エピローグ
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 元気のいい声と共に、転げるように子供たちがカシュラルのすぐそばを駆け抜けていく。本当にすれすれのところだったので、ぶつからなくて良かった、と胸をなで下ろした直後、前方で、歩いている大人を避けきれずにぶつかった一人がひっくり返っていた。
「あらまあ。前をよく見てないからだよ」
 野菜を売る露店のおかみもその様子を見ていたらしい。商品を並べながら呆れつつも、口元には笑みが浮かんでいた。
「やあ、カシュラル。食後にこの果物とかどうだい。今朝入ったばかりの、とれたてだよ」
 店の前をよく通り、時々買い物もするからすっかり顔なじみになったおかみが、子供たちに負けない元気な笑みと一緒に、鮮やかな黄色が目にまぶしいアンズを差し出す。
「じゃあ、一ついただきます」
 おかみの商魂たくましさに内心苦笑しつつ、カシュラルは代金を払い、アンズを受け取った。
 それを手に、通りを進む。まだ午前中なのにもううっすら汗ばんでいる。空は突き抜けるような青。まだまだ暑くなりそうだ。
 ノリストラルよりずっと南に下ったこの国は夏の訪れが早い。ノリストラルなら今はまだ初夏の季節だけれど、ここはもう夏の陽気だった。ただ、地元の人に言わせると、真夏はもっと暑くなるらしい。これで序の口かと思うと今からげんなりする。
 だけど、だからこそ、本当に遠くへ来たのだな、と実感もした。
 《獣》を完全に退治し、ノリストラルに戻ったカシュラルとエムクドは、宮廷魔術師の選考会の期日には間に合ったものの、予想していたとおり大目玉を食らった。許しもなく黙ってノリストラルを出奔し、帰ってくるまで手紙の一つさえ出さなかったのだ。死んだ、とさえ思われていたらしい。
 カシュラルたちが留守にしていた間、宮廷魔術師たちが候補者を集めた激励会があったそうだ。カシュラルたちは二人とも病気で出席できないということにしたけれど、宮廷魔術師となったあとの人脈作りには欠かせない行事らしく、出遅れたと師匠はもちろん、ノリストラル侯爵も怒り心頭だった。
 出奔した理由は、当然訊かれた。カシュラルもエムクドもありのままを正直に話したものの、生まれ変わりの話は信じてもらえなかった。すべては終わったあとだったし、もとより信じてもらえると期待していなかった。
 ただ、カシュラルは、それが自分の責任であることをとにかく強調した。エムクドは自分にも責任があると言ったけれど、発端はカシュラル――イヴにあるのだ。それに、カシュラルには宮廷魔術師になりたいという切実な理由がない。それも正直に話した。
 ノリストラル侯爵は追放を宣告した。カシュラルだけに。
 幼い頃から衣食住を提供し教育を与えた恩を、これほどのあだで返されたのは初めてだ、と言った。静かな口調は、侯爵がいかに憤りを感じているのかを如実に示していて、激昂されるよりも恐ろしかった。
「激励会に病欠しているからちょうど良い。病で死んだ、としておこう」
 師匠も、侯爵のその非情な言葉に反論はできなかった。
 死んだ人間が、いつまでもノリストラルにはいられない。この国にも。見送りは許されず、その日の夜、カシュラルはほとんど着の身着のままでノリストラルを出たのだった。
 だけど、後悔はない。こんな仕打ちはひどいと嘆きもしない。むしろ、エムクドが追放とならずに済んで、安堵していた。
 侯爵としては、推薦した者が二人とも死亡というのはあまりに体裁が悪いと考え、カシュラル一人に責任を押しつけたのだろう。もっとも、エムクドもおとがめなしで終わったわけではなく、選考会の日まで謹慎を言い渡された。
「落ち着く先が決まったら、教えてくれ」
 侯爵の元を辞した直後、エムクドは言った。
「ほとぼりが冷めた頃、迎えに行くから」
「死んだ人間が手紙を出せるわけないわ」
「カシュラル」
「追い出されるかもって予想はしてた。いいのよ、わたしには帰る場所もないから」
「ぼくや、ほかのみんなは君を家族だと思ってるよ。だから、手紙をくれ」
「……ありがとう。でも、手紙は出せないわ。エムクドやみんなに、迷惑をかけるかもしれないから」
 ノリストラル侯爵に知られたら、メンツを傷つけられたと更に激怒するだろう。権力を持つ彼に、宮廷魔術師になるであろうエムクドが楯突くようなまねをするのはまずい。
「南へ行こうと思ってる。それしか言えないけど――元気でね、エムクド。あなたの幸せを祈ってるわ」
 幼なじみの彼との別れが悲しくないわけがない。それでもカシュラルは涙をこらえ、精一杯に笑った。
「カシュラル……!」
 エムクドは、何かをこらえるような顔をして、カシュラルを強く抱きしめた。
「ぼくが、君を幸せにしてあげたかった」
「……ありがとう。その気持ちだけで、わたしは十分よ」
 カシュラルもエムクドの体を抱きしめる。顔が見えなくて良かった、と思った。カシュラルの目元の我慢は限界を迎えていた。きっとエムクドも同じだろう。
「君の幸せを祈ってる。必ず幸せになってよ」
「あなたもね、エムクド」
 腕をほどき、体を離して涙を拭う。最後の見たのが泣き顔というのはいやだから、二人して笑った。
 あれから、もう一年が経とうとしている。
 どうせなら暖かい方が暮らしやすいだろうかと、国境を越えて南へ下り、今の街にたどり着いたのだ。
 そこまでの路銀は、警備団の手伝いやそのまねごと、魔物退治以外でも魔術の腕を貸して稼いできた。
 ある日訪れたこの街で、泊まる場所を探して歩いていたら、魔術訓練所の生徒及び教師募集という貼り紙を見かけた。その足で訓練所を訪ねていくつか魔術を披露したら、その場で採用となったのである。
 修行と勉強に明け暮れていたそれまでの生活は一変し、慣れないうちはいろいろと大変だった。けれど、部屋を借り、少しずつ生活に必要なものをそろえるうち、徐々にこの暮らしに慣れ、生徒以外にさっきのおかみのような顔なじみも増えた。警備団を手伝い、結界の補修をすることもある。
 カシュラルが働く訓練所は、宮廷魔術師候補を育成するのが目的ではなく、魔力を持て余している子供たちにその使い方を教えることに重点を置いていた。カシュラル自身は、宮廷魔術師となるべく教育を受けてきたから、そうでないものを教えるのはなかなか大変だったけれど、訓練所を主催する魔術師の手を借りて、それにもだいぶ慣れてきた。
 訓練所では魔術以外にも文字の読み書きや計算も教えていた。通う生徒の中には、魔力はないけれど、文字を教えてもらうのを目的にしている子供もいる。主催の魔術師が、学びたい子供は魔術に関係なく歓迎だ、というおおらかな人なのだ。
 そのせいなのか、勉強の合間、子供たちの遊び相手を勤めることさえある。元気が有り余っている彼らの相手をするのは、まだ若いカシュラルでも骨が折れることがあり、これで他の教師が辞めたのだろうな、と想像はついた。
 もっとも、せっかく得た仕事だし、子供たちに魔術や文字を教えることの楽しさを、少しずつ見出してきている。この街に来て良かった、とアンズを見つめながら、カシュラルはしみじみと思った。
 それを知らせられたらいいのに。だけど、もう迷惑はかけられない。
 エムクドやみんなはどうしているだろうか。彼は宮廷魔術師になれただろうか。それを知る手立てはないけれど、エムクドなら大丈夫だと信じている。
 アンズを見つめ、カシュラルはギーディスにも思いを馳せた。この色は、彼の瞳を思い出させる。
 ノリストラルを追放されたカシュラルの足がガエリアに向かうことはなかった。
 カシュラルの心を占めるのは、今でもヴァンドールただ一人だけだ。
 ギーディスは《獣》の核を持っていた。だけどもう彼はヴァンドールではない。核の消滅と共にヴァンドールの記憶は永遠に失われたのだ。
 カシュラルとギーディスの関わりは、《獣》を倒すために行動を共にした数日のみ。それ以上の関わりを持つべきではなかった。それ以上一緒にいたら、カシュラルはきっと、ギーディスの向こう側にヴァンドールを探してしまう。自分で消し去ったはずの男の面影を、未練たらしく求めてしまう。
 ギーディスはそれまでの彼が彼だけであったように、これからもギーディスはギーディスとして生きていくのだ。イヴの記憶を持つカシュラルが近づけば、その邪魔をしてしまう。
 アンズをポケットに押し込み、カシュラルは気持ちを過去から現在へと切り替える。訓練所に子供たちがやって来る刻限まであと少し。その前に、今日の授業の準備や打ち合わせをしなければならない。主催者は、間に合わなければ臨機応変でいいよ、と鷹揚に言うだろうけど。
 気持ち足早に露店の建ち並ぶ通りを抜けて、訓練所のある小さな路地に入る。人通りの多かった目抜き通りと違って、路地にはほとんど人影がなかった。
 遠くに訓練所を示す看板が見え、その近くで遊ぶ子供の姿が三人ほど。あれは、訓練所の生徒たちだ。
 定刻にはまだ早いのにもう来ている。出遅れてしまったな、と駆け足で向かおうとした。
「イヴ」
 背後から聞こえた声に、踏み出しかけた足が止まる。周りに他に人の姿はなく、今の声は、明らかに彼女に向けられたものだった。
 この街に、カシュラルをその名前で呼ぶ者はいない。いるはずがない。
 もうこの世のどこにも、いないはずだった。
 ゆっくりと振り返る。違っていたら、というかすかな恐れを抱きながら。だけど胸の中は、信じられない気持ちでいっぱいだった。
 午前中は明るい路地の真ん中に、一人の男が立っていた。彼女を見つめるその双眸は、懐かしくて愛おしい、輝くような黄金色。
 日差しを浴びた男がほほえむ。
 訓練所へ向かうはずだった彼女の足は男に向かって駆け出していた。
 男も前に踏み出す。
 彼女は震える声で彼の名を呼び、その腕の中に飛び込んだ。

〈了〉

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(C) Nagasaka Danpi 2018