紅蓮のをつかむ者―11
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 アージェの街に灯る灯がほとんど見えなくなった真夜中。レキとガリルは身動きもせず、一言も言葉を交わすことなく、息を潜めるように暗闇に沈むアージェを見つめ、耳を澄ませていた。
 気を抜くと、眠気が襲ってくる。睡魔と戦いながら、耳をそばだてていた時、かすかに声が聞こえた。話し声などではない。
 悲鳴だった。闇を縫って届いた悲鳴は、すぐに聞こえなくなった。しかし、聞こえてきた方角はおおよそ分かった。声の大きさからして、それほど遠い場所でもないようだ。
「行くぞ」
 すぐさまガリルが立ち上がり、物見台の柵に手をかけた。
「あ、おい!」
 警備隊員が驚いて止める間もなく、ガリルは軽々と柵を跳び越え、闇の中へ身を躍らせた。レキもそれに続いて、物見台から飛び下りる。上がる時ははしごを使ったが、下りる時まで一段一段はしごを下りるのはまだるっこしい。普通の人間が飛び下りれば確実に怪我をする高さであるが、魔術士は魔術でもってその高さを克服する。地面に着くまでのわずかな間に構成を練り、本来体が受けるはずの衝撃を魔術で霧散させるのだ。この手の魔術はさんざん訓練させられたおかげで、レキでもわずかな間に構成を練ることができる。
 先に飛び下りたガリルは地面に着くなり、走り出した。それから一呼吸遅れてレキも着地する。構成を練るのは間に合ったもののうまく衝撃を散らすことができず、少し重い衝撃が足から突き上げてきたが、構うことなくすぐさまガリルの後を追った。
 ちらりと振り返ると、物見台から警備隊員がはしごを使って下りていくのが見えた。
 聞こえた悲鳴は小さく短く、物見台にいた警備隊員が聞こえた方向を正確に把握しているかどうかは分からないが、レキたちの駆けていく方向から、おおよそは見当がついているはずだ。それでも、彼の報告を聞いた他の隊員が出動するまでには、もう少し時間がかかるだろう。
 彼らが現場に到着する前に、できれば決着をつけたかった。ガリルが言う通り、討伐隊の誰かに魔物が寄生しているのであれば、それを警備隊に知られると彼らの中がますます険悪になりかねない。しかしそれ以前に、魔物退治の場に必要以上の人間がいるのは望ましいことではない。その場にいる全員が、魔物を退治できないにしろ自分の身を確実に守れる、ある一定以上の強さを備えているのならば問題はないが、そうでなければ魔物に襲われ、怪我人が増えるだけの可能性があるからだ。
 例の魔物は魔術を巧みに操るから、警備隊員が居合わせればおそらく怪我人が出るだろう。討伐隊と違って、警備隊に魔術士はほぼ皆無なのだ。
 二人分の足音が、夜の道路を叩く。その音は深夜の街に低く響いていた。
 目指す場所には、アージェに着いたその日の夜に見たのと同じ光景が広がっていた。襲われているのが、この間のような警備隊員ではなくどうやら酔客らしいという違いはあるが、その首に食らい付いている魔物の姿はまったく同じだった。
 夜のしじまを破るレキとガリルの登場にも、魔物は驚いた様子を見せなかった。しかし道路にうつぶせに倒した男の襟元から頭をもたげた。レキたちと魔物の間にまだ距離はあるが、襲い掛かる様子も逃げる様子も、魔物は見せない。こちらをうかがうように、荒々しい呼吸をしている。
 夜に溶け込むような黒く長い髪。女物の寝間着。二本の足で立ち、だらりと腕を垂らしている。最初に見た時と同じ、人間とまるで変わらない姿形をしている。
 やはり、魔物に寄生された人間――討伐隊の誰かなのか。
「レキ」
 再びためらいが生まれようとしているレキの胸の内に気が付いたかのように、ガリルが口を開いた。
「今夜、決着を付けるぞ」
 ガリルはレキの返事は待たずに、《氷牙》を抜いた。
 それに続き、ためらいを振り払うようにレキも《紅蓮》を抜く。
 柄が、わずかに熱を持っている。《紅蓮》の刃には、炎が踊っていた。《紅蓮》が熱いのは、ほとばしる魔力をレキが支配しきっていないからだ。未熟であったり、精神状態が不安定だったりすると、《紅蓮》の魔力が熱となって現れる。
 魔物に――彼女に遭遇して以来振り切ることのできないレキの迷いやためらいが、《紅蓮》に如実に表れている。
 余計な考えを捨てて意識を集中させ、レキは《紅蓮》の柄を握り直す。《紅蓮》から熱さが退いていった。
 ガリルが無言で目配せをする。レキは小さく頷いた。
 それから同時に飛び出していく。
 ガリルが右から、レキが左から同時に攻撃を仕掛ける。
 《氷牙》が上から襲い掛かる。
 魔物は後ろへ跳んで逃げようとするが、それに追いすがるようにレキが《紅蓮》を突き出す。
 魔物は身体を後ろにのけ反って、《紅蓮》の切っ先をかわすが、のけ反りすぎて背中から地面に落ちた。
 ガリルはそれを逃すまいと、素早く《氷牙》を逆手に持ち替える。
 魔物を地面に縫いつけようと、渾身の力で突き立てる。
 しかし、魔物は仰向けになったまま頭の横で両手を地面につくと、両足を大きく上に振り上げその反動で後方へ飛び上がって《氷牙》を避け、そして立ち上がった。
 髪が大きくふり乱れ、その顔の一部が露わになる。
 立ち上がった魔物に一撃を加えようと《紅蓮》を構えたレキは、その顔を見て打ち据えられたかのように動きを止めた。
 今自分が目にしているものをすぐには現実として信じられず、なにも言葉が出てこない。
 この魔物に初めて遭遇した夜よりも、もしかしたら強い衝撃を受けている。
 月の下にたたずむ魔物の姿を凝視して、レキはようやく口を開いた。
「クロエ……?」

 ◆ ◆ ◆ ◆

 恐ろしげに歪んだ口。
 その周りにべっとりと付いた赤い血。
 正気とは思えない狂った目つき。
 ひどい形相をしているが、その顔は紛れもなくクロエのものだった。
 レキと同じく魔物の正体に気が付いたガリルの手も、さすがに止まった。
 クロエは歯の隙間からひゅうひゅうと音が聞こえるほど荒々しく呼吸をつづける。その眼が、ぎょろりとレキを見た。
「血……もっと血を……レキ……」
 暗く深い闇の向こうから届く亡者のような声。あれはクロエではないかもしれないというかすかな望みは、その声で砕かれた。どんなにおどろおどろしくとも、それは紛れもなくクロエの声であり、名乗らないのにレキの名を知っていた。レキは、まるでなにかに呪縛されたかのように身体をこわばらせる。
 顔など、見えなければよかったのに。
 そうすれば、すぐにもレキは《紅蓮》を彼女に突き立てていた。ためらいが再び頭をもたげないうちに、決着を付けることができたかもしれないのに。
 退いていったはずの熱が、《紅蓮》に戻ってきていた。
「クロエ……どうして、こんなことを」
「レキ。やめろ」
 ガリルの小さく短い制止の声が届く。ちらりと横目で見ると、険しい顔で首を横に振っている。ガリルが質問するのをやめろと言っているのではないことくらい、分かっている。そもそも声をかけるのをやめろと言いたいのだ。
 魔術士が、退治すべき魔物に声をかけることなどあり得ない。何故人を襲うのか問うのは愚かなこと。訊かずとも答えは分かっている。
 だから、クロエが人を襲う理由――それもまた、訊かなくても分かっているはずだった。
 けれど、レキは訊かずにはいられなかった。
 分かり切っているはずの理由の中にある、釈然としないもの。何故、警備隊員ばかりを、討伐隊員以外の者を襲うのか。ガリルが推測するように、顔を見られたくないからなのか。あるいは、魔物に支配されていても仲間を襲うことだけはできなかったのかもしれない。クロエの中に残った人間らしさが、魔物の行動を制限したのかもしれない。
 寄生されたクロエの中に、レキは彼女の正気を見出そうとしていた。そんなことを確かめたところで、寄生されたクロエを救う術などレキは持たないというのに。
「死にたくない……死にたくない死にたくない死にたくない死にたくないのよぉぉ!」
 悲痛に泣き叫ぶ女の声が、夜のアージェに響く。狂気を宿した目からは涙が流れ、痛みや苦しみや悲しみが入り交じった顔が、レキを見据える。
 レキが望むような答えを、今のクロエからすくい取ることはできなかった。あるのは、魔物としての答えばかり。そして、人としての切なる願い。
 クロエの慟哭に、レキは完全に身も心も捉えられていた。彼女の叫びと表情から、痛いほどに死にたくないという気持ちが伝わってくる。それは、魔物にいままさに襲われている人々が見せるものと、まったく同じだった。耳に貼り付いて、引き剥がすことが難しい、あの身を裂くような叫び。
 助けて。生きていたい。まだ死にたくない。魔物に喰われて死にたくはない――
 正式な魔術士となったのは、ほんの数ヶ月前のことだ。しかしわずかそれだけの間に、レキは多くの人々の悲痛な叫びを聞いてきた。彼らの願いを叶えられたこともある。助けられなかったこともある。
 アージェに向かう途中、オオグログモに襲われた商人たち。
 小さな村で細々と暮らしていた人々。
 不意の襲撃で帰らぬ人となった、かつての仲間。
 誰より強いと信じていた兄――
 シキもまた、最期の瞬間に死にたくないと叫んだのだろうか。
 レキは、クロエにいまはいない兄の姿を重ねていた。それが、ますますクロエに《紅蓮》を向けることをためらわせることになると分かっていても。
 レキの思考を、突如絶叫が支配する。
 いつの間にかガリルが魔術を編み出し、クロエに攻撃していた。クロエの右肩に、透明な塊が突き刺さっている。月の光を受けているそれは、氷塊だと分かった。
「魔物は退治する――それが、俺たち魔術士の責務だ」
 ガリルは、クロエに突き刺さった氷塊と同じくらい冷たい声で、独り言ともレキに向けてとも、あるいはクロエに向けて言っているともつかない言い方をした。
 まっすぐにクロエを睨め付けるガリルの目に、迷いやためらいは浮かんでいない。そもそも、ガリルは最初からためらいなど抱いていない。自分のやるべきことを分かっているのだ。レキと違って、やるべきことなすべきことを承知していて、そのためにどうするのが最善なのか、ガリルは常に即断できる。
 何故、ガリルはそれ程迷わないで突き進めるのだろう。経験だけがそれを可能にさせるとも思えなかった。短いとはいえ、レキも経験を積んでいる。それなのに、迷いを少しでも振り払うことができない。
 それどころかレキはいまだに、いや魔物がクロエだと分かってからは尚更、迷いが生まれていた。それが攻撃することをためらわせる。死にたくないというクロエの悲痛な叫び声が、耳に貼り付いて離れない。
 同じように魔物のせいで肉親を失っていながら、ガリルは何故、迷わない。そして自分は何故、そうなれない。
 ためらっているレキをよそに、ガリルは《氷牙》をクロエに向かって繰り出していく。斬撃の合間に魔術を織り込ませる、容赦のない攻撃だった。いつもよりもいっそう激しく、ガリルは戦っているように見えた。
「レキ!」
 ガリルの怒声が耳朶を打つ。ガリルとクロエは、今は互いに距離を取り、相手の出方をうかがっていた。
 ガリルは《赤地》の中でも指折りの魔術士だ。その彼と、傷を負いながらも対等に渡り合える魔物はそうそういない。クロエの魔滅士としての実力をレキは知らないが、引退せざるを得ない怪我を負った彼女が、魔術まで使いガリルと張り合えるということは、間違いなく寄生されている魔物の影響なのだろう。
 最初の遭遇でレキの首を絞めたのは、重い物がもう持てないのだと言っていた、あの頼りなくなってしまった右手だった。その手には、片手で骨を砕けそうな力があった。
 なにより、魔力を持たないクロエに魔術を使わせている。
 魔力を持たない人間に、魔力は毒にも似た効果をもたらす。魔物の血を浴びすぎた魔滅士が、稀に命を落とすこともあるくらいだ。それなのに、クロエに寄生する魔物はクロエを死に至らせることもなく、そのうえ魔術まで使わせている。もはや、想像を絶する魔物だ。そんな魔物をここで見逃すことなどできない。
 魔術士としての冷静な部分は、この状況をそう判断している。けれど、やはり感情がそれに追い付いてこない。
 ガリルとクロエは今のところ五分五分。クロエが怪我を追っていなければ、ガリルは劣勢に立たされたかもしれない。しかし、レキが加われば形勢は一気に逆転し、片は付くだろう。
「レキ!」
 ガリルの怒声が、再度レキを打つ。しかし、それがまずかった。
 いつまでも動かないレキに業を煮やしたガリルが、レキにちらりと視線を寄越したその隙に、クロエが地を蹴った。
 ガリルが《氷牙》を構える。さしものガリルにも魔術を展開する時間はなかった。ガリルは《氷牙》を右上に振り上げる。
 クロエの右手がガリルの空いた左脇腹を狙う。
 しかし、クロエの爪がガリルに届くよりもわずかに早く、《氷牙》がクロエの左肩を捉えていた。
 左肩から斜めに切り裂かれたクロエが、耳をつんざく悲鳴をあげる。
 クロエはガリルに突っ込んだ勢いのまま、地面に転がった。ガリルが素早く振り返り、それを追う。しかしクロエは転がった勢いを利用して立ち上がると、ガリルに背を向けて再び地を蹴った。
 《氷牙》がすぐ背後に迫っているのに背を向けるなんて――レキはクロエの行動を訝しがるが、すぐにその目的に気付いた。クロエの目指す先には、地に伏せたまま動かない、クロエに襲われた男がいる。
 再び襲うつもりなのだ!
 血を吸うのは、体力を回復するためか生命活動を維持するためなのだろう。ガリルとの戦闘で怪我を負ったクロエは、男の血を吸うことで回復を狙っているのだ。
「させるか!」
 ガリルもクロエの魂胆に気付き、その後を追いかける。
 だが、寄生された魔物のせいで身体能力が恐ろしく高くなっているクロエには、ガリルの俊足も及ばない。ガリルは、その背中に《氷牙》を投擲(とうてき)した。走りながらの投擲は、狙いがうまく定まらずクロエの右腕をかすめるだけだ。
 それでも、クロエの足が一瞬止まる。
 ガリルはその隙に一気に駆けた。
 クロエは倒れている男のすぐそこまで迫っている。
 しかし、ガリルは渾身の力で地を蹴り、クロエに体当たりを喰らわせた。二人は重なって地面に転がる。下になったクロエは、忌々しげな声を上げ、自分の体にのしかかるガリルの左肩にかぶりついた。
 左肩には、アージェに到着した日に受けた傷がある。ふさがり始めた傷口を再び広げられ、ガリルが顔を苦痛にゆがめる。しかし、今のガリルには武器がない。魔術を展開させようにも、クロエに噛みつかれている状態では、いくらガリルとはいえ無理があるだろう。
 魔術を展開するまでにどれ程時間を短縮できても、一瞬の集中力は必要だ。それに血を吸われた今の状態では、一瞬の集中する時間を勝ち取り魔術を展開できても、威力は落ちるだろう。
 魔力は、血に宿っている。そして、魔力の宿った血を体内に取り込めば、そこに宿る魔力も己のものとすることができる。ガリルの血を吸ったクロエは、更に強い魔術を使えるだろう。そうなってしまえば、レキの魔術ではきっと対抗できない。ガリルでも、難しいかもしれない。
 とるべき方法は、結局ひとつしかないのだ。
 レキは悲鳴のような雄叫びをあげ、走っていた。

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