00. 森の中
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 分厚いブーツの底が、堅い甲虫の背中を踏み抜く。虫とは言っても、子供ほどの大きさがある。大きい分、甲殻も頑丈であるが、鉄を仕込んで補強してあるブーツには敵わなかった。背中を踏み抜かれたその虫は、断末魔をあげるようにギチギチと口を噛み鳴らし、やがて静かになった。
「ああ、くそ。体液が付いた」
 虫の背中から足を引き上げ、靴底に付いた黄色い液体を見てライがうめく。
「げ。べとついてるぞ」
 手でぬぐおうとしたらしいが、虫の体液は靴底とライの掌の間で糸を引いている。ライはその糸を近くの木の幹に擦りつけ、取ろうとしていた。
「取れないぞ、セド」
「うかつに触るからだろ」
 離れた所から、悪戦苦闘するライを見ていたセドの足下にも、同じような甲虫が横たわっている。頭部には、剣で貫かれた跡がある。セドは、頭を潰して仕留めたのだ。
 剣には、ライの靴にまとわりついているような体液は付いていない。どうやら、頭部には分泌されていないらしい。セドはほっと一安心して、剣に付いた虫の体液を振り払うと、鞘に収めた。
「くそ。どうせ出るなら、虫じゃなくて食べられる生き物が出れば良かったのに」
 木や草に手と靴底をなすりつけ、ようやく体液を落としたライが愚痴る。
 二人が今いるのは、うっそうとした森の中である。街道どころか、獣道すらない場所を歩いているのだ。いや、彷徨っていると言う方が適当かも知れない。森に入って三日目になるが、まだ出る事ができないのだ。それほど広い森ではないから、そろそろ人里なり街道なりに出てもいいはずなのだが、その気配は毛ほどもない。
 食料は残り少なく、昨日池に遭遇したっきり、水場はないから飲み水も残りが危うい。まだ冬季ではないから、食料は木の実でも何とかなるが、問題は水だった。食料がなくても、数日は過ごせる。だが、水は必要だ。動いているのなら尚更である。水以外にも塩も必要ではあるが、塩は水と違ってかさばらず持ち運びは楽なので、十分な量を常に携帯している。今のところ、残り少ないという心配をする必要はないが、このまま森を彷徨い続けていれば、塩も危うくなる事は必至だ。なくなってしまえば、人里のない所では水以上に入手が困難になる。
 つまり、簡単に言えば、一刻も早く森から抜け出る必要があった。
 食料や水の心配もあるが、それ以外に生命を脅かす存在もいるのだ。二人が今し方倒した、巨大な甲虫のような虫たちや、どう猛な肉食の獣、魔物が森の中には潜んでいる。襲われたのも、今回で何度目になるか分からない。
「おまえのせいだぞ、ライ」
 地面の上に顔を出している太い木の根に腰を下ろし、セドは左目でライを睨んだ。両目で睨み付けてやりたいところだが、セドの右目は眼帯で隠されている。
「四日前の事だってのにまだ気にしてるのか、セドは。意外としつこいなぁ」
 睨まれたライは、おどけた口調で肩をすくめてみせる。
「阿呆」
 セドは落ちていた木の枝をライに投げ付ける。が、木の枝は遠くまでは飛ばず、ライの手前で墜落した。
「四日前の事のせいで、今こうしてるんだろうが。おまえのせいじゃないなら、ほかの誰のせいだってんだ」
「若気の至りだ、セド。それに、あの時暴れたのは俺だけじゃないからな」
 ライは特に悪びれた様子も見せない。少しは反省して、次から行動を自重するなりしてほしいのだが、こんな調子ではこの先同じような事は繰り返されるだろう。
 セドは深々と溜息をついた。
 四日前、街で乱闘騒ぎを起こしたせいで衛兵や、乱闘した相手の傭兵に追いかけられ、仕方なく森へ逃げ込んだのだ。それが三日前の事である。
「俺は暴れていないぞ」
「でも、止めなかったじゃないか」
「酔っ払って剣を振り回している奴を、止めたいと思うか?」
 四日前の乱闘を、セドは苦々しく思い出す。こんな事になると分かっていたら、静観せずに止めていたのだが、という後悔の念が湧き上がってくる。だが、悔しいのでそれは言わないでおく事にした。
「食い物にも飲み物にも困らない仕事がしたいな、セド」
 話をはぐらかすように、ライが話題を変えてきた。過ぎた事をいつまでもぐちぐち言っていても仕方ないので、セドもそれに素直に乗る。
「それなら、隊商の護衛だろうな。最低限は保証される」
「隊商の護衛か……いいなぁ。次の仕事はそれにしないか、セド」
「隊商の護衛をしたいのか」
「どうせなら、遠くへ行く隊商にしよう。フィルレランドまで行けば、そうそうあいつらも追いかけてこないだろう」
 あいつら、というのは乱闘をした相手の事だ。衛兵よりもしつこく、二人を追いかけてきた。
「まあ、それも悪くないな」
 フィルレランドは、二人が今いる国、ティクルカランに隣接する国である。セドたちが今いるのは、フィルレランドの国境付近だ。街へたどり着いて、整備された街道を行けばフィルレランドまでは数日といった距離である。ライと乱闘した傭兵たちも、さすがに隣の国まで追いかけて意趣返ししようとは思わないだろう。
「ただし、この森を無事に抜けたらの話だな」
 セドは木の根から立ち上がり、軽くほこりを払う仕草をした。
 うっそうと茂る木の葉は、森の中へ入り込もうとする光を遮っている。薄気味悪い鳴き声が、遠くから聞こえてくる。息を潜めている獣か、魔物の気配がそこら中からしている。
 この森を無事に抜け出さない事には、次の仕事にはありつけない。 


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