紅蓮のをつかむ者―06
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 リトラは、ツェトラ島という島からなる国だ。ツェトラ島東部の東端、西北部の北端、西南部の南端を、線でつなぐと二等辺三角形に近い形になるが、島自体はそれほど大きくはない。
 アージェは、そんなリトラに張り巡らされた主要な街道のうち、ツェトラ島の東端に始まり王都まで続く街道沿いに発達した街だ。アージェのあるツェトラ島東部は、よその地域に比べれば魔物が少ない。そのためアージェでは討伐隊は公立のものしかない。アージェと同規模の、他地域の都市であれば少なくとも三つは討伐隊が必要とされるだろうが、それだけアージェ周辺の魔物は少ないということだ。
 そのせいか、アージェ市民の危機意識はよそに比べると、いささか低い。深夜に出歩くなど、《赤地》の本拠地があるリジュネイでは考えられないことである。護符があっても魔物に襲われることがあるのと同じで、壁に囲まれていても安全とは言い切れない。魔物は隙間をぬって、市内であろうと現れるのだ。
 レキとガリルは、遅い眠りについた飲屋街近くを泥酔してふらふらと歩いていた中年の男を見つけ、アージェの警備隊の詰め所に連れて行ったのだが、巡回を始めて深夜になるまでに、そんな酔客をあと二人、詰め所まで送り届けている。
「魔物にやられる前に追い剥ぎにあうぞ、あれじゃ」
 三人目の酔客を警備隊の詰め所に連れて行ったあと、ガリルがあきれ果てた顔で溜息をついた。
「でも、いつかどの街でもこれくらい、みんなが安心できるようになればいいですよね」
 しかし、レキも魔物に対する警戒心の低い街で生まれ育っただけに、市民の気持ちはよく分かる。魔術士となってほかの街の状況を知ってからは、アージェがどれだけ安心して生きていける町であるか思い知った。魔物を恐れ、昼間でさえ出歩くことを控えていた町や、ほとんどの住人が逃げ出してしまった村も見たことがあるのだ。
 いつでも誰でも安全に好きな時に、魔物に怯えることなく出歩けるような暮らしにすることが、突き詰めれば魔術士たちの願いであり目的だとレキは考えている。アージェの人々と同じように、ほかの街の人々も暮らせるようになれたら――
「安心しきるのもどうかと思うがな」
「まあ、そうですけど……」
 ガリルの一言に水を差された気はするが、警戒心がなさ過ぎるのも問題ではあるだろう。だがそれを問題とするのは、魔物の脅威がなくなった後だ。
 詰め所を後にし、すっかり人通りの絶えた街の巡回を再開する。
 深夜の街中を動くのは、討伐隊と街の治安を守る警備隊くらいである。昼間、隊商を襲ったオオグログモのように昼行性の魔物もいるが、多くの魔物は夜行性で、特に凶暴な魔物のほとんどがそうである。だから人々は夜、家の戸締まりを厳重にして眠り、討伐隊は魔物を警戒する。警備隊は、深夜はほとんど人がいないのをいいことに悪事を企む不届き者を警戒する。不届き者が、魔物に襲われて翌朝無惨な姿で見つかることもあるが。
 深夜、魔物に襲われる確率が圧倒的に高いのは、討伐隊と警備隊の人々だった。相手こそ違えど、日頃訓練を積み重ねている彼らを屠(ほふ)る魔物は手強い。討伐隊の手に負えない魔物となると尚更であるが、今回の任務はいつもの魔物退治とは趣が違っている。
 《赤地》に要請が来る頃には、既に死者が――十名以上はざらに――出ているものだが、今回は違うのだ。
 まだ死者は一人も出ていないのである。普通ならば、死者も出ていないのに《赤地》が魔術士を派遣することはない。もっと差し迫った状況の救済を求める要請が、ひっきりなしに来るからである。
 それでもレキたちが派遣されたのは、アージェに出没する魔物が尋常ではないからだ。
 強さの問題ではない。被害の出方が、明らかにおかしいのである。
 その魔物に襲われている被害者は確かにいるが、その誰もが今でも生きている。魔物に襲われた者が必ず死ぬわけではないのだが、襲われた者の話では、魔物は敢えて殺そうとはしないのだという。
 常識的に考えれば、それだけであり得ない話である。魔物が人を襲うのは、喰らうためである。それなのに、魔物は襲い掛かってはくるものの喰らうことはなく、むしろそれを避けるように、死には至らない程度の量の血を吸うだけで逃げていくのだという。
 更に奇妙なことに、襲われているのは警備隊の者だけという。その魔物が出没するのは深夜で、その時間帯に出歩いているのは討伐隊と警備隊、それにレキたちが保護したような酔客くらいで、昼間に比べればずっと数は少ない。
 血を吸う魔物がアージェに現れたのは、およそ二ヶ月前。その間に襲われた被害者は十二人。そのうち一人は討伐隊員、二人は酔客で、残りの九人が警備隊員である。襲われた者のほとんどは警備隊員というのは、偶然と見るにはいささか数が多かった。
 その魔物に最初に襲われたのが被害者の中で唯一の討伐隊員だったから、討伐隊はこの魔物の退治に当然ながら乗り出したが、最初の襲撃以来、被害は出ているのに討伐隊がその魔物の姿を見ることはなかった。魔物は、まるで討伐隊を避けるように彼らの前には姿を現さず、警備隊や酔客が襲われる状況が続いたのである。倒そうにも自分たちの前には現れない魔物に業を煮やし、討伐隊は《赤地》に助けを求めてきた。
 魔物は、魔術士だろうが警備隊員であろうが商人であろうが、獲物になると判断すれば職業に関係なく襲い掛かる。出没する時間帯に出歩く人間は限られているが、その限定された中で警備隊員ばかりが襲われるという奇妙な状況を、レキはおろか、ガリルでさえ聞いたことはないと言っていた。
「例の魔物、今夜現れるでしょうか」
 魔物が出没し始めた時期と被害者の数から平均すると、五日に一度被害が出ている計算になるが、さすがに毎日現れているわけではないだろう。被害者の数と、出没した回数は必ずしも同じではない。あるいは毎日現れているが、絶好の機会を狙っているために被害者の数が十二人に収まっているだけかもしれない。それに、広い市内の中でも今日は中心部近くを巡回しているが、二人が見回っている場所周辺に魔物が現れるとは限らない。
「さあな。見つかるまで歩き回るしかないだろう」
 ガリルは一瞬も気を抜かない表情で、夜の闇に目を凝らし続けている。
「わたしたちの前に、現れるんでしょうか」
 討伐隊を避けるようにして出没する魔物だから、レキたちの前にその姿を現すかどうか怪しいところである。討伐隊員はレキたちと似たような格好であるが、警備隊は制服を着込んでいる。恐らくそれを見分けることのできる魔物が、レキたちもアージェの討伐隊員だと見なして避ける可能性もあるのだ。
「格好で見分けているなら、難しいかもしれない。警備隊の服を借りれば良かったかもな」
 ガリルもレキと同じ可能性に気が付いているらしい。しかし今日の夕方アージェに到着したばかりでは、そんな時間はなかった。

 ◆ ◆ ◆ ◆

 巡回を続ける間、警備隊や討伐隊の者とすれ違うことはあったものの、例の魔物どころかそれ以外の魔物にさえ遭遇することもないまま、今夜は徒労に終わるのかと思い始めた頃――
 レキの耳に、確かに悲鳴が聞こえた。それに続く、高い笛の音。警備隊が、異変を知らせるために常備している警笛の音だ。異変時は長く吹き続ける決まりだが、警笛は一呼吸する間もなく不自然に途絶えてしまった。
「行くぞ!」
 言うが早い、ガリルは音の聞こえた方へ駆け出していた。レキもその後を追うが、ほとんど全力疾走しているガリルとは離されるばかりである。昼間も同じことがあったことを思い出し、レキは速く走る訓練もしようと今は関係ないことを考える。
 いくつか角を曲がり、見失いそうになるガリルの背中を必死に追いかける。先を行っていたガリルが、《氷牙》を抜くのが見えた。闇の中に浮かび上がる白い剣。それを手にたずさえ、ガリルが更に疾駆する。
 現場はアージェにいくつかある商店街の一角。レキたちが夕食をとった界隈とはまた違う、中心部よりの通りだった。昼間露店が多く並ぶこの通りの道幅は広く、店がたたまれている夜はがらんとしていた。
 その通りの真ん中あたりで、人がひとり倒れている。それに覆い被さるようにして見える黒い陰が、魔物に違いない。大きさは、人間の大人と同じくらい。レキと魔物の距離はまだある上に、夜だからその姿ははっきりとは分からないが、倒れた人物の首あたりにかぶりついているように見えた。
 レキも《紅蓮》を抜く。
 《氷牙》と《紅蓮》の放つ魔力の気が付いたのか、それとも単に第三者の乱入に気が付いたのか、魔物は頭をもたげた。
 ガリルがそれを待っていたかのように、《氷牙》を凪ぐ。《氷牙》から、不可視の刃を放ったのだ。呪文を唱えるなどの予備動作は一切ない。
 魔物は頭をかばうようにして、顔の前で前足を交差させた。その瞬間、魔物の前面を覆うようにして魔力でできた障壁ができあがる。
(魔物のくせに!)
 まるで魔術士が作り出すような、魔力で編み上げられた障壁の出現にレキは愕然とする。
 魔物は魔力を持つが、魔術士が使うような高度に秩序だった魔術を使うことはない。本能で魔力を操るため、魔物の使う魔術の構成は単純なのが普通だ。
 だが、例外もいる。自己防衛のために、極端に高度な魔術を操る魔物もいることはいるのだ。そして、高度な魔術を操る魔物を退治するのは簡単ではない。自己防衛の魔術をひたすら高度化して生き延びてきているから、その守りはとんでもなく固いのだ。
 ガリルの放った刃は魔物が作った障壁にぶつかり、霧散した。それに続いて障壁も消えていく。しかし、もう魔物の姿はそこにはなく、高く宙に跳び上がっていた。長身のガリルが跳んでも決して届かないほどの高さだ。
 だが、宙であれば身動きをとることはできない。ガリルは今度は両手で《氷牙》の柄を握る。先程よりも大きく凪いで、放つ刃の威力を上げる。頭上の魔物めがけ、ガリルが《氷牙》を振り切ろうとした瞬間、上空の魔物は前足をガリルに向かって突き出し、そこから青白く細長い光を放った。
「ばかな」
 ガリルの驚く声。レキは声すら出すことも忘れ、魔物を見上げていた。青白い光が魔術として高度な構成を持っているのが見て取れる。
 あの魔物は、例外中の例外といっていいほど、魔術に長けていた。
 魔物が放った青白い光はまるで矢のように、ガリルに降り注ぐ。《氷牙》を凪ごうとしていたガリルは、横に飛び退いて直撃を避けようとしたが、一筋がガリルの左肩を貫いた。
「ガリルさん!」
 体勢が崩れ片膝をついたガリルの顔が、痛みでゆがむ。
 魔物は、ガリルとレキの中間あたりに着地した。ガリルに背を向けた魔物と、レキは真正面から対峙する。
「そんな……」
 この魔物は、いったいどこまで常識の範疇を飛び出すつもりなのだろう。いや例外にさえも、あてはめることができないそうにない。
 驚愕につぐ驚愕で、レキは《紅蓮》を構えることも忘れて魔物を見ていた。

 ◆ ◆ ◆ ◆

 白く穏やかな月光の下に立つ魔物は、そのどこをとっても異様の一言に尽きた。
 人と同じくらいの大きさだと思っていた。けれど、二本足で大地を踏みしめる魔物の姿は、人そのものだった。前足だと思っていたのは腕だった。
 女だと思わせる、丸みを帯びた体付き。やや前傾している背中の真ん中程まで伸びた長い髪は乱れており、やはり長い前髪に隠れ、その顔は見えない。だが前髪の隙間からのぞく目は、正気とは思えない、ぎらぎらとした異様な光を宿していた。さっき襲った警備隊員の血なのだろう。口の周りについたそれは、白い月明かりに照らされて、よりいっそう魔物を不気味に見せていた。
 いや、魔物なのだろうか。
 薄い色の寝間着を着て、裸足で立つ姿は間違いなく人間の女性である。人を襲わず、尋常の人間では考えられないほどの跳躍力を見せつけなければ、寝惚けて徘徊している人に見えないこともない。顔がはっきり見えないので断定はできないが、歳はガリルと同じくらいだろうか。高度な魔術を使うことはひとまず脇に置いておくにしても、人とほとんど同じ姿をした魔物を、レキは見たこともなければ聞いたこともなかった。
 魔物の口が、細い三日月のようにゆがむ。闇夜に浮かぶ月よりもずっと細く開いた口。笑ったのだ。血に彩られた凄惨なその笑みに、全身が粟立つ。
 レキは思い出したように《紅蓮》を構えた。
 柄が熱い。魔物が地を蹴る。レキとの距離は一気に縮まる。レキは《紅蓮》を振り上げた。あれは魔物だ。人の姿に見えても、魔物に違いない。あの笑みも動きも、人のそれとはかけ離れている。
 眼前に迫る魔物めがけ、レキは《紅蓮》を振り下ろした。
「……たくない」
 振り切る寸前、悲痛とも言えるような声が耳朶を打つ。レキは凍り付いたように、動きを止めた。目の前に迫る魔物の顔から先程のゆがんだ笑みは消え失せ、悲しさが漂っている。頬を伝うしずくは、もしや涙なのだろうか。
「死にたくないぃ!」
 魔物の口から、はっきりとその言葉がこぼれていた。前髪の間からのぞく目には正気が宿り、涙で潤んでいた。哀しげな目が、すぐそこに迫っていた。同時に、白い手がレキを目指して伸びてくる。自分に迫り来る手を見て、レキは今度こそ言葉を失った。
(守環……!?)
 白い右の手首には、腕輪がはまっていた。
 リトラでは、女ならば右手に、男ならば左手に、守環をはめる。白い右手には、レキの右手にあるのと同じような腕輪がはめられていたのだ。
 魔物ではなく、女の人なのだろうか――
 迷いが生じた瞬間、乱れた前髪に覆われた表情は一変していた。正気とは思えないあのゆがんだ笑みが浮かんでいる。
 しまった、と思ったときにはもう遅かった。白い手がレキの首を鷲づかみする。信じられないほど強い力で掴まれ、息を吸うことも声を出すこともできない。指が喉にめり込み、乱暴に引き寄せられた。
 やられる。
 駆け抜けるように、不吉な想像が脳裏をよぎる。
「レキ!」
 ガリルの切羽詰まった叫び声。ガリルがそんな声を上げるのは珍しい、などと場違いなことを考えてしまう。呼吸ができず血管を圧迫され、意識が急速に遠退いていくのが自覚できた。そのせいで制御が上手くいかず、《紅蓮》の熱を抑えられない。柄が熱い。そうだ、《紅蓮》がある。レキは遠くへ去っていこうとする意識を必死に引き留め、《紅蓮》の柄をぐっと握った。
 魔物はレキとこれ以上にないくらいに密着している。魔術など使わなくても、《紅蓮》で一突きすればいい。
 一突き。
 自分の首を締め付ける女の姿をした魔物は、本当に魔物なのだろうか。言葉を話し、涙を流し、そして右手には守環をはめている。
 レキが朦朧(もうろう)とする意識の中で一瞬の間に考えを巡らせていると、唐突にレキの首を締め付けていた手が離れた。しかも突き放すようにして離されたので、とっさのことに足がついていかず、レキは後ろへよろめいてしまった。
 レキよりも先に、ガリルが攻撃したのか。ならばとどめを。でも、それでいいのか。
 迷いを振り払えないまま、レキは体勢を立て直す。しかし、魔物の姿は目の前から消えていた。姿を求めて頭を巡らすと、レキのすぐ後ろに着地した魔物を見つけた。魔物は脱兎のごとく駆け出して近くの建物のそばまで来ると、強く地面を蹴り上げて飛び上がった。そのまま屋根に着地すると、屋根から屋根に飛び移って姿を眩ませてしまった。一瞬の出来事である。
「レキ。大丈夫か」
 ガリルが駆け寄ってくる。レキは喉元を押さえ数回咳き込んだが、それだけでなんとか無事である。それよりも、ガリルの方が重傷のはずだ。左肩には血がにじみ、腕を伝って流れている。
「わたしは大丈夫です。それより、ガリルさんの方が」
「俺はいい。俺よりも、あいつを」
 レキの言葉を途中で遮ったガリルは右手で傷口を押さえ、視線を後方に転じる。ガリルに倣って彼が顔を向けた方を見ると、道の真ん中で横たわったままの警備隊員を見つけた。襲われた警備隊員だ。レキは一度ガリルを見たが、早く行けと急かされたので、警備隊員の元へ駆け付ける。
 警備隊員の首からは、血が流れていたが出血はそれほどひどくない。意識を失っているのは、倒れたときに頭を打ったせいだろう。幸いなことに傷口は浅く、命に別状はなさそうだった。

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