第三章 06
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 林の際にいたギーディスたちは、湖岸に飛び出した。ギーディスがここにいるのだから、隠れても意味はない。一度に数で押すのが有効とわかっているから、ひとかたまりになって立ち向かう方がいい。
 ギーディスが先頭を駆け、そのあとをナサシアがついてくる。
 弓や剣、魔術の腕を磨くだけでは魔物と戦えない。長丁場となることもあるから、それに耐えられる体力も必要だ。普段から体は鍛えてあり、これくらいの距離を走るのはなんということはない。
 だが、カシュラルとエムクドは、どうやら違うらしい。ちらりと振り返ると、十数歩遅れているだろうか。二人とも、ナサシアでさえ舌を巻くような魔術師だが、体力ではギーディスたちがだいぶ勝っているようだ。
 山の向こうへ沈みゆく太陽は、血のように真っ赤だ。だけど、《獣》にいるところは一足早く夜が訪れていて暗く、顔を上げた《獣》の目が異様に赤く輝いて見えた。
 人の声ではなく、動物のうなり声をあげて《獣》が地面を蹴った。まるで闇の一部が飛び出したようだ。
 ギーディスめがけて最短距離を一直線に、水際を走る。魔物も動物ではある。飲むのは平気でも、体の表面はそうはいかないのだろう。水に触れた《獣》足は酸に侵され、うっすら白い煙が上がる。
 それでも《獣》は足を止めることもゆるめることもなく、血走った赤い目はギーディスだけを見ていた。
 こちらが思っている以上に《獣》は重傷なのだろう。湖の水を飲むよりも手負いのままギーディスを喰らう方を選ぶくらいに、せっぱ詰まっているのだ。
 《獣》の行く手の湖面が揺らぎ、小刻みに震え、大きな水の塊が吐き出されるように、水面のすぐ上に生まれた。魔術構成の感じからすると、カシュラルだ。
 《獣》をすっぽり包むほどの水の塊が、《獣》に向かって飛ぶ。《獣》は避けもせずにその水につっこんだ。全身がずぶ濡れになり、白い煙が青黒い体のあちこちから出る。
 足止めになるとは、カシュラルも期待していないだろう。だが、濡れていればそれだけでも酸が体の表面を侵す。地味で小さいが、痛手を絶えず与えることはできる。
 カシュラルの攻撃を皮切りに、ギーディスも弩を放った。やじりに、灯火の魔術を乗せている。昨日の夜に見た時よりも炎は大きかった。こぶし大、いや、人の頭大はある。
 《獣》の気配を最初に感じ取ってから、どうも少しずつ魔力が強くなっている。二つに割られた核同士が再会したことで共鳴しているのか、あるいは復活した《獣》の影響を受けて、ギーディスの中にある核が活性化をしたのか。
 魔力は強くなっているが、それは自分以外のところから来ているようにも感じるのだ。正確にはよくわからない。だが、いつもと同じつもりでやじりに灯した灯火は、いつもの倍以上の大きさである。
 いつもと変わらないのは、灯火を作ろうとつたない構成を組み立てる時、脳裏にちらつく顔もわからない女の存在だった。
 いや、いつもと少し違うかもしれない。おぼろげだった輪郭が、少しだけはっきりとしているような気がする。
 だが、目をつぶってのんびりとその輪郭をつかもうとしている場合ではない。
 ギーディスは引き金を引いた。
 赤い尾を引く矢が《獣》の耳をかすめる。それを追いかけるように、ナサシアとエムクドの攻撃が次々と《獣》を襲う。
 ナサシアの氷の矢は掌ほどの大きさだが、まるで吹雪のようだった。《獣》は顔の近くのものは飲み込んだ。だが、数が多すぎて大半は避けきれず、青黒い毛皮に真っ白な氷が突き刺さる。
 エムクドは、《獣》が岸に上がれないよう水際の地面を隆起させて壁を作った。
 壁は岸に沿って長く延びている。カシュラルが、今度は大きな波を作った。《獣》の足下の水が引き、大きな波になって襲いかかる。逃げようにも反対側は高い壁。《獣》は地面を蹴り、壁を駆け上ろうとした。
 次の矢の充填を終えていたギーディスは火がついた矢を放ち、ナサシアは氷のつぶてで《獣》を狙う。
 矢は右の前脚に命中し、そこでも赤々と燃えていた。氷のつぶてはあちこちに打撲を残しただろう。それでも、《獣》は壁を駆け上り、その頂上にたどり着いた。口を開けてだらしなく舌を出し、一息つくのかと思ったら、壁にかぶりついた。
 《獣》が顎を動かすたび、硬いものが砕かれる音がする。あの歯はいったいなにでできているのだろう。
 砕いたものが喉を通過し、数度瞬きする間に、足に刺さっていた矢が押し出されるように抜けた。《獣》はそれを素早く口でくわえ、やはりかみ砕いて飲み下す。
「食事は終わりだ」
 エムクドが胸の高さ上げた手を、さっと振り払う。《獣》が乗っていた壁に無数のひびが入り、土埃をあげて崩れた。
 《獣》は、壁の崩壊に巻き込まれるような間抜けなことはしない。崩れ落ちる一瞬前に湖岸へ飛んだ。
 だが、その動きは読まれていた。《獣》が着地しようとした地面が大きく陥没して暗い穴ができる。それに気づいても、翼のないものは空中ではどうしようもない。《獣》はその穴に吸い込まれるように落ちた。
 エムクドはすかさず崩れた壁の破片を操る。生き物のようにがれきが穴の上に飛んでいくと、そこで支えを失い、穴に降り注ぐ。
 鼓膜を叩く大きな音がなくなり、がれきで穴が埋め尽くされる。だが、《獣》を生き埋めにしたくらいで倒せるとは思っていない。
 穴を埋めるがれきに、カシュラルが大きな炎をともす。ものの数秒で、あたりを明るく照らすほど大きな炎に膨れ上がった。
「すごい……」
 ナサシアが小さく呟く。
「みんなもっとさがった方がいいわ」
 カシュラルが手をかざし、炎を見つめたままギーディスたち三人に言った。二十歩は離れているものの、それでも熱い。
 蒸し焼きにして、果たして《獣》は死ぬだろうか。気配はまだ、すぐそこにある。
 穴にいちばん近いところに立っていたカシュラルがじりじりと下がっていたら、がれきのひとつがごとり、と動いた。熱のせいかと思ったが、またひとつごとり、と転がる。
 一度はその場でじっとしていた気配がうごめいている。
「まだ生きてる。出てくるぞ!」
 ギーディスは声を張り上げた。
 それを証明するかのように、がれきの真ん中が盛り上がり、《獣》が飛び出す。
 炎に掌をかざしていたカシュラルが、十本の指先を《獣》に向ける。
 彼女の指先から、糸のようなものが勢いよく延び、《獣》の体に絡みつく。四本の足にそれぞれ巻き付き、胴をきつく締め、なんでも飲み込む口を縛り上げる。
 糸はこよりほどの太さだった。だが、本物の糸ではない。魔力を帯びている。
 魔力を糸のような物質状にして使うなど、聞いたことがない。ナサシアも驚いて声を上げている。
 こんなものは見たことがない。とっさにはそう思った。しかし、初めて目にしたはずなのに、胸の奥から懐かしさがこみ上げてくる。
 どうしてこんなにも懐かしいのか、答えを探す暇が今はない。ギーディスは次の矢を装填し、射る機会をうかがう。
 体を拘束する糸をほどこうと、《獣》はめちゃくちゃに暴れた。ほとんど開かない口の隙間から、怒声のようなうなり声を漏らす。気を抜けば糸がゆるみ《獣》に自由を許してしまうから、カシュラルは歯を食いしばり、《獣》に向けていた指先をぐっと握り込む。締め付けの力が増したのか、《獣》が更に荒々しく吠えた。
 赤々と燃え上がっていた炎は、もう消えている。カシュラルが魔力の糸を制御するのに集中しているせいだろう。
 だが、カシュラルは一人で立ち向かっているわけではない。
 穴を埋めたがれきを、エムクドが再び操る。今度は埋もれさせるのではなく、つぶてにして《獣》の体を打つ。
「あの糸みたいなのは、当たっても大丈夫なの?」
 驚いていたものの、平常心を取り戻したナサシアが尋ねる。カシュラルは声を出す余裕もないのか頷いて答えた。
 ナサシアの氷の矢が、エムクドの操るがれきに混じる。《獣》の姿が見えなくなるほどだ。カシュラルの糸に拘束された《獣》は避けることも喰らうこともできない。
 氷とがれきの怒濤の攻撃に、ギーディスが矢を放つ隙がない。矢一本くらいでは、手助けにもならない。
 ナサシアとエムクドの攻撃が一通り収まるまでにかかった実際の時間は、体感よりずっと短い。数十秒くらいか。だが、受ける《獣》にとってはひどく長い時間だったに違いない。青黒い毛並みはぼろぼろになって、足下には血がしたたり落ちている。満身創痍で、このままでも朝には息絶えていそうにも見えた。だが、ギーディスを見据える目は今も炯々と赤く、気力を失っていない。
 ギーディスは、《獣》の眉間に狙いを定めた。やじりに大きな炎を乗せる。脳裏にまた、女の顔が浮かぶ。炎は自分で思っていたよりもずっと大きく、熱いと感じるほどだ。その熱で炙り出されるように、女の輪郭がはっきりと浮かび上がってくる。顔や目、鼻、口の形はそれでも曖昧だった。だが、目の色。それだけがくっきりと見え――。
 《獣》が頭を降り、前脚で口に絡まる糸を外そうと引っかく。糸が弛み、口の端に牙がのぞく。
 もう一度狙いを定め直し、ギーディスは引き金を引いた。
 すっかり夜になった大気を切り裂いて飛ぶ矢は、狙い通りの場所に命中した。《獣》が首をのけぞらせ、口の隙間から苦悶の声を漏らす。矢が刺さってもやじりの火はまだ消えず、湖の水と血に濡れた毛を焦がしていく。
「カシュラル、そのまま抑えておいてくれ!」
 剣を抜き放ち、ギーディスは《獣》に向かって全力で駆け出した。
 頭の半分が炎に包まれても、《獣》はまだ立っている。近づいてくるギーディスに襲いかかろうと地面を蹴ろうとするが、カシュラルの糸がそれを許さない。
 大きく振りかぶった剣を、首の根元に食い込ませる。肉を斬り骨に当たる固い感触が、柄を通して伝わってくる。ギーディスは握る両手に力を込め、剣に体重をかけた。
 骨を断つ手応えがあり、更に力をかける。やがて切っ先が地面に突き刺さり、頭をなくした《獣》の体がゆっくりと地に沈んでいく。
 いつの間にか息を止めていたらしく、ギーディスは肺にたまっていた空気を一気に吐き出した。
「――あとはわたしがやるわ」
 カシュラルが来て、動かなくなった《獣》を見下ろす。頭と胴が離れても、彼女は魔力の糸で《獣》を縛り上げたままだった。
 眉間に刺さった矢の炎はまだ消えていなかった。ギーディスが魔術で灯した炎だが、今は彼の制御を離れ、自然に燃える炎になっている。それを種火に、カシュラルは《獣》の頭と体を炎で包み込んだ。
 核まで破壊するには高温で長い時間燃やさなければならない。赤かった炎は徐々に白くなり、直視するとまぶしいほど明るくなる。白い炎ほど温度は高く、下がらなければ炎に触れなくてもやけどをしそうだった。
「これで核まで燃やせるのかしら……。大昔、核を破壊しきれなかったから封印したんでしょう?」
 カシュラルの操る炎の熱さに感心しながらも、ナサシアは不安そうな表情だ。生まれ変わりに懐疑的だったはずなのに、とギーディスはわずかに苦笑する。
「まだ核の気配はある」
 《獣》の肉体は死んだ。だが核はまだ消滅していないのを感じる。ナサシアの表情がいっそう曇った。
「でも、大丈夫。復活したとは言っても、長い間封印されて弱っていたんだからな」
「残る核は、ギーディスの中のだけだね」
「ああ……」
 カシュラルの炎は、ナサシアの作る炎よりもかなり高温だった。夜中になるよりだいぶ前、飲み屋でまだ酔っぱらいたちが騒いでいるだろう時間帯に、炎が消えた。
 あたりが完全に闇に飲み込まれ、ギーディスは灯火を作る。暖かな橙色の明かりで、なんともすさまじい光景が浮かび上がった。
 炎で焼かれ、地面は真っ黒だ。その真ん中に、すすがついた骨が転がっていた。その骨も、ほとんどは原形をとどめずぼろぼろだ。
 待っている間に血を拭い取った剣を抜き、切っ先で骨や灰をかき分ける。
「あった……」
 これほど近くにあっても、核の気配はもうほとんど感じない。風前の灯火だ。
 灰からかき出した核は、《獣》の体毛と同じ、青黒い色だった。しかし、完全な球ではなく、半分だけだ。その断面は平らではなく、叩き割られたように凹凸があった。全体に細かなひびが入っている。
「これで、終わりだ――」
 皆が見守る中、ギーディスは剣を振り上げて、核に叩きつけた。
 衝撃に耐えられず、核が砕ける。無数の破片になって飛び散り、闇の中へ溶けて消えた。核がなくなると、《獣》だったものの残骸は形が崩れて砂のように細かな塵に変わり、やはり闇に消えた。
 《獣》の半分はこれでようやくこの世から消え去った。残すはあと半分。だが、今は。
 ――仇は取ったぞ。
 ジェフテスのために、黙祷を捧げた。


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(C) Nagasaka Danpi 2018