第三章 08
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 ギーディスは朝露で湿る下草を踏みしだき、緩やかな斜面を下っていた。やがて、眼下に蒼い湖が見えてくると足を早め、駆け足気味になる。
 東の稜線に沿って空が朝焼けに染まっている。その上は澄んだ青、さらに西へ視線をやれば、濃い色に変わっていく。湖の周辺は、夜の気配の方が濃かった。
 薄闇に沈む湖岸に、目的の人影を見つける。
「カシュラル」
 紺色の空よりももっと濃い色をした稜線を見つめる彼女の背に、そっと声をかける。振り返ったカシュラルは、銀色の瞳をまたたかせ、ほほえんだ。何度か見ている、どこか寂しさの漂う表情だった。
「おはよう」
「ああ、おはよう」
「来てくれないかも、と思ってたの。ありがとう、来てくれて」
 昨日の別れ際、握手をする時に渡された手紙には、今日この時間にここへ来てくれと書いてあった。何のためという用件は書かれていなかったが、ギーディスは開門前のガエリアを抜け出して来た。
「今日にも帰るんだろう」
「ええ」
 カシュラルの隣に立ち、稜線を眺めた。日の出までもうすぐ。だが、西の空まで明るくなるにはもう少しかかるだろう。
「昨日は、このままでいいと言ったけれど」
 カシュラルが口火を切り、ギーディスは用件を察した。
「わたしは、やっぱり核は消滅させた方がいいと思うの。あなたの、これからの人生のために」
「でも、このままでも封印は解けないんだろう。だったら俺は」
「消滅させたいのは、わたしのわがままよ。危険を冒すかもしれないとわかった上での」
 カシュラルを見やると、彼女は体ごとギーディスに向き直っていた。ギーディスも、彼女の方に向き直る。
 間近でじっくりとカシュラルの瞳を見つめるのは、これが初めてだった。いや、きっと生まれ変わる前もこうしたことがあったに違いない。強い意志の存在を感じさせる銀色の瞳は、吸い込まれそうなほどきれいだった。
「どうしてそこまで、核を消滅させることにこだわるんだ。君は、自分の中の封印を解いたことを後悔しているように見えたのに」
「……あなたの中の核も消滅させないと、《獣》を倒したとは言い切れないわ」
「だが、いずれは消滅するんだろう」
「ええ、いずれは。それが今になるだけ。核はかなり弱っているから、前みたいな失敗はしないわ。結界も、あなたが来る前に用意してあるの」
 カシュラルが指を鳴らす。途端に、魔術構成が展開され、結界に取り囲まれた。見回すと、要となっている石があるのに気がつく。周到に用意したのか、ぱっと見ただけでも、街を囲む結界並に頑丈なのがわかった。
「カシュラル。俺はこのままでいい。ヴァンドールだった時のことを、俺は思い出したいんだ」
 ギーディスが反対しようとも彼女は押し切るつもりだ。それを悟り、ギーディスは口早に言う。
「いいの、思い出さなくて」
 カシュラルは首を横に振る。いいと言うくせに、泣き出しそうな顔だった。
「そのために、わたしは――わたしたちは、ここまで来たのだから」
 カシュラルの小さな手が、ギーディスの頬を包んだ。

    ●

 イヴはずっとずっと、過ちを積み重ねてきた。過ちを犯していると気がつかなかったこともまた、彼女が犯した罪の一つだ。
 間違いだらけの、これまでの数え切れない人生。イヴは、何度生まれ変わろうとも過ちに気がつかなかった愚かな女だけど、一つだけ間違っていなかったことがある。
 ――ヴァンドールを愛したこと。
 それだけは、間違いではなかった。
 ヴァンドールはいつだって、愚かな女の何もかもをすべてを、無条件に、責めることもなく、ただただ受け入れてくれた。何度生まれ変わろうとも、たとえ記憶を取り戻さなくとも。
 これは贖罪だ。
 イヴが犯し続けてきた罪への、愛する男を手にかけ続けてきた罪への贖罪なのだ。
「カシュラル……?」
 ギーディスが怪訝そうに、彼女の今の名を紡ぐ。
 違う名で呼ばれることを願っていた。《獣》が消滅すれば、それは叶うと信じていた。
 だけどどうして、イヴとヴァンドール、それぞれに封じられた《獣》の核が同時に消滅するという保証があっただろう。もしかしたらイヴの中に封じられている核だけが先に消えることもあったかもしれない、その逆もまたしかり。
 消滅するどころか《獣》を解き放ってしまうことになるなんて、想像さえしていなかった。
 長い間ずっと、危うい綱渡りを続けていたのだ。その上、イヴは罪を重ねてきた。
 ヴァンドールを殺し続けてきたこと、《獣》を解放してしまったこと、そのために犠牲になった人がいたこと。そのどれもが、取り返しがつかない。
 ここで、カシュラル自身の手で精算することでしか、重ねた罪を償うことはできない。償いにもならないけれど、少しでもあがなうために。
 でも、と自分に言い訳をする。最後なのだから、これくらいは許してほしい。
 金色の瞳が、カシュラルの顔をのぞき込んでいる。かかとをあげてつま先立ちになり、頬に添えた手で顔を近づけるように促す。
 鼻先が触れ、カシュラルは眼を閉じる。唇が重なった瞬間、全身が震えた。閉じたまぶたの奥が熱い。我慢しなければ頬が濡れてしまいそうだ。
 彼と口づけを交わすのは、いつ以来だろう。やはりカシュラルは――イヴは彼を愛していた。今までも、これからも、ずっと。
 名残惜しさを感じつつ、カシュラルは上げていたかかとを下ろす。
 目を開けると、ギーディスは呆然としていた。
「カシュラル、君は……」
 それ以上の言葉は拒否するように、カシュラルはギーディスの頬に添えていた手を引き、一歩うしろへ下がった。
 両手を一度握り込む。そこからゆっくり手を開くと、十指の先端からは魔力の通った糸が伸びていた。それを見たギーディスが息を飲む。
「大丈夫、目が覚めた時にはすべて終わっているわ」
 カシュラルの指先から伸びた糸が、ギーディスへ向かう。
「カシュラルやめろ! 俺はこのままでいいんだ!」
 向かってくる糸をギーディスは手で振り払おうとする。だけど、糸はギーディスの腕をかいくぐって彼の体に絡みつく。《獣》を縛り上げたのを見たばかりだから、ギーディスはいい気持ちはしないだろう。カシュラルもそうだ。でも、他にやりようがない。
 腕ごと体を縛り、足にも巻き付かせて自由を奪う。体を絡め取るのと同時に、ギーディスの意識も絡め取る。
 実は《獣》に同じことをしようとしたけれど、魔物には無効だった。自分の腕が落ちたのかと密かに焦っていたのだけれど、意識を失い、支える力を失い頭を垂れるギーディスを見て安堵する。
 それにしても、とカシュラルは苦笑せざるを得なかった。贖罪をするにしても、自分は最後までヴァンドールを縛り上げるのだ。
「……さようなら、ヴァンドール」
 意識のない彼には聞こえていないけれど、カシュラルは別れの言葉を口にした。
 彼から《獣》の核を切り離してしまえば、もうその影響を受けることはない。今ギーディスの中にある核を消滅させたら、彼がヴァンドールの記憶を取り戻すこともないだろう。
 核の消滅とともに、イヴが愛し、イヴを愛した男の記憶も消える。
 それでいいのだ。もとより、まっさらな状態に戻ることを望み続けてきたのだから。
 カシュラルは慎重にギーディスの中を探っていく。自分の中を探るより、他人の中に意識を潜り込ませる方が遙かに難しい。ギーディスの意識を奪ったのは、彼に抵抗されないためでもあるけれど、その方が多少は探りやすくなるからでもあった。
 指先の感覚を頼りに、糸を操る。やがて先端は、遠い遠い昔に作った魔力の檻を見つけた。それに糸を巻き付けて、檻とギーディスを繋いでいる糸を断ち切る。ゆっくりとゆっくりと、檻を引っ張り出す。痛みがあるせいで、意識はなくてもギーディスは時折顔をしかめた。そのたびにごめんと呟きながらも、カシュラルは手を止めなかった。
 長い時間をかけて、ようやく檻を外に出す。掌には、カシュラルの中に封印されていたのと同じものがあった。魔力の檻に閉じ込められた《獣》の核だ。
 本当は、もっと早いうちにこうするべきだったのだ。殺し殺され転生をすることで磨り減らしていくのではなく、ある程度弱くなったところで取り出し、押し潰してしまうべきだった。今よりもまだ強い魔力を持っていた時に。
 それをしなかったのは、なんとか一つに戻る隙をうかがっていた《獣》の影響なのかもしれない。破滅的な出会いと別れを繰り返すしかないとわかっていても、出会うことをやめられなかったイヴとヴァンドールの感情のせいだったのかもしれない。
 どちらかだったのかは、もうわからない。わかってももうどうしようもない。だけど、再会してすぐに別れることになっても彼に会いたかったから、きっとイヴは今までやらなかったのだ。
 感情はすべて自分のものだった。それを確信するのが、イヴは遅すぎた。彼女が愚かだったばかりに、愛する唯一の男を手にかけてきた。
 これは、贖罪だ。
 イヴは魔力の糸を伸ばして檻に更に幾重にも巻きつけていく。前と同じ方法は危ないから、さすがにやり方は変える。
 十分に絡ませて、一気に引き絞った。
 中にあるものが潰れる手応えがあった。直後、檻も潰れる。わずかにできた隙間から、青黒い破片がぱらぱらとこぼれ、地面に落ちる前に消えていく。魔力の糸をほどくと、残りの破片が一斉にこぼれ、消えていった。
 同時に、ヴァンドールが記憶を取り戻す可能性も、中空へ消える。
 まぶしさを感じ、カシュラルは眼を細めた。
 太陽が顔をのぞかせ、西の稜線も日差しを受けて明るく輝いていた。

〈第三章 了〉

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