紅蓮のをつかむ者―12
/ / 目次 / 書庫 / HOME
 闇の中で手応えを感じた。
 ずぶり、と剣先が生き物の身体にめり込む感触。
 やったのか。そう思って目を凝らし、彼女――クロエは驚いて目を見開いた。そこにいたのは、魔物ではなく、魔力など持たない普通の獣だったからだ。
 長く魔滅士をしていると、姿形以外から、魔物とそうでない獣の区別ができるようになる。しかしそうは言っても、それは勘のようなもので、新人の魔滅士にその感覚を教えるのは難しい。魔物は、近くにいるとなんとも言えない嫌な感じがするのだ。
 魔物の気配は確かに感じた。今も、だ。しかし、魔物と思って剣を突き立てた相手は、アオジカという鹿の一種で、魔物ではない普通の獣だったのだ。
 クロエは慌てて剣を引き抜いた。怪我をした今の彼女には、獣でも危険だった。自分を傷付けたクロエを、アオジカはきっと攻撃してくるだろう。そう思い、逃げようと足を踏み出した。しかし、どちらへ逃げればいい。魔物の気配はあれど、姿はない。どこかに身を潜めているのだ。獣を囮にして、自分に襲い掛かってくるつもりなのかもしれない。
(その怪我で、どこへ逃げる?)
 一歩踏み出したクロエの頭の中に、そんな言葉が響いた。耳を通して聞こえた声ではない。頭の中に直接、言葉を叩き込まれたのだ。彼女は辺りを見回した。どこかに、クロエに語りかけるものがいるはずだ。
(わたしはここにいる――おまえの、すぐそばにな)
 その言葉に、クロエはおそるおそる振り返った。今すぐ側にいるものといえば、魔物と思って剣を突き立てたアオジカだけだ。
 アオジカは、胸のあたりから血を流したまま、じっとクロエを見ていた。暴れるどころか、痛がる様子もなくじっとこちらを見つめていて、不気味だった。
(その傷では、朝までもつか怪しいものだな)
 言葉がクロエの頭の中で響くのに合わせ、アオジカの真っ黒な目が瞬いたように見えた。まさか、このアオジカが自分に話しかけているというのか。それとも、血を流しすぎて幻覚でも見ているのだろうか。分からなかった。
 しかし、自分では考えまいとしていたことを指摘され、背筋に冷たいものが流れるのを感じた。
 右腕の傷は鈍く強く痛み、左足の痛みも強さを増している。止血をしてだいぶ出血が治まったとはいえ、浅からぬ右腕の傷口からはじわりじわりと今も血が滲み出ている。楽観視できるような状態でないことは、なにより自分がいちばん分かっていた。しかし、魔物にいつ襲われるか分からない恐怖の中、仮に襲われなくとも朝までもつか怪しい自分の状態についてまで危惧しなければいけないとなると、とても精神が保ちそうになかったので、クロエは努めて怪我については考えないようにしていたのだ。
 魔物に喰われるという恐怖と、このままではきっと死んでしまうという不安。
 叫びたい衝動を必死に抑え、クロエはアオジカを見据えた。
(だが、わたしならおまえを救えるぞ)
 アオジカの目が瞬く。左手で剣を持つクロエは、警戒を緩めることなく獣を見ていた。かすむ目を、痛む右手で何度もこする。
(わたしを受け入れてくれればいい。それだけで、おまえの傷は癒え、死ぬこともない)
 クロエの頭の中で響く言葉は、あまりに甘く、誘惑的だった。死にたくないと心の中で叫び続けている自分が、その言葉に耳を傾けていた。冷静な自分が、それを止めようとするが、痛みが邪魔をする。
(死にたくないのだろう? わたしには、おまえの叫びがよく分かる)
 死にたくない。今夜だけで、何度そう思ったか分からない。気が狂いそうなほど、強く願っていた。
(おまえの右手のその傷口を、わたしの傷口に当てればいい。それだけで、おまえは助かる)
 アオジカが、胸の傷を突きだした。促すように、あごを縦に振る。
 クロエは左手の剣を地面に置き、おそるおそる右腕にあてがった布をほどいていった。この獣が普通ではないことは、明白だった。それが、いつの間にかクロエの現実感を希薄にしていた。失血し、意識が朦朧としかけていたせいもある。
 しかしそれ以上に、死にたくないという自分自身の叫びに、クロエはあらがうことができなかった。

 ◇ ◇ ◇ ◇

 巨木の陰に身を潜め、意識を失っていたクロエを仲間が発見したのは、翌日の昼前だった。すぐに診療所に担ぎ込まれ、手当を受けたクロエが意識を取り戻したのは、更にその翌日のことだった。
「……」
 ぼんやりと目を開け、周囲の様子をうかがおうと顔を動かす。自分が寝台に寝かされていることが分かった。うっそうとした森の中ではない、人いきれを感じる人家の中。クロエは心底安堵した。自分は助かったのだ。
 見舞いに訪れてくれる討伐隊の仲間の姿を見て、彼女はいっそう安堵した。クロエに怪我を負わせた魔物は、仲間の手で無事退治されたと聞いた。
 異変に気付いたのは、それからしばらく後のことだった。傷もずいぶん癒えたというのに、どうにも身体が重い。歩くことも億劫で、何かを身体が欲していた。それが何か分からないまま、数日が過ぎ、ますます体調は悪くなるばかりだった。医術師の元を訪れたが、原因は一向に分からなかった。
 そしてその夜、それは起きた。
 どうにも体調が悪く、早めに床についたクロエは、気が付いたら裸足で深夜の街を徘徊していた。家に帰ろうにも、身体はまったく言うことを聞かず、何かを探し求めるようにふらふらと歩き続けた。しばらく歩いていた彼女は、遠くを歩く人影を見つけた。深夜巡回している魔滅士――討伐隊の仲間だった。
 人を見つけた瞬間、それまでふらついていたというのに、信じられないほど力強く駆け出していた。そして、あっという間に仲間の背後に迫ると、肩をつかんで一気に引き寄せ、首筋に歯を突き立てた――
 それからのことは、よく覚えていない。気が付けば、自分の足下に仲間が倒れていた。首から血を流し、ぐったりとして動かない。クロエは、彼が生きているかどうか、怖くて確かめることができず、その場を逃げ出した。
 途中、口の周りに何かが付いていることを感じ、手の甲で口元を拭った。月明かりのもと、自分の手の甲を見て愕然とした。赤いものがべったりと付いていたのだ。よく見れば、寝間着にも付いていた。
 間違いない。彼の血だ。クロエは悲鳴をあげそうになりながらも、声を上げて誰かに見られることを恐れて口を引き結び、逃げるようにして家を目指した。
 裏口が、開いていた。不用心だと思う余裕もなく、クロエは家の中に駆け込んだ。洗面所へ行き、顔と手についた血を洗い落とす。必要以上に何度も何度も手と顔をこすった。それから、自室へ行って寝間着を着替えると、それを押入の奥に隠し、寝台に潜り込んだ。
 全身が小刻みに震えていた。自分のしたことが信じられなかった。仲間を襲い、あろうことかその首筋に噛みついて、それから――
 何故そんなことをしてしまったのか、まったく分からない。分からないから、余計に恐ろしかった。
(恐れることなどない)
 寝台の中で震え続けるクロエの頭の中に、覚えのある声が響いた。耳を通して聞こえたわけではないから、声というのは正しくないかもしれない。しかし、森の中でクロエに語りかけてきた声と、今語りかけてきた声は同じだと分かった。それどころか、もっと自分に近いところから語りかけてきているような気がする。
「……誰なの」
 クロエは掛布から頭を少しだけ出し、暗い部屋の中を見回した。しかし、人などいるはずもない。魔滅士として戦うことはもう無理でも、魔滅士の勘をなくしたわけではない。人がいるかいないかくらいはすぐに分かる。
(わたしは、もうおまえの一部だ)
「だから、誰なの、あなたは……!」
 小声ではあるが、クロエは苛立った強い声を上げた。
(分からないか。仕方がない……)
 その途端、クロエはすべてを理解した。頭の中に、突然答えが生まれた――いや、クロエに語りかけるものから、答えを与えられたのだ。
 クロエに語りかけてくるもの。それは、紛れもなく魔物だった。それも、魔滅士であるクロエが今まで一度も見たことも聞いたこともないような、かなり変わった魔物だった。
 その魔物は、生き物としての定まった形がなく、ほかの生き物に寄生することで長い時を生き続けていた。宿主の死期が近くなると、新たな宿主を探すのだという。普段は宿主の体内に潜みおとなしくしているが、食事の時と宿主探しをする時だけ、宿主の意識を凌駕して宿主の身体を操る。今夜、クロエが仲間を襲ったのも、彼女に寄生したこの魔物が食事をするためだった。今まで魔物がなりを潜めていたのは、クロエの体に魔物が馴染むため。それにかなりの時間を費やしたため、魔物の食事が遅れ、クロエの体調が悪かったのだ。
 この魔物は、生き物の血を餌に生きている。しかし、宿主の血を餌にしては魔物はすぐに宿主を変えなければならないので、宿主を操り、ほかの生き物の血を餌にするのだ。
 クロエは吐き気を覚えた。
 自分の中に魔物がいる。それだけで、怖気が走る。それなのに、そのうえ仲間を襲い、あまつさえその血を吸うなんて――
 皮膚の下で、無数の虫がうごめいているような気色の悪い錯覚に囚われ、クロエは右腕の傷跡に爪を突き立てた。魔物は、ここからクロエの体内に入ったに違いない。
 今すぐ、この魔物を体内から引っ張り出して斬り捨てたかった。
「出て行け……わたしの身体から!」
 クロエは吐き捨てるように、自らに向けて言葉を放つ。ふつふつと、たぎるような怒りが全身から湧き上がる。引退したとはいえ、魔滅士の自分の中に魔物がいるという事実は耐え難く、屈辱的だった。
 しかし、頭の中に魔物の哄笑が響いた。
(おまえが望んだことだ、魔滅士。死にたくないと望んだおまえを、わたしが救った。わたしが今おまえの身体から出て行けば、おまえはたちどころに命を失う。死にかけていたおまえを救ったのは、わたしの魔力。今おまえを生かしているのも、わたしの魔力。それを失えば、おまえはすぐに死ぬ)
 森の中で絶望的な気持ちで、焼け付くほど強く、死にたくないと心が叫び続けていた。
 魔物の言葉が、クロエが忘れかけていた恐怖を呼び起こす。
 死にたくない。死にたくなどない。助かった今、尚更強くそう思っている。
(わたしの食事は、数日に一度。生き物の血をほんの少し吸うだけでいい。殺すわけではない……)
 魔物の言葉が、甘い誘惑のようにクロエの意識に入り込んでくる。クロエは傷痕を強く握りしめた。
(殺すわけではない。食事の時は、わたしがおまえの意識を少しだけ眠らせて、わたしがおまえを動かす。おまえの意志で血を吸うわけではない。おまえが感じる罪悪感など、ほとんどないではないか)
 魔物の誘惑は、まとわりつくようにクロエの意識を絡め取っていく。クロエの意識は魔物の誘惑に絡め取られていく。
(死にたくないのだろう、魔滅士。わたしが食事をしなければ、わたしが死ぬ。わたしが死ねば、おまえも死ぬ。なあ、クロエ……)
 死にたくない。今さら、あの夜の恐怖を思い出すことさえも、耐え難い。クロエの心に強く刻み付けられた生への執着は、今や払拭することなどできなかった。
(共に生きようではないか)
 わたしはもう、魔滅士ではない――クロエの左手が、右腕から離れた。

 ◇ ◇ ◇ ◇

 血を吸い生きるその魔物は、別に人の血でなくともいいらしいが、人ばかりを襲った。
 ほかの生き物の血より、人の方が気に入ったらしい。五日に一度ほど、真夜中に気が付けば、クロエは外を徘徊し、獲物を捜していた。
 討伐隊の者は避けたかった。仲間を襲いたくないというのもあったが、それよりも顔を見られたくなかったからだ。顔を見られれば、正体が知られる。正体が知られれば、すぐさま、魔物として退治されることになる。
 クロエに寄生した魔物もそれを理解しているのか、討伐隊員は避け、一人歩きしている酔客や警備隊やばかりを狙うようになっていた。
 獲物となる者を見つけた瞬間の喜び。
 その首に食らい付き、熱い血潮を貪る時の高揚感。
 体内に流れ込んでくる熱さが、体に染み渡り潤っていくように感じた。
 生きているのだと実感する一時――
 魔物の感情のはずのそれを、クロエはいつの間にか自分のものと感じるようになっていた。人を襲うという罪悪感にさいなまれながらも、一度は死に直面したクロエにとって、生きているとなにより実感できるその一時は手放しがたかった。
 討伐隊に身を置きながら、クロエは次々と襲っていった。
 人を守るために生きたクロエは、あの夜に死んでしまったのだ。生き残ったのは、狂おしいほど強く、死にたくないと叫んだクロエだけだった。
 魔物を受け入れてしまった彼女に、討伐隊にいる資格などない。けれど、クロエは討伐隊に留まった。討伐隊の動向を知るために。
 魔物への憎悪、魔物の寄生を許した自分への嫌悪感は、人をひとり襲うたび薄れていった。罪悪感は、とっくの昔に消えていた。誰を殺すわけでもないのだという魔物の言い分は、やがてクロエの言い分となり、生きるために血を吸うことはもはや当然のこととなっていたのだ。人が家畜を潰して口にするのと同じ、いやそれよりもマシではないかとさえ考えるようになっていた。自分は、生きるために誰も殺していないのだから、と。
 あの夜、あの子と再会しなければ、きっと身も心も人からかけ離れ、やがてけだものになっていただろう。いや、とっくにクロエの心は人間ではなくなっていたのかもしれない。
 それを、あの子が救ってくれた。

 ◇ ◇ ◇ ◇

 いつものように深夜の街へ繰り出し、手頃な獲物を見つけて食事をしていた時、見知らぬ魔力を感じた。
 人間の魔術士は、魔物に己の存在を気取られないために魔力を持っていることを巧妙に隠す術を身に付けている。しかし、クロエが今感じている魔力は、隠すどころか己の存在を顕示するかのようにむき出しのままだった。いや、魔力と呼ぶには、崩れかかっているがどこか秩序だってもいた。
 いったいそれがなにかと訝しがったが、それより討伐隊に見つかったということの方が重要だった。討伐隊に見つかって顔を見られでもしたら、厄介なことになる。
 獲物の首筋から顔を上げて見ると、見知らぬ若い男と少女が手に剣を持ってそこにいた。
 深夜の市街地で、剣を携えうろつく人間はたかがしれている。アージェの討伐隊か警備隊、あるいは、滅多にいないが盗賊の類くらいなものだ。しかし、現れた二人は盗賊にはとても見えず、警備隊の制服も着ていなかった。見覚えがないから、討伐隊の誰かでもない。
 《赤地》の魔術士。
 警備隊ばかりを襲う魔物の討伐に苦慮したリソルが、《赤地》に魔術士の派遣を要請したとは聞いていた。その魔術士が魔物を、クロエを退治するためにとうとうやって来たのだ。
 男の方が先に仕掛けてきて、クロエは最近遠ざかって忘れかけていた、『死』を思い出した。《赤地》の魔術士の苛烈さは伝え聞いている。彼らは、魔物を決して逃さない。このままでは退治される。殺される。死んでしまう。
 死にたくなかった。そのためには力がいる。もっと強くなれば、《赤地》の魔術士でも退けられる。男の方はともかく、女の方はまだ幼く、弱そうに見えた。《赤地》の者ならば、魔力を持っている。力を蓄えるのだ。
 クロエは、少女めがけて走った。少女が剣を振り上げる。おびただしい魔力を、それがまとっていると一目で分かった。あれで斬られたら――
 死にたくない。それが口について出る。少女の動きが止まった。きっとまだ、経験の浅い魔術士なのだろう。クロエの見た目に惑わされ、魔物を魔物と断定することができない、未熟な魔術士。
 クロエは、彼女の油断を誘うため、涙を流して見せた。案の定、少女の動きが完全に止まる。その隙を逃さず、クロエは一気に距離を詰めてその細い首をつかんだ。
「レキ!」
 引き寄せてかぶりつこうとした時、男が叫んだ。男は今、この少女をなんと呼んだだろうか。
 クロエはちらりと少女の顔を見た。警備隊の者は制服を着ているから、顔を確認するなどしたこともなかった。
 少女はクロエに首をつかまれ、苦悶の表情を浮かべている。苦しさで目はろくに開いていないから、こちらの顔は見えないだろう。けれど、その顔。
 レキ・イルクゥド。
 昔、妹のように可愛がっていた少女。最後に会った時以来、成長はしていても面影はそのままだった。家を出て《赤地》へ行ったとは聞いていた。まさか、まさかそのレキが、自分を退治するためにアージェに戻ってくるなんて――

 そのレキの血を、自分は吸おうというのか。

 クロエはレキを突き放していた。自分のしようとしていたことが、途端に恐ろしく、おぞましいことに思えた。最初に人を襲った時、いやその時以上に、自分のしていることが信じられなかった。
 あの時と同じように、クロエは逃げた。
 家に逃げ帰り、寝台に潜り込む。自分のこれまでしてきたことをすべて思い出す。それらの記憶はクロエの胸を締め付け、うまく息を吸うことも出すこともできない。人を襲う時、自分はいったい何を考えていた。それも当然の、仕方のないことと考えてはいなかったか。
 許されることではないのに。
 突如吐き気を催し、クロエは洗面所に走った。胃の中のものを、すべて吐き出した。暗闇の中、吐瀉物の中に混じる赤いものを見つけ、更にクロエは吐いていた。胃液しか出なくなっても、クロエの吐き気は収まらなかった。
 自分が吸った、すべての人の血を吐き出してしまいたかった。それでクロエの犯したことが許されるわけではなくても、吐かずにはいられなかった。
(クロエ。なぜ逃げた)
 魔物の声が内から響く。クロエはうつろになった目で、自分の身体を見下ろした。自分は今まで、こんなものの存在を許していた。何故許してしまったのか。自分のその愚かさが忌々しい。
「……出て行け。今すぐ!」
 クロエは強く、きつく言い放った。しかし、魔物から返ってきたのは哄笑だった。
(あの小娘が知り合いだからと、ためらうか。ならば、今までと同じようにあの娘も避ければいい。死にたくないのだろう、クロエ)
 クロエにしか聞こえない哄笑は、クロエの頭の中を埋め尽くす。クロエは洗面所を飛び出すと、少しだけおぼつかない足取りで自室へ向かった。
 部屋に戻ると、隅に置いてある戸棚を開けた。そこには、もはや使うことのなくなったクロエの剣が収めてある。それを左手でつかみ、鞘を払う。
「出ていかないなら、殺してやる!」
 クロエごと刺し貫けば、魔物も果てる。しばらくの間は生きていても、その次に寄生する生き物を見つけられなければ、この魔物は死んでしまうのだ。寄生するには、今の宿主であるクロエと、次の宿主となる生き物の血を接触させなければならない。魔物と共生する中でクロエはそれを知っていた。クロエが死ねば、魔物はもはやどうすることもできない。この場にクロエ以外の生き物はなく、クロエが死んでいるのを誰かが見つけても、そこで誰かが血を流すことなどあり得ないだろう。この魔物は、単体では人を襲うことすらできないのだから。
 切っ先を自分に向けた。もっと早く、こうするべきだったのだ。寄生されたと分かったその時に、自ら命を絶つべきだった。クロエは剣先を自分の首にぐっと突き立てようとした。
 しかし、身体が少しも動かない。
(愚かだな、クロエ。わたしはおまえの身体を操れる。自刃などさせるものか)
 クロエの左手から力が抜け、剣が音をたてて床に落ちた。クロエにしか聞こえない哄笑は、しかし世界中に響いているような気がした。

 ◇ ◇ ◇ ◇

 それからは、クロエの身体を動かす主導権は魔物に握られてしまった。
 翌日討伐隊に現れたレキたちを見ても、自分が昨日の魔物だと言うこともできず、魔物に乗っ取られたクロエはいつも通りに振る舞うしかなかった。レキたちを警戒して、魔物は深夜に外へ出ることはなくなったが、彼らがなかなか帰らないので、苛立ちを募らせていた。
 再び討伐隊を訪れたレキたちが、討伐を諦めて返ると聞いた時、クロエは愕然としたが、魔物は快哉を叫んでいた。
 その日の夜に、魔物はこれまで通り深夜の街へ躍り出たのだ。よほど飢えていたのだろう。クロエもその飢えは感じていたが、これ以上魔物を生き長らえさせることなどしたくはなかった。けれど、身体はまったくクロエの言うことをきかない。千鳥足で歩く男を見つけるや、魔物は襲い掛かっていた。
 駆け付けたレキたちの姿を見た時、クロエはどれ程泣きたかっただろう。ようやく終わりが来る。クロエの過ちを償う時が来たのだ。
 そんなクロエの考えを見抜いていたであろう魔物は、主導権を頑としてクロエに譲ろうとしなかった。クロエは、必死にその隙間に入り込もうとし続けた。ガリルを襲い、レキが今まさに斬りかかろうとしている。今ここで、クロエの意志が魔物に勝れば。
 けれど、魔物の意志は強い。クロエは一向に自分の身体を自分の意志で動かすことができなかった。
 これは、自分が招いた事態なのだ。魔滅士でありながら、魔物の存在を許した自分が招いた罪だ。
 償わなければならない。剣を持つことはできなくなってしまったが、それでもクロエは魔滅士なのだ。 

TOP / / / 目次 / 書庫 / HOME