紅蓮のをつかむ者―05
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 アージェに到着したのは、オオグログモを撃退した翌日の夕方だった。アージェは乗合馬車が当初目指していた場所で、何事もなければ昨日の同じ頃に着いていたはずだった。
 傾いた太陽の光が、西側の壁を赤く染め上げている。
(まるで今のアージェを象徴しているみたいだ……)
 壁を見上げるレキの目に、その色は血の色に見えた。
 アージェはレキの故郷だが、レキがアージェに戻ってきたのは三年ぶりである。久しぶりに故郷を目にして、懐かしいと思うよりも先に故郷がそんな風に見えてしまったのが悲しかった。空やアージェを取り巻く壁を染める赤い色は、魔術士となったレキにはどうしても血の色に見えるのだ。どれだけの魔物を倒せば、再び夕焼けやそれに染まる町並みをきれいだと思える日が来るのだろう。
 壁に遮られて町の中が見えないように、レキにはまだその日が見えなかった。
 リトラでは、たいていの街は複数の壁で囲まれている。アージェも例外ではない。
 街の中心部周辺に広がる居住区を囲む一の壁は分厚く、高さもある。その一の壁は更に二の壁に囲まれていて、一の壁と二の壁の間には畑が広がっている。畑は必要に応じて広げることがあるから、二の壁は一の壁に比べれば厚みも高さもない。崩したり新たに築いたりして、二の壁はだいたいいびつな形で一の壁を囲っている。もっと人口の多い街になると、二の壁を囲む三の壁、あるいは四の壁まであるのだ。そしてだいたい、外の壁ほどもろくいびつな形をしていて、ひどいところでは穴が開いたままになっている。当然、外側に行くほど魔物に襲われる危険は高くなる。
 レキとガリルは、二の壁の質素な門をくぐり抜ける。一の壁に続く道の両脇には、畑が広がっている。陽の光は壁に阻まれるほど傾いているから、農作業をしている人の姿はほとんど見当たらなかった。
 畑の中を歩いてたどり着いたアージェの一の壁の厚みはかなりのもので、レキの足で十歩(約6m)分ほどもある。平屋の屋根くらいの高さまでは、壁の内部は土が詰まっているが、それより高い部分は見回りができる回廊となっている。一の壁の外側には、等間隔で護符が貼ってあるのだろうが、昼といわず夜といわず、回廊には常に見張りがいた。
 彼らに見守られ、レキとガリルはアージェの市街地に入る。二の壁の門とはずいぶん対照的な、頑丈そうな門扉は両開きで、外側には十数枚もの護符が貼り付けてある。壁の規模に比べれば、門扉は馬車が行き交う程度の大きさしかない。魔物が現れた時にすぐ閉じられる、必要最低限の大きさだった。
 夕方の買い出しでにぎわう雑踏を通り抜け、レキとガリルはまずアージェの役所へ向かった。集めた守環の届け出のためだ。
 守環に彫刻されていた持ち主たちの出身地は遠方であり、住所まではさすがに彫られていない。役所であれば、住民の氏名や住所を把握しているから、集めた守環はこうして近くの役所へ届けるのである。後は行政の仕事となるので、数日中には家族のもとへ守環は届けられるだろう。
 役所は一日の勤務時間終了間際だったが、守環が届けられたので丁寧な対応だった。届け出た二人に労いの言葉をかけ、「今日はもう仕事が終わりなので、明日対応する」と言って、守環を保管庫へ入れた。
 魔物に襲われ死んだ人のために、レキたちにできることはこれで終わりだが、肩の荷が下りたという感じはしない。むしろ、よりいっそう自分のやるべきことがはっきりとしてくる。
 レキのように、ガリルのように、そしてオオグログモに襲われて死んだ彼らの家族のように、リトラでは肉親を魔物に奪われる人が後を絶たない。魔術士としてレキにできるのは、そんな人々を増やさないことだ。魔術士にできるのはそれしかなく、レキにはそれすら満足にできない。
 強くなるしかないのだ。レキは改めて自分に言い聞かせた。
「その歳で迷子になるつもりか、レキ」
 気持ちを切り替えるためにも、決意を新たにしたレキだったが、その間にガリルとの距離が開いていた。レキの背丈はガリルの肩に届くか届かないかくらいで、二人の歩幅には開きがある。ガリルについていくためにはレキが早足にならねばならず、人をかき分けて、慌ててガリルを追いかけた。
「迷子になんてなりませんよ。ここ、地元なんですから」
 アージェはレキの故郷だ。今歩いている道も、子供の頃よく通っていた道だから迷うということはない。今みたいにうっかりしていると、ガリルとはぐれることはあるかもしれないから、迷子になると言ったのだろう。
 だがしかし、いくら八つも年下だからといって、もう十六歳にもなる者に対し、それはないだろうと思う。レキがガリルと初めて顔を合わせたのは五年前。レキが今よりも更に小さく、明らかに子供だった時だ。その時の印象が強いせいなのか、ガリルは時々レキを年相応以下、要するに子供扱いすることがあるような気がする。
 もしかしたら、手当をガリルがしてくれるのも、レキが自分ではできないと思っているからではないだろうか。ガリルの方が手際が良くて上手なのでついつい頼っていたが、今度からは自分でやろう。自分のことくらい自分でできるのだ。
 レキが密かに、先程とは別の決意している間に、またもガリルに置いて行かれそうになったので、小走りに追いかけた。
 レキとガリルが今目指しているのは、宿屋街だ。アージェにはもちろんレキの実家があるが、帰省したわけではないので実家には泊まらなくていいと、レキが言ったのだ。
 路銀を節約するためには、実家に泊まる方がいいのだが、ガリルは反対しなかった。反対されたらどうしようかと心配していたレキは、その時胸をなで下ろした。今はまだ、実家に帰るのは気まずかったから。
 レキの兄も、《赤地》の魔術士だった。魔物退治の最中に死んだ兄と同じ魔術士になるのだとレキが言い出したものだから、両親は猛反対した。兄のように魔物を退治して、少しでも人々の役に立ちたいという志を歓迎してくれると思っていたレキは、戸惑ってしまった。その時の、両親の予想外の反応に戸惑い、自分の夢を否定されたとかっとなり、大喧嘩に発展した。それからすぐに家出同然に出ていったものだから、せめて胸を張って一人前になったと言えるまでは、帰るに帰れない。見習いという肩書きは取れたが、ガリルに簡単な傷の手当てもされてしまうようでは、まだまだ一人前とは言えないだろう。
 日没が迫る今の時間帯は、客を呼び込もうと店先に立って声を張り上げる人や、道を行く人の話し声で一日の中でいちばんにぎやかだ。アージェが地元のレキは、もちろん実家があるために宿を取る必要などなかったので、宿屋街を訪れたことはほとんどない。さっきまで歩いていた道は良かったが、宿屋街の地理には詳しくないから、気を付けていないと本当に迷子――ではなく、ガリルとはぐれてしまう。
「ここでいいか」
 ガリルはある宿屋の前で立ち止まると、同意を求めるように早歩きであとをついてきたレキを見た。いいも何も、財布を握るのはガリルだから、彼がここにすると言えばレキはそれに従うだけである。特にそれで不満もないから、レキはいつものように頷く。
 宿の前で呼び込みをしていた従業員は、レキたちをとびきり愛想のいい笑顔で迎え、中に案内してくれた。
「二人部屋でよろしいですか?」
 帳場に来たところで、彼は愛想とは別の笑みを浮かべた顔で振り返った。
「ああ。いちばん安い部屋で構わない」
 ガリルは従業員のそんな表情をまったく気にせず、注文を付ける。
 男は「そうですか。いやいや、羨ましいですなぁ」などと言いながら、帳場の中にいる同僚から帳簿を受け取っていた。明らかに、彼は勘違いをしている。ガリルの後ろに控えるレキは、またかと小さく肩をすくめた。
 経費を抑えるために、宿を取る時は常に二人部屋に泊まることにしている。もしも一人部屋がいいというのなら、差額は自腹を切らなければならない。しかしレキたちは、合意の上で二人部屋に泊まるのが常だった。
 若い男女が同室に泊まると言えば、大概はこの男のように二人の仲を恋人同士と勘違いするのだが、とんだ見当違いである。兄妹と思われることが少ないのは、顔はもちろん、髪の色も目の色も、レキとガリルではずいぶん違っているからだろう。レキが夜のように黒い髪に、淡い茶色の瞳であるのに対して、ガリルは朝焼け色の髪に森のような緑の双眸だ。これでは近しい血縁関係があると思う方が、無理がある。
 レキとガリルは、魔物討伐をする上での相方同士であり、一度《赤地》を出発すれば四六時中行動を共にしていると言っても過言ではないが、それだけである。お互い、相手に特別な感情は抱いていない。だいたい、ガリルはレキを子供扱いするのだから、対等な相方とさえ思っていないかもしれないのだ。いや、おそらくそうに違いない。そうなると相方以前の問題であるが、レキもガリルのことを師匠のように見ている節はあるから、どっちもどっちである。
 それはともかく、初対面の宿屋の男にそんなことが分かるはずもないから、レキが横にいれば勘違いするのも仕方がないのかもしれない。宿屋へ行くたびに否定するのも面倒なので、二人とも肯定はしないが否定もせず、こちらも愛想笑いを浮かべて受け流すことにしていた。
 案内された部屋に荷物を置き、一休みしてから夕食を食べに行くことになった。宿屋にも食堂はあるが、街の様子を見ることも兼ねて外で食べようというガリルの提案により、レキとガリルは連れだって日暮れの後の街へ繰り出した。宿の外ではまだ先程の男が呼び込みを続けており、レキたちが出てきたのを見ると、やはり勘違いしている笑顔で「いってらっしゃい」と見送ってくれた。
「美味くて安い店がいいな」
 というガリルの要求を叶えるため、レキはガリルを連れて、飲食店も多く建ち並ぶ商店街に足を運んだ。買い出しの客は減っているようだが、反対に夜の街へ繰り出す人々が増えており、やはり人が多かった。アージェは交易の中継地点であるため、外来者が多い。彼らを目当てにした店は多く、夜になってもにぎわいが続く。
 先導するかたちで来たものの、実際のところ安い店というのはよく分からない。子供の頃家族と共に幾度となく訪れている場所ではあるが、その時支払いをしていたのは親であり、値段がどれ程なのか子供のレキが大して気にしているはずもなかった。しかし、レキの家庭はごく平均的だったので、目が飛び出るほど高級な店を利用していたということはない。もっとも、大衆向けのこの界隈にそんなに高級な店もないはずであるが。
 軒先を眺めながら歩いているうちにかつて訪れたことのある店の看板を見つけたので、そこで夕飯をとることにした。
 店内のテーブルは全て人で埋め尽くされていたので、レキたちはカウンター席になった。
 料理を注文し、ガリルは更に酒も注文する。
「お客さんたち、魔滅士なのか?」
 カウンター越しに、レキたちが注文した料理を手際よく調理している店員が一度手を休め、二人を交互に見た。防具は宿に置いてきたが、それぞれの得物は持ったままである。入店した時にそれが目に付いたのだろう。街中でも剣を持ち歩くのは、その街にたどり着いたばかりの者か、魔滅士たちくらいである。昼間でも安全とは言えないのに、日没後まで好んで街の外を出歩く者はいない。旅人たちは、できる限り日没前に街に入るように移動しており、すっかり日も暮れた今の時刻に剣を持ち歩くのは、もはや魔滅士たちくらいしかいない。
「魔術士だよ」
 料理の前に出された酒を一口あおり、ガリルが答える。
「アージェの討伐隊の?」
「いや、違う」
「それじゃあ隊商の護衛か。アージェは魔物が少ないから、仕事も楽だろう」
 ガリルの返事を待たず、店員は破顔して休めていた手を再び動かし始めた。レキたちは隊商の護衛をする魔術士だと、一人で納得したらしい。
 よその国では、魔滅士は組織を作らず個別に活動する方が主流らしいのだが、リトラでは、魔術士・魔滅士の多くはどこかの討伐隊に所属している。よほど小さい村は別として、小規模な都市には必ず一つは討伐隊が存在しており、それが大規模な都市ともなると複数の討伐隊が組織されている。討伐隊は自分たちが拠点を置く町を中心に魔物退治を行っており、拠点から出張るのは、近隣の討伐隊に加勢を求められたときくらいだろう。レキたちのように、本拠地から遠く離れたところまで出向き魔物退治をするということは、普通の討伐隊ならまずない。町の討伐隊員でなければ、隊商などに護衛として雇われている魔術士だと店員が思うのは無理からぬことだった。
 《赤地》は、討伐隊の中では特殊な存在なのだ。各地の討伐隊では手に負えない魔物の退治を専門としており、討伐隊の要請を受けて所属する魔術士を現地へ派遣する。
 今回のアージェ来訪も、もちろん魔物退治のためだ。レキたちに今回の任務が回ってきたのは、おそらくレキがアージェの出身だからだろう。魔物を倒せる実力ももちろん必要であるが、地理に詳しければそれに越したことはない。
 この店員は知らないようだが、アージェは魔物の脅威にさらされているのである。
 だが、わざわざそんなことを店員に知らせる必要はない。高く厚い壁で街を囲み、討伐隊が目を光らせているこの街中に魔物が出没すると知れば、その話はあっという間に広がるだろう。人から人へ話が伝わる間に尾ひれは必ずつき、無用な混乱をアージェに招く恐れがある。
 《赤地》という討伐隊の存在は一般にも広く認知されているが、そこに所属している魔術士と会ったことのある者は少ない。レキたち《赤地》の魔術士が、原則として自分たちの所属を明かさないからだ。普通の討伐隊の手には負えない魔物を退治する《赤地》の魔術士がいるということは即ち、その街の中か外か、とにかく身近に非常に危険な魔物がいるということを意味する。人々にとって、それは不安と恐怖以外のなにものでもない。だからこそレキたちは、自分たちがどこの討伐隊に所属するか、悟られないよう気を付けなければならない。
 混み合う時間帯の今、店員には世間話を長く続ける余裕はなかったらしく、それ以上言葉を交わすことはなかった。
「まだ噂にもなっていないみたいですね」
 店員が食材を取りにカウンターの奥へ引っ込んでいったのを見て、レキは呟いた。店員に聞かれてもまずいが、周りの客に聞かれるのもまずい。
「被害が軽微だからな。だが、放置すればいずれ露見する。早々に片を付けるぞ」
 ガリルはやる気に満ちた目には、鋭い光が宿っていた。
 《赤地》の魔術士といえども、目的地に着いたその日から討伐を開始することは珍しい。レキとガリル――ガリルが、例外なのだ。
 長旅の直後は疲れているし、また魔物に関する詳しい情報も少ないので、本格的に行動を開始するのは到着した翌日からとなる。《赤地》に要請が来る時点で状況は深刻である場合が多いが、それで焦って不十分な態勢で臨んでも被害は広がるばかりである。しかし、ガリルは一刻も早い解決を目指すため、到着したその日から討伐を始めるのだ。周囲からはやめろと再三言われているが、ガリルがそれを改める様子はない。
 魔術士としての技術も経験も勝っているガリルに、レキが意見できるわけもない。それに、魔物が少しでも早く倒せるのならそれに越したことはない。守環を役所に届けた後では、尚更そう思う。
 料理をたいらげ会計を済ませると、レキとガリルは巡回を開始した。

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