第三章 04
/ / 目次 / HOME /

 昼間は人を避けるのが大変なほど込み合う道に、今は人っ子一人見当たらない。道の両側にずらりと並ぶ建物に、明かりがこぼれている窓は一つもない。足元を照らすのは月明かりだけ。でも、しばらく歩くと明るい夜にすぐに目が慣れた。
 警備団は夜中でも巡回する。こんな時間に出歩いているのが見つかれば、呼び止められるのは必至だ。カシュラルは前後に常に気を配り、道が交わるところにさしかかれば、左右に人影がないことを確認して駆け抜ける。
 やがて、目的の場所にたどり着いた。間近で見上げると、首のうしろが痛くなる。蒼い夜空に向かってそびえる壁は、ノリストラル侯爵の居城を囲む城壁よりも高かった。
 でも、カシュラルには苦になる高さではない。ぐっと重心を落としたあと、地面を蹴り上げる。魔術が体を包み込み、カシュラルを壁の上まで押し上げる。城壁の頂上を軽く蹴って、外側へ。自分を取り囲む魔術の構成を少し変化させ、ゆっくりと下へ降りていく。地面に降り立つ直前、魔術を解いた。
 のんびりはしていられない。カシュラルは振り返らず、駆け出した。向かう先はガエリアの北。
 《獣》はきっとガエリアの北側にいる。被害のあった村はガエリアの北から東にかけてのいくつかで、二件以上の被害があった村は、今は結界に守られている。今日の昼間にカシュラルたちが訪れた村は家畜小屋の一件だけだったけれど、周辺の村でも魔物の被害が出ているからこれ以上出さないために、と派遣されたのだ。
 ガエリアの近郊北東部にあって、まだ《獣》の被害に遭っていない村は一つだけ。カシュラルはその村を目指していた。《獣》がそこに現れる可能性は高い。
 一刻も早く《獣》を倒さなければならなかった。このままでは、カシュラルやナサシアが反対しても、ギーディスは断固として囮になると言い張るだろう。
 ヴァンドールがそうだった。
 三百五十年前、《獣》を核の状態にまで追いつめたものの核はひどく頑強で、イヴとヴァンドールにはそれを完全に消滅させる力はもう残っていなかった。魔力が戻るのを待っていたら、その間に《獣》は復活してしまう。どうすればいいと考えていたら、ヴァンドールが自分の中に核を封印すればいい、と言ったのである。
 最初はヴァンドール一人で封印するつもりでいたのを、イヴが強く反対して思いとどまらせたのだ。だけど封印したあとも、ヴァンドールは自分だけで良かったのに、と言っていたのを思い出す。
 ギーディスはその時の記憶を取り戻していないけれど、言っていることはまったく変わっていない。自分を犠牲にすることに、何の抵抗もためらいも持っていない。
 あの時は、イヴが強く反対し、またヴァンドール一人の手には負えないくらいに《獣》が強かったから、イヴも犠牲になることを渋々承諾したのだ。
 《獣》はあの時よりもずっと弱くなっている。だけど、今のギーディスの手に負える相手ではない。カシュラルやエムクドでやっとのところだ。一度は取り逃がしてしまったけれど、同じ失態は繰り返さない。
 ギーディスだけを守るのなら、彼の中に封印されている核を壊す方法も、あった。二つにした時に均等ではなかったのか、別の加減でそうなったのか、おそらく彼の中にある核の方が、より消滅に近い。だからきっと、ギーディスは記憶を取り戻さないのだ。
 核がなくなれば、《獣》がギーディスを狙う理由もなくなる。だけど、ギーディスは自分だけが安全になるのを望まないだろう。
 カシュラルは、ふと足を止めた。
 まばらな林を抜け、左右に広がるのは草原に変わっている。そこに畑はなく、まだ目的の村の端にもたどり着いていない。
 明るい月に照らされて見通しがいい。カシュラルは左手の草地の一点を見つめた。風もないのに背の高い草がさわさわと揺れる。そこに、何かがいるかのように。
 草むらの中に隠れるそれはこちらへ近づいてくる。その時には、カシュラルはもう身構えていた。
 道から十歩ほど離れたところで、それはぴたりと近づくのをやめる。止まった、と思った次の瞬間、黒い塊が飛びかかってきた。
 それとの間に魔術の障壁を展開し、同時に火球を放って迎撃する。燃えさかる火の玉は、襲いかかってきた塊の足元をかすめて飛んでいき、草原の上で音もなく消滅した。
 カシュラルはそれを視界の端で見届けつつ、素早く飛びすさり、道に降り立った青黒い塊と距離を置く。
「狙うならしっかり頭を狙ってくれよ」
 こちらを見据える《獣》は、うっすらと口を開けて余裕ぶった。
「――やっぱり、このあたりにいたのね」
「ヴァンドールは一緒じゃないのか。それとも、もう殺してしまったのか」
「おまえには関係ないことよ」
 《獣》との会話を楽しむつもりなどさらさらない。カシュラルは次の攻撃を仕掛けようと、魔術を組み立てる。
「関係あるさ、あの男はおれの片割れを持っている。おまえらが引き裂いた、おれの片割れをな」
 《獣》の言葉を踏み潰すように、カシュラルは前に一歩、強く踏み出した。《獣》の立つ真下の地面が赤く光り、音を立てて火柱が立つ。
 炎の中に《獣》の影ができ、火柱に飲み込まれたと思った。だが、《獣》は後ろへ飛んで避けただけだ。カシュラルはそれを追いかけるように、そして《獣》が避ける先を予想して、火柱を立てていく。
「おまえにはわかるはずだ。片割れと一つに戻りたいと強く望む、この心が」
 《獣》の身のこなしは素早く、火柱を次々避けていく。
「黙りなさい。ただの魔物にそんな心があるはずないわ」
 燃えさかる炎の音に負けない声で、カシュラルは言った。
「あるさ。おまえは知っているはずだ。おれと長く共にあったのだからな」
 《獣》が嗤う。そのたびに、カシュラルは歯ぎしりした。
「黙れと言っているの」
「おまえは聞いていたはずだ、魂の叫びを。おれがおまえの中で叫び続けていたように、おまえの魂も泣き叫んでいたぞ。あの男と一つになりたいのだと」
 カシュラルは割れそうなほど強く歯を噛みしめ、唇を硬く引き結んだ。
 そんなことは――そんなことはとうに知っている!
 イヴがどれほどヴァンドールを愛していたのか、本人がいちばんよく知っているのだ。
 本当に束の間でしかなかった、二人きりで過ごした穏やかな日々。それは普通に生きていてでさえ一生の中での一瞬に過ぎなかった。けれど確かに存在していた時間と記憶だ。
 何度も死んで何度も生まれ変わって、そのたびにヴァンドールを捜し求めて狂ったように歩き回っていくうち、イヴの心は歪み狂いかけていた。
 ただそれでも、ヴァンドールとの幸せな思い出だけは捨てることも忘れることもなかった。あの思い出が、幸せな記憶が狂いかけていたイヴを支えていたのだ。忘れていたら、きっととっくの昔に狂っていた。
 狂ってしまえばこんな事態を引き起こさなかっただろうとしても、イヴは――カシュラルは、正気を繋ぎ止めてくれた思い出を否定しない。
 思い出は否定しない。だけど、その思い出に浸り、すがり、ヴァンドールと再び幸せな時間を得たいと望むのは、許されない。そんな自分を許してはいけない。
「つらそうじゃないかあ」
 いつの間にか、カシュラルの攻撃の手は止まっていた。刺さりそうなほど鋭い目でにらまれているのに、《獣》は愉快そうだった。
「あの男を殺し続けてきたおまえが、今更守るなど無理さ」
「黙りなさ」
「来た――!」
 《獣》の声が歓喜に打ち震える。
 まさか。
 頭に血が上っていたカシュラルは、一気に顔を青ざめさせる。《獣》の赤い目は、カシュラルを通り越してそのうしろを見ていた。
 そこに誰がいるのか、予想が外れればいいのにと願いながら、カシュラルは振り返る。
「どうして――」
 月夜に濡れた夜道を駆けてくる人影が、三つ。それが誰なのか考えるまでもない。
「己の手で殺さなかったことを後悔するがいいさ」
 哄笑を残し、カシュラルの横を《獣》が駆け抜けていく。
「待ちなさい!」
 カシュラルはすぐさまあとを追いかけた。《獣》は足の速い魔物ではないと言っても、走れば人間よりも速い。
 向こうも走ってくるから、距離はすぐに縮まった。人影がやはりギーディスたちだと、すぐに判別できた。
「カシュラル、避けろ!」
 先頭を走っていたギーディスが立ち止まり、まっすぐに向かってくる《獣》に弩の矢を放つ。それとほとんど同時に、エムクドとナサシアも、魔術を繰り出した。
 あわてて障壁を作り、流れ弾を防ぐ。目の前の地面には冷たく光る氷の矢が次々と突き刺さり、カシュラルの前面に展開した障壁に、エムクドが放った石の礫がいくつもぶつかって砕けた。障壁があるとわかっていても、思わず目をつぶってしまう。
 だけど、低いうなり声を聞いて目を開けた。
 《獣》が、前足を折って地面に膝をついている。
 誰かの攻撃が当たったのだ。
 エムクドが魔術を組み立てるのが見えた。《獣》もそれに気がつき、立ち上がって逃げようとする。が、足元の地面が勢いよく隆起し、《獣》のわき腹を打ち据える。
 《獣》の体は跳ね上げられ、隆起したところにぶつかり、地面にたたきつけられた。
 そこに、ギーディスが弩を放つ。飛び出した矢のやじりは、赤く燃えさかっていた。
 カシュラルの目に、矢の軌道が残像となって焼きつく。矢は倒れた《獣》の首の後ろに突き刺さり、《獣》がまた吠えた。
 今なら勝てる。
 呆気にとられていたカシュラルははっとして障壁を消し、魔術を組み立てる。
 血をまき散らし、うなり声をあげながら《獣》が素早く立ち上がった。
 歯茎をむき出してカシュラルをにらむ。しかし、ほんの一瞬のことだった。
 けがをしているとは思えない素早さで、《獣》は草原の中へ飛び込んだ。草がせわしなく動き、遠ざかっていくのがわかる。逃げたのだ。
 組み立てていた構成を消し、カシュラルは深々と息を吐いた。
「カシュラル」
「カシュラル、無事か!?」
 ギーディスとエムクドが口々に言い、駆け寄ってくる。ナサシアは二人のあとを追いかけるように歩いてやってくる。
「どうして、みんながここにいるの」
 どちらにでもなく、カシュラルは訊いた。
「今日、思い詰めた顔をしていたから気になったんだ。エムクドに相談したら、絶対に一人で討伐に行くつもりっだって言うから、悪いけどあとをつけさせてもらった」
「一人で行くなって、ノリストラルでも言ったのに、どうしてここへ来て――」
 もっと咎められるかと思ったけど、ギーディスはカシュラルにけががないとわかったからなのか安心した様子だ。エムクドは、置いて行かれたのが不満だったらしく、唇をとがらせている。
「あと少しだったのに、また逃げられたわね」
 遅れて歩いてきたナサシアが、《獣》の去った方角を見る。
「もう気配を感じない」
 ギーディスも同じ方角を見て言った。彼が感じ取れる距離はそれほど広くないけれど、その範囲内にはいないとわかるだけでも、今は十分だ。
「けがをしたから、きっと遠くへ逃げたのよ」
「カシュラル」
 闇に沈んだ先を見ていたギーディスが、カシュラルの方に向き直る。金色の瞳は真剣だった。
「俺に囮にはなるなと言った君が、一人で立ち向かおうとしないでくれ」
 強い口調ではない。でもさっきよりも声は硬質で、怒っているのだとわかった。
「警備団の力は借りられなくても、俺がいる。エムクドもいる。ナサシアも。現に四人で《獣》を撃退できただろう」
 《獣》の言葉だけで頭に血が上り冷静さを忘れていた。そんなカシュラル一人では、返り討ちに遭うだけだったかもしれない。でも。
「……あいつを解放した責任が、わたしには」
「責任を感じてるのカシュラルだけじゃない。俺だってそうだ。それに、責任があるとか誰かのせいとかそんなのは関係なくて、《獣》が人々を脅かす魔物であるなら、それを退治するのが警備団の勤めだ」
「……でも、囮になるのは行き過ぎだと思うわよ、わたしは」
 ナサシアが口を挟み、ギーディスは少し表情を崩す。
「自己犠牲とかじゃない。そうするのがいちばんいいと思っただけなんだ」
「ルフト小隊長は、ギーディスのそういうところを心配してるのよ。人に説教してるギーディスだって、わたしたちがいるのを忘れないでよ」
「もちろん忘れてない。カシュラルも、忘れないでくれ」
「――うん」
 カシュラルは素直に頷いた。
 一人じゃない。
 そんな当たり前のことを、わかっているようで全然わかっていなかった。いや、何度も生まれ変わりを繰り返し、時間が経つうちに忘れてしまっていた。自分は一人で、過酷な運命に立ち向かっているのだと思い込んでいた。
 でもそうではない。最初から、一人ではなかった。
 《獣》を封印したイヴの時も、一人ではなかった。ヴァンドールを始め、たくさんの仲間がいた。志半ばで命を散らした仲間たちの思いも背負い、立ち向かったのだ。イヴが本当に一人だったのなら、途中で放り出して逃げていただろう。
 カシュラルは一人じゃない。同じ目的を持つ仲間がいる。昔も、今も。
「……言いたいこと、全部言われた」
 カシュラルの隣に来たエムクドが、ぽつりとこぼす。
「ごめんね、エムクド」
「ぼくは最初っから、カシュラルは一人じゃないって言ってたよ」
 じと目で見られ、カシュラルは苦笑するしかなかった。


/ / 目次 / HOME /
(C) Nagasaka Danpi 2018