころか彼の指摘で自分が初めて今の少女に一目惚れしていたということに気が付いた。
 咲き誇る花のような容貌のなかにある凛とした眼差し。
 芯の通ったしっかりとした声。
 春を謳う風のような仕草。
 ほんの短い間に見た少女のすべてを、アルドレは鮮明に思い出せた。もう一度、彼女に会いたい。彼女を知りたい。自分の中に突如生まれたそれら強い欲求にアルドレは戸惑いながらも、これが恋をするということなのか恋に落ちるのは突然だっていうけど本当だったんだ、などと口にしたら恥ずかしいことを臆面もなく思っていた。
「あの子は確かに可愛いけど、やめといた方がおまえのためだぞ」
 ハルスは気の毒そうな顔をする。
「どうして。当たる前から砕けたつもりはないぞ」
「その心意気は買うけど、相手が悪い」
「どういうことだよ。いや、それより、ハルス。あの子の名前を教えてくれよ」
 侍女仲間の一人はリートと呼んでいたが、ちゃんと姓名が知りたい。
「名前を聞いたら、おまえも考え直すと思うけど……。彼女は、リーベスリート・ヘル・シュナウツだよ」
「シュナウツ?」
 アルドレは聞き返していたが、その名前にはばっちり聞き覚えがある。見習い騎士でシュナウツの名を知らない者はもぐりだ、と言われるほどに知れ渡っている家名だった。いや、そもそもこの国で、シュナウツの名を知らない者がどれほどいるだろう。
「まさか……」
「そのまさか。彼女は、《フィドゥルムの双璧》の娘だよ」
「あの子が……?」
 フィドゥルム史上初の女性騎士にして《戦女神》の異名を持つ騎士コントラルト・ヘイリー・シュナウツ。彼女は、実戦部隊《緋の夏陽》の団長でもある、フィドゥルム屈指の騎士だ。そして、やはり実戦部隊の《蒼の冬月》の団長にして、大陸一との呼び声も高い騎士オイセルスト・ルフティヒ・シュナウツ。《フィドゥルムの双璧》とはこの二人のことであり、彼らはフィドゥルム最強の夫婦でもあった。
「《双璧》が彼女の両親だと聞けば、いくらなんでも腰が引けるだろ。な、やめとけって、アルドレ」
「……俺だって、見習いとはいえ騎士だ。身分の差なんか」
 《双璧》のシュナウツは分家筋だが、本家はフィドゥルムの東部キーシュリアを治める名門貴族で、少し裕福な商家とはいえ庶民出のアルドレなど、足元にも及ばない家柄である。しかし、出は庶民でも叙任されて騎士になり、実績を上げればアルドレでもそれなりの身分を与えられる可能性は十二分にある。なにより、胸を焦がすこの熱い想いの前に家柄や身分などどれほどの意味を持とうか、とこれまた口に出したら恥ずかしいことを思った。
「いや、俺が言いたいのは身分の違いじゃなくて。彼女の親が誰かを考えろってことだよ」
「彼女が何者であろうと、俺の気持ちは変わらないぞ」
 コントラルトもオイセルストも、《双璧》と呼ばれ国中の尊敬を集める騎士なのだから、きっとアルドレの真摯な想いを理解してくれるに違いないと、かなり楽観的展望を抱いていた。
「それは立派だけど、やめといた方がいいって。おまえ、騎士になれないかもしれないんだぞ」
「どういうことだ?」
「だから、彼女の両親――というか、父親だよ。オイセルストさまに睨まれたら、王都から叩き出されるかもしれないぜ」
「どうして。俺は追い出されるようなことは何もしてないぞ」
「あの人の変人……いや、過保護ぶりを知らないから、そんなこと言えるんだよ、今は」
「貴族が自分の娘に対して過保護なのは、別に普通じゃないのか?」
 アルドレは、貴族は我が子を蝶よ花よと育てて、年頃になったら金と権力のある中年貴族とかに嫁がせるモノだと思っていた。貴族にとっての結婚は、愛よりも金と地位だと、幼い頃に知ったかぶりした近所のがき大将か誰かが言っていたのだ。それは幼いアルドレの頭に強く刷り込まれ、現実はそうでない場合もあると知っているのだが、いまだにその認識からなかなか抜け出せない。しかし、国の英雄と言ってもいいシュナウツ夫妻に限って、あのリーベスリートを有力貴族に嫁がせるために画策したりはしないだろう。どちらかといえば、画策するよりはされる方の家柄なのだし。
「そうだけど、オイセルストさまの場合は普通の比じゃないんだよ」
「でも、それなら王宮に出仕させたりしないだろ」
 さっきのように、不意に異性と出会す可能性なんていくらでもある。王宮では、貴人に出仕するのは侍女ばかりではない。侍従もたくさんいるに違いない。アルドレは、そこではたと気が付いた。リーベスリートのあの美貌では、彼女の家柄、相手の家柄に関係なく言い寄る男は山のようにいるのではないだろうか。
 そのことに気が付いた途端、顔が青ざめるほどの不安に襲われた。アルドレが今こうしている間にも、親しくなろうとリーベスリートに近寄る男がいるに違いない。今すぐ彼女のもとに駆け付けてそんな輩は蹴散らしてしまいたいのに、見習い騎士だから行動範囲がほとんど本営に限られてしまう自分の身の上が、ひどくもどかしい。
「……あの人は、自分の娘に近づく男がいると、決闘を吹っ掛けるんだよ」
 アルドレが心配しているのとはまったく別の、しかし耳にしたからには気に留めないわけにはいかない事実を、ハルスが告げた。
「え」
 それにはさすがにアルドレも、弱冠ひるんだ。
 《双璧》の片割れであるオイセルストは、自他共に認めるこの国最強の騎士だ。そんな男と決闘をして、見習いであるアルドレが勝てる可能性がどれだけあるだろうか。オイセルストの体調が絶不調だとか大怪我を負っているとかいうことでもないかぎり、アルドレなど瞬殺だ。今度は別の意味で、顔が青ざめる。
「しかも、今は時期が悪い。オイセルストさまを止められるコントラルトさまは、今北で戦争中だからな。今彼女と仲良くなろうとしても、オイセルストさまに気づかれて叩きのめされるだけだ」
 ハルスは気の毒そうな表情で、「だから彼女はやめておけ」とアルドレを諭す。
「いや、でも、いくらなんでもまさか《双璧》……というか《蒼の冬月》の団長が、そんな私情で見習い騎士に決闘なんて」
 ハルスの言うことが真実ならば、彼が止めるのは無理ないと思った。しかし、アルドレはいい加減な気持ちをリーベスリートに向けたいわけではない。一目惚れだが、彼女を想う気持ちに偽りは少しもない。むしろこれほど強い気持ちなど抱いたことさえないくらいだ。
 一瞬ひるんでしまったのは事実だが、オイセルストが決闘を吹っ掛けてくるかもしれないと知っても、何もしないうちから身を退くつもりはなかった。むしろ、もしも決闘することになっても受けて立とうと意気込むくらいだ。勝てる可能性についてはともかく。
「アルドレ……。おまえの意気込みは買うけど、あのオイセルストさまが相手じゃ、俺は陰ながら応援することしかできないよ」
 そう言って、ハルスはぽんとアルドレの肩を叩いた。
「ちょっと待てよ。今のは応援するってことなのか、それとも傍観するってことなのか?」
 心底気の毒そうな顔をしているハルスを見るかぎりでは、積極的に心から応援してくれるようには見えなかった。
「覚悟を決めろよ、アルドレ。おまえの最大の敵は、オイセルストさまなんだから」
「なんか、自分は関わり合いになりたくないというようにも聞こえたぞ、ハルス」
「気のせいだ、アルドレ。それより午後の修練が始まるぞ」
 納得はいかなかったが、ハルスの言うとおりなのでアルドレはオイセルストが云々ということは一度忘れることにした。