紅蓮のをつかむ者―07
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 ガリルの傷も深くはなかった。かすっただけで、本人曰く《氷牙》を振るう分にも問題はないらしい。
 襲われた警備隊員を近くの警備隊の詰め所に送り届けた後、レキたちは宿屋へ戻った。血をにじませて戻ってきたガリルを見て、夜中だというのに帳場にいた従業員は驚いた顔をしていたが、ことを荒立てたくないと言って小銭を掴ませると、余計な詮索もせず、それどころか部屋まで薬箱を持ってきてくれた。
「とりあえず、今日はもう休もう」
 大したことはないと本人は言っているが、まだ傷が痛むのだろう。レキに手伝われて治療を終えたガリルは、疲れた様子で寝台に横たわった。
 空がわずかに闇色を遠ざけはじめている頃合いだ。夜明けが近い。早急な解決を図るためとはいえ、長旅の直後にどうやらほとんど徹夜で街中を歩き回っていたらしい。怪我をしていなくても、疲れていることに違いはない。燭台の火を吹き消して、レキも寝台に潜り込んだ。
 しかし、疲れているというのに、レキはすぐには寝付けなかった。締め付けられた喉がいまだに痛むせいもあるが、あの魔物の姿が頭に焼き付いて離れない。
 女の姿で右手に守環をはめていた魔物。人の血を吸い、人間離れした身体能力をまざまざと見せつけていながら、悲しげな声で言葉を紡ぎ、涙を流していた。あんな魔物をレキは見たことがない。そもそも魔物と言い切っていいのかどうか、レキには分からなくなっていた。
 白い手首で揺れていた腕輪を思い出す。リトラではほとんど誰でもはめている守環。しかし、そんなものをはめている魔物を、レキは見たことがない。あれは、人の親が我が子に贈るものだ。魔物が持っているはずがない。だとすればあの魔物は――
 魔物は、人間の中に魔力を持つ者と持たない者がいるように、動物の中にも魔力を持つものと持たないものがいて、持つもの同士で子孫を残す方が生存競争に勝つためには有利だと気付き、魔力を持たない同族と道を分かち、血を重ねて来たと言われている。つまり、魔物は元をたどれば普通の動物たちなのだ。今では同族とはかけ離れた姿をしているために違う種族も同然であるが、人間の姿をしているはずがない。
 それではあの魔物――彼女はなんなのだろうか。魔物のように人を襲い、血を吸いながらも殺さないのは、人間だから? 守環は、彼女が人間であることの証なのだろうか。
 もしそうだとしたら、どうすればいい。
 魔物は退治しなければならない。魔物が人を襲っているのなら尚更である。それが、人々とその暮らしを守るためだからだ。
 しかし、彼女の場合はどうすればいい。魔物のようでありながら、人のようでもある彼女の場合は。
 彼女が人を襲う原因を突き止めれば、助けられるのだろうか――
 寝台の中で一人問答を続けても答えが出ないまま、レキはいつの間にか眠りに落ちていた。

 ◆ ◆ ◆ ◆

 起きて鏡を見てから気が付いたのだが、昨夜締め付けられた跡が生々しく首に残っていた。手当をするほどのことではないのか、ガリルは特に何も言わなかったが、レキは少ない荷物の中から首が隠せるような襟の高い服を引っ張り出して、それを着込んだ。今の時季には首周りが少々暑いが、隠すためには我慢するしかない。ガリルの手を借りることもなく自分で傷の処置をするのは久しぶりであるが、傷と言うほどのものでもないので、なんだか小さな自己満足を得るためだけにしたことのようにも思えて、軽く落ち込んでしまいそうになる。
 しかしそんなくだらないことにいちいち落ち込んでいる暇もなく、宿屋の食堂で少し遅い朝食をとった後、ガリルと共に宿を出た。
 明け方近くまで巡回したとはいえ、休んでいる暇さえない。魔物の活動時間は主に夜であるが、魔術士は昼間も活動する。魔物に関する情報を集めるのだ。
 アージェ周辺の魔物にいちばん詳しいのは、アージェの討伐隊だ。そして彼らは、《赤地》に魔物討伐の要請をした依頼者でもある。レキの案内で、ガリルと共に討伐隊の本部を目指した。
「ガリルさん」
 討伐隊へ行く道すがら、レキは隣を歩くガリルの顔を見上げた。
「昨夜の魔物……あれは、本当に魔物なんでしょうか」
 あの魔物――あるいは彼女――の「死にたくない」という叫びはガリルにも聞こえていたはずだ。しかし、レキのような疑問を、ガリルは抱いていないのかもしれなかった。レキの問い掛けに、ガリルは怪訝そうな視線を投げて寄越したが、同意も反論もすることなく、すぐに正面に顔を向けた。
「わたしには、まるで人間のように見えました」
 だからこそ、襲われたあの時、反撃することをためらってしまったのだ。それが良かったのか悪かったのか、レキには分からない。
「あれは魔物だ」
 ガリルは、レキの迷いなど一蹴するような明瞭な声で断言した。行く先を見たままのガリルの目には、いかなる迷いも疑いも浮かんでいない。
「人間離れした身体能力――あれだけ見ても、魔物であることに疑いはない」
「……言葉を話したんです。『死にたくない』と。涙を流しながら、わたしに向かって、確かにそう言いました」
 ガリルは微塵(みじん)の疑いもなく魔物と断定しているが、レキは彼女が人間ではないかという疑いが捨てられなかった。言葉を話し涙を流す姿が、人にしか見えなかったから。それに――
「それに、右手に守環をはめていたんです」
 あれを見なければ、言葉を話し涙を流しても、魔物とはいえ、そういうものもいるのだと割り切ることができたかもしれない。けれど、守環は人だけが持つものだ。
「それなら、あれは人に寄生する魔物だろう」
 ガリルの口からは、するりと答えが出てくる。
「寄生? そんなことをする魔物がいるんですか?」
 見習い時代に、リトラの魔物について一通りの知識を教授されたが、人に寄生する魔物がいるとは初耳である。
「数は少ないし、確認された例も少ないが、人に寄生する魔物は確かにいる。もっとも、人以外の生き物にも寄生するらしいが、たまたま今回は人に寄生したんだろう」
 ガリルの声は淡々としていた。昨夜、反撃を受けて怪我を負いながらも、冷静に相手がどんな魔物なのかを見極めようとしていたのだろう。そうして彼の出した結論が、いまの言葉である。
 レキは、いつもの魔物退治と同じように淡々と構えているガリルに、冷酷とも言える冷たさを感じていた。ガリルの言う通りであれば、レキが疑っていたように、昨夜の彼女は紛れもない人間なのだ。ただ魔物に寄生されているだけで、彼女もまた被害者の一人だ。
 それなのに、ガリルの言葉と口調には、彼女への配慮は感じられない。オオグログモに襲われた時点で助からなかったと、ある意味では見捨ててしまっているガリルの考え方は、昨夜の魔物を見ても変わりはしないらしい。寄生された時点で、ガリルは彼女は助けられないと決めてしまっているのだろうか。
「もし人に寄生した魔物だとすれば、どうするんですか」
 それを確かめるような質問を、ガリルに向ける。
「退治する。それが、魔術士だ」
 ガリルは即答した。予想通りのガリルの答えに、レキは足を止めた。
 予想はしていたが、もっとほかの答えをガリルには期待していたのだ。ガリルの方が、レキよりも魔物にも退治の仕方にも詳しい。だからこそ、昨夜の彼女が人間で魔物に寄生されているのであれば、寄生する魔物の対処法を知っていると期待していた。寄生された人と魔物を切り離し、彼女を救うような方法を。
「どうした」
 数歩進んだところで、レキが立ち止まったことに気付いたガリルも立ち止まって振り返る。人が流れる往来の中、立ち止まった二人を避けるように通行人が脇を通り過ぎていく。
「ほかの方法は、ないんですか」
 レキには人に寄生する魔物に関する知識がなにもない。頼りとなるのはガリルだけだ。しかし、そのガリルから、退治するしかないという答えを聞いても納得はできなかった。納得のできないレキは、ガリルの言うような魔術士とはいえないのかもしれない。それでも、納得はできない。魔物を退治するのが魔術士ならば、魔物から人々を守るのもまた、魔術士であるはずだ。
「あったら、その方法をとっている。だがな、レキ。そんな方法はないんだ」
 ガリルはきびすを返し、レキの目の前まで引き返してきた。
「でも、寄生した魔物を倒すために、彼女が犠牲になってしまうんですよ。そんなの」
 立ち止まる二人を人々は避けてと歩いていくが、通り過ぎる時に会話を聞かれないとは限らない。レキは大声を出すことはなく、しかし咎めるように言った。
「納得できない、か?」
 レキの言葉を遮り、レキが言おうとしていたことをガリルが口にする。ガリルの眉間には、わずかにしわが寄っていた。
「レキ。魔術士でも、どうしても助けられない人はいる。おまえはまだ経験が浅いから納得できないかもしれないが、どうしようもないことはあるんだ」
 ガリルは、その緑色の双眸にいつも険しい光を宿している。その光が、この時少しだけかげったように見えた。そんな目をされたら、それ以上反論できないではないか。レキはガリルの視線から逃げるように、ふいっと顔を背けた。レキのその行動を、納得したと取ったのかどうかは分からないが、ガリルは行くぞと呟き、レキに背を向け歩き出した。
 少し遅れて、その背中を追いかける。けれどレキは、まだ納得はしていない。

 だってガリルの言葉は、まるで助けられないことの言い訳だ。

 アージェに向かう馬車の中で、乗客全員を守りきる自信がないと思った。自信がないのは正式な魔術士になったばかりだからと、レキは自分に言い訳していた。それと同じではないか。
 どうしようもないことなんてないはずだ。レキが強くなれば、馬車の乗客だけでなくもっとたくさんの人を守れるようになるように、きっと魔物に寄生されている彼女を助けることができるはずだ。

 ◆ ◆ ◆ ◆

 アージェの討伐隊は、中心部よりやや西側の一角にその本拠地を構えていた。建物自体は二階建てであるが、屋上には周辺の建物よりも背の高い塔が、生えるように建っている。
 その最上部には討伐隊員らしき男が一人いた。魔物がいないかどうか見張っているのである。昼日中から街中で活動する魔物はさすがにいないだろうが、警戒するに越したことはない。それに、討伐隊が常に見張り台にいて警戒をしているという事実は、それだけで住民に安心感を与えるのだ。討伐隊のある街であれば、どこでも見られる光景である。
 建物への入り口は両開きの扉になっている。一度に大勢が出入りできるようにだろう。ガリルが先に立ち、扉の片方だけを開けた。
 玄関部分は吹き抜けになっており、正面と左側にいくつかの扉が、そして右側には受付が設けられていた。
「どういったご用件ですか?」
 いまは防具は身につけていないが、剣は携帯している。受付の奥の小部屋から現れた若い女性は、やや訝しげな視線をレキたちに向けた。
 夜明け直前の空を思わせる黒髪はおろしてあり、胸に届くほど長い。魔滅士であれば、たいていは女性も男性も髪は邪魔にならないように束ねるか短くするかしている。とすれば、彼女は魔滅士ではないのだろう。
「レキ?」
 自分たちが何者であるかガリルが言おうとする前に、彼女は心底驚いた表情で見開いた目でレキを見ていた。彼女の驚きに満ちた表情に気が付いたレキは、時季はずれの襟の高い服装に驚いているのだろうかと思ったが、まさか服装だけでそんなに驚いたりはしないだろうと、すぐに否定する。
 なにせアージェはレキが生まれ育った街。どこかでばったり知り合いに再会してもおかしくはない。
 歳はガリルよりいくつか上だろう。そうすると、レキと十歳ほど違うことになる。そんなに歳の離れた知人は、《赤地》の魔術士たちをのぞいて、そんなに多くはない。
 最初は誰なのか分からなかった。しかし、片隅に辛うじて記憶が残っているのか、レキが知っている誰かであることは分かった。ただ、それが誰なのか思い出せない。
「あなた、レキよね? わたしのこと覚えていない? クロエ・ワトゥアよ」
 と、受付の台に両手をついて身を乗り出す。その名前には、覚えがあった。いや、名前を聞いて思い出したのだ。
「クロエ!」
 昔、近所に住んでいて、レキの遊び相手をよくしてくれたのがクロエだった。兄もレキの遊び相手はしてくれたが、兄はレキが物心ついた頃には《赤地》の魔術士になっていてアージェにはいなかった。たまにしか会うことのできなかった兄より、クロエの方がよく遊び相手をしてくれたものだ。
 しかし、クロエはレキの兄が死ぬ少し前に、アージェの中心部の方へ引っ越した。それ以来、ほとんど会うこともないままレキがアージェを出て行ったので、クロエと会うのは本当に久しぶりだった。最後に会ってから何年も経つし、その頃のクロエはもっと髪が短かった。雰囲気がすっかり変わっていて、分からなかったのだ。
「知り合いか、レキ」
 クロエとの思いもかけない再会に顔を輝かせるレキに、ガリルが取り残されてしまっている声で尋ねた。
「そうなんです、ガリルさん。彼女はクロエ・ワトゥア。昔、ご近所さんだった人なんです」
 レキはガリルにクロエを紹介し、同じようにガリルをクロエに紹介する。
「この人は、ガリル・カウムさん。《赤地》の先輩兼師匠兼相方なんだ」
 ガリルを紹介する時は、その肩書きが長くなる。いつそれが『相方』の一つだけになるだろうかと思いつつも、いまは些末なこととしてあっという間に頭の隅へ追いやってしまう。
「レキ……あなた、《赤地》の魔術士になったの?」
 そういえば、まだ自分たちが何の用でここへやって来たのかクロエには言っていなかった。レキが《赤地》の魔術士であることを知ったクロエは、先程見せたのと同じくらい驚いた顔で、レキとガリルを交互に見る。
 ガリルはたとえ防具を付けていなくても、鍛えられた頑健な体つきをしているから、剣を持って身分を明かせば誰もが納得する。しかしその相方であるレキは、同年代の少女と比べれば鍛えられてがっしりとした体格をしているものの、ガリルの隣りに並べば途端に貧弱で頼りなく見える。凶暴な魔物に立ち向かう強靱な肉体を持った者、というのが一般的な《赤地》の魔術士の想像図らしく、それを裏切る外見のレキを見ると、たいていは疑わしい目で見られる。大丈夫かこいつ、とあからさまな目で見る者もたまにいる。レキが《赤地》ではなく普通の討伐隊の魔術士であれば、見た目だけで侮られることはないだろう。もっとも、見た目を裏切るほど凄まじい強さを秘めている、というわけではないので、レキはそんな他人の評価を今のところは甘んじて受け入れていた。見た目でレキを侮るのが人ではなく魔物であれば、退治が少しは楽になるだろうに。
「――シキの仇を取るため?」
 クロエはいままでとは打って変わり、静かで遠慮がちな声で訊いた。シキ、という名前にレキは言うまでもなく、ガリルの表情もわずかに動く。
 シキ・イルクゥド。五年前に死んだ、レキの兄。シキが死んだのはクロエが引っ越した後であるが、噂で聞いて知ったのだろう。
 五年前はだだをこねたが、いまではシキの死を受け入れているつもりだ。《赤地》へ入り魔物と戦うようになってからは、遺体がなくとも死んだに違いないと、納得せざるを得なくなった。しかしそれでも、空の墓と変わり果てた兄のことを思い出すと、少しだけ胸がうずく。
 レキはクロエの問いには曖昧に頷くだけで、はっきりと返事をするのを避けた。《赤地》へ入隊するきっかけは確かにシキの死だったけれど、仇を取りたいという言い方には、少し違和感を感じる。兄を魔物に奪われたのは悲しかったし、悔しかった。強かった兄が敵わないほどの魔物がいることに、驚きもした。けれど、魔物への憎しみは、レキの中には明確には存在していないように思えてならないのだ。
 憎くないわけではないけれど、魔物への憎しみだけで魔術士を続けることは、きっとレキにはできない。魔物に対して憐れみがあるわけでもない。ただ、兄のように誰かを失うことがいやなのだ。しかし容易にはそれが叶わないのがリトラだ。誰かを失うたび、憎しみと怒りに支配されて魔物を斬り続けていては、やがて自分が自分ではなくなりそうな気がして怖かった。
 そしてなにより、負の感情ばかり抱いていては、《紅蓮》を支配することはできない。魔力の制御には、冷静さが必要となるのだ。
「悪いが、思い出話はあとにしてくれないか。俺たちは、アージェ討伐隊の要請を受けて魔物討伐に来たんだ」
 それ以上のレキとクロエの会話を遮るように、ガリルが言った。
 ガリルはシキのことを尊敬している、と彼の友人から聞いたことがある。それだけに、シキが死んだと知った時、ガリルはひどく落ち込んだらしい。シキのことに触れられたくないのは、ガリルも同じなのだろう。しかしガリルの場合、魔物退治には異常なほど熱心だから、仕事と自分の感情を切り離して仕事を進めることくらいはするかもしれなかった。
「そうね。ごめんなさい」
 クロエは素直に謝ると、担当者を呼んでくるから待っていてくれと、二人を応接室のような小さな部屋に案内した。

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