第三章 05
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 ガエリアに帰り着いた時には空はうっすら明るくなっていた。出てきた時と同じように城壁を飛び越えても良かったけれど、休憩がてらに開門を待とうということで、城門から離れた街道脇の空き地に、思い思いに陣取った。
 腰を下ろすと、自分で思っていた以上に疲れていたらしく、開門されてもしばらくは立ち上がるのがいやなほどだった。
 カシュラルと同じく、ギーディスたちも魔術で壁を飛び越えたそうだ。ただ、ギーディスはもちろんナサシアもそんな魔術は使ったことがないので、エムクドが他の二人を飛び越えさせたらしい。時間がかかったし、三人飛び越えさせるのは疲れたと言うエムクドに、カシュラルがすごい労力と呆れると、
「どうしても追いかけないといけなかったからな」
「カシュラルがあっという間に壁を越えたから、急がないとって焦ったよ」
 ギーディスは苦笑いをし、エムクドは大仰なため息をつく。
「それで、本題だけど」
 頬杖をついているナサシアが、指先で机をたたく。和やかだった雰囲気が一気に引き締まった。
 全員がほぼ徹夜だけど、開門してガエリアに入ると、まっすぐ詰め所に来た。待機室隣の小部屋を借りて、詰め所にあった保存食を食べながら今後の予定を話し合うためだ。
「《獣》はけがをしている。倒すにはこれ以上にない好機だな」
 カシュラルがもっと早く動いていれば、逃げられる前にとどめを刺せたかもしれない。そう思うと悔しいけれど、今更それを言っても仕方がない。
「わたしが立っていたところからは重傷に見えたわ」
 明るい月夜で暗さに目が慣れていたとはいえ、カシュラルと《獣》の間には距離があった。
「最初の矢が、右前脚の付け根に命中したんだ。ナサシアとエムクドの攻撃もかすってた」
「そのあと、ちゃんとわき腹に命中させたよ」
「結構重傷に見えたわ。あれだけの傷で、あんなに逃げ足が速いなんてね」
 ナサシアがため息をつく。
「……けがから回復するために、《獣》はきっと躍起になるわ」
 カシュラルたちにとっては好機だけど、《獣》にとってはかなりの危機だ。
「なりふり構わなくなる、ってことか?」
「その可能性は高いと思うわ。あちこちの村を渡り歩く余裕なんかないだろうから、一つの村を荒らすかもしれない」
 その時はきっと、被害は家畜だけでは済まない。考えただけでもぞっとする。
「《獣》が逃げたのは、ガエリアの西の方だった。村のある方じゃない」
 ギーディスの言葉に、他の三人がはっと顔を見合わせる。確かに、《獣》は村と反対の方角――しかも、第二分団の担当区域である西に向かった。
 ガエリアの北から西に広がる雑木林はすべてが結界の中にあるわけではない。身を潜める場所はいくらでもある。雑木林に隠れ、そこに棲む動物を食べて応急処置的に回復できる。傷が癒えれば、また村を襲うこともできる。
「すぐに探しに行こう。日の当たらないところにいないとますます弱るはずだし、雑木林の中にいるなら、俺も感じ取れるかもしれない」
 真っ先にギーディスが立ち上がる。
 隣に座っていたナサシアが、立ち上がったギーディスを見上げて、それからカシュラルをちらりと見る。
「ギーディスの中に核があるから、《獣》の存在を感じ取れるってことよね」
 カシュラルに直接話しかけるのは珍しい。
「核がなければ、ギーディスは《獣》に狙われなくなる――でしょう?」
 ナサシアが何を言いたいのか、カシュラルはすぐに察した。
「……ええ」
「《獣》を倒しに行く前に、その核を壊すことはできないの?」
「ナサシア。そんなことをしたら、《獣》の居場所を感じ取れなくなる」
「でも、《獣》がギーディスを狙う理由はなくなるわ」
「今のままで不都合はない。それに俺は、自分だけ安全になりたいとは思わないよ」
 ギーディスは、カシュラルが思っていた通りのことを口にした。やはり彼はそういう人なのだ。ヴァンドールの記憶を取り戻していなくても変わらない。
「封印を解いてまた取り逃がしたら、けがをしている《獣》もあっという間に回復して暴れ回る。同じ失敗を繰り返すつもりはないし、ギーディスには悪いけど、ぼくは、いま核を破壊するのはやめた方がいいと思う」
「俺も同じだ」
 ギーディスは、心配そうな表情のナサシアに笑ってみせる。
「大丈夫だ。みんながいるんだから」
 ナサシアはその場にいた全員の顔を見回し、小さく何度も頷いた。
 《獣》は弱っていて、ここには仲間がいる。まだ遅くない。まだ間に合う。
 一日は始まったばかり。遅めの朝食をとる人もいる時間だ。
 朝食代わりに食べていた保存食の残りを昼食として持ち、足早に詰め所を出た。

    ●

 第二分団の担当区域内でも北寄りのところから探していくことにした。
 毛の先ほどでもいいから《獣》の気配はないかと、ギーディスは常に四方八方の意識を向けている。カシュラルたちは、大きな木のうろや根元、よく茂った草の奥など《獣》が隠れられそうな場所を、注意深く慎重に探った。
 人の手が入っている雑木林には、大木は多くはない。それでも、じっくり探していると、たいして進んでいないのに太陽は空の真上にやって来ていた。
 《獣》が食い荒らしたような形跡も、血の跡も今のところは見つかっていない。時間が経つにつれ、途中で違う方角へ逃げてしまったのではないかという懸念が、カシュラルの心に絡みつく。それは他の三人も同じなのか、休憩がてら木陰に腰を下ろして昼食を食べている間、ほとんど会話はなかった。
「――あっちが、気になる」
 ギーディスが不意にそう言い出したのは、太陽がだいぶ西に傾いた頃だった。
 立ちすくみ、遠くを見つめている。土地勘のないカシュラルでは、彼の向いている方に何があるのかわからない。とりあえず、今進んでいる方角とは同じだ。
「湖の方?」
 ギーディスの見つめる先を、ナサシアも見る。今は湖方面に向かっていたのか、とカシュラルは胸中で呟いた。この前と通った場所が違うから――もっとも、雑木林の中は似たような光景ばかりだけど――わからなかった。
「ああ。気のせいかもしれないけど、だんだん、行く手に何かがあるという気がしてきたんだ。近づきたくないけど、近づきたいような感じがする」
 ギーディスの中にある《獣》の核が、片割れに惹かれているのだろう。
「じゃあ、すぐ近くにいるってこと?」
 エムクドが声を潜める。
「わからない。最初に遭った時よりは、遠い感じがする」
 ギーディスは眉間にしわを寄せ、湖の方角をじっと見つめたままだ。
「でも、昨夜はもっと遠いところからでも、《獣》の気配を感じ取れたんだ。カシュラルの火柱が立つよりも前に、《獣》がいるとわかった」
 もしかしたら、《獣》と遭遇したことで、ギーディスの中にある核はにわかに力を取り戻したか、強くなったかしているのかもしれない。《獣》の居場所を遠くからでも感じ取れるのは今はありがたいけれど、良い兆候とは言えなかった。
「とにかく、行ってみましょう」
 ギーディスが先頭に立って、今まで以上に慎重に進んでいく。あちこちを探さなければならないから、ナサシアの移動用結界も今は使っていない。
「気のせいじゃなさそうだ……」
 進むうち、ギーディスが確信めいた声で呟いた。
 誰もが口を閉ざしているのは、今は緊張のためだ。あたりに広がる夕方の気配は濃くなる一方である。昼間、もっと明るいうちに《獣》を見つけられたらカシュラルたちにとってより有利な状況だったけれど、日が沈めば利点は減る。でも、《獣》が昼間はほとんど活動できていなければ、重傷を負った状態であるのは変わりない。それどころか、血を流してよりいっそう弱っているはず。
 希望的観測ばかりして油断するつもりはないけれど、少しは前向きに考えなければ緊張のしっぱなしで、精神的に消耗してしまう。
 硫黄のにおいが夕暮れの大気に混じる。地面が、前に向かって緩やかに傾斜している。もう少し進んだら湖岸に出るのだろう。
「湖の方にいる。間違いない」
 この頃には、ギーディスは《獣》の気配をしっかりと感じ取っているようだった。探るようにゆっくりとだった歩調が、今は普通に歩くほどの速さになっている。
 視界が開け、眼前に鏡のような湖面が広がる。太陽は熟れた果実のように真っ赤で、もうすぐ西の山の端に隠れようとしていた。
 夕陽を写し取り、湖面の一部が赤く染まっている。この間見た時よりも青はずっと深い色をしていて、まるで違う湖みたいだ。でも、鼻をつく硫黄のにおいは変わらない。
 ギーディスは湖の右から左へ、ゆっくりと視線を動かす。カシュラルたちも、そのあとを追いかける。
 湖の西側の斜面は、日が当たらなくなっていて真っ暗だ。そこに、ギーディスの視線がぴたりと止まる。
「あそこにいるのか?」
 エムクドが目をすがめた。ギーディスが、ある一点を指さす。
 雑木林の中の暗さに目が慣れていたから、そこを出てすぐはその明るさがまぶしく、ギーディスの示す先にあるものがよく見えなかった。何度も瞬きをして、ようやくそこに小さな黒い点があるのを見つける。
「あれ、なに? 動物……?」
 ナサシアが怪訝そうに眉根を寄せる。
 遠いしあのあたりは暗いし、はっきりと判別はできない。ややもすれば、岩か何かだと思ってしまう。
「《獣》だ」
 ギーディスが短く強く言う。
「何をしているんだろう、あそこで」
 《獣》と言われても、やはりはっきりとその形を見て取るのは難しい。
 それは、湖の波打ち際にいた。体を丸め、湖に口をつけているように見える。
 エムクドが何をしているのかと訝しむのも無理はない。この湖は強い酸性で生き物は棲んでいないと、この前聞いたのだ。そんな水を飲む動物も、当然いないだろう。
 だけど、あれは《獣》だ。なんでも喰らい、力に変える悪食の魔物だ。
「湖の水を飲んでいるのよ……!」
 戦慄が走り、カシュラルは身震いした。
 食べたものをなんでも力に変える《獣》だけど、力になりやすいものとそうでないものがあるらしい。魔術は、《獣》にとって滋養のある食べ物だ。人や動物もそう。建物や岩や、時に地面までも喰らうけれど、動物以外で《獣》が好んでいたのは、剣や矢などの武器だった。殺傷力や攻撃力のあるものもまた、《獣》にとって良い滋養になるらしい。
「喉が渇いたから……じゃないよな」
「けがを回復させようとしてるのよ」
 この湖の水は強い酸性。泳ぐなどもってのほか、手を浸すだけで肌がただれてしまうだろう。《獣》には、単なる水より、そこら中に生えている木より、滋養になるに違いない。
「《獣》は一度にどれくらい食べられるんだ?」
 エムクドがカシュラルに尋ねる。
「体の大きさに見合った分だけだと思うわ。でも水なら、飲んですぐ力に変えれば、いくらでも飲めるでしょうね」
「湖の水を全部飲み干すかもしれないってことなの?」
「可能性はあるわ」
「じゃあ、すぐに退治しよう。この時間なら見物人もいないし、ちょうどいい」
 ギーディスの言葉に、全員がうなずいた。


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