第三章 03
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「それは難しいな」
 待機室隣の小部屋で、ルフトは居並ぶ面々を前にしばし考え込んだあと、そう答えた。
「でも、《獣》の被害はすでに出ているんですよ」
 ナサシアが身を乗り出す。
「周辺の村に出没する魔物が《獣》だという証拠がない。数はそれなりだが一回あたりの被害が小さいし、襲われた場所も一つの村だけじゃない。複数の魔物がいる、と考える方が妥当だ。現状では、全分団から人を出して討伐隊を結成するのは無理だ」
「誰かが犠牲になってからじゃ遅すぎる、それは小隊長もわかっているんでしょう!?」
 ナサシアはまったく退かなかった。彼女の言う「誰か」がギーディスのことなのか、そうではなく不特定の誰かなのかは定かではない。でも、ともかく犠牲は出したくない、それは痛いほどに伝わってきた。
「……できれば、大勢で一気にたたみかけたいと、わたしも思う。だが、一介の小隊長の権限では、カシュラルとエムクドを協力者としてねじ込むのが精一杯なんだ」
 眉間にしわを寄せ、ルフトは言った。彼もまた、犠牲が出ることなど望んでいないのだ。
「今ガエリア周辺に出没する魔物が《獣》だと気づいているのは君たちだけだ。君たちで、なんとか対処してくれ。他に人手が必要な状況になれば、その時はうちの分団からだけでも人を出す」
 警備団は大勢の人で構成される組織だ。組織である以上、一人の考えで自由にできるものではない。組織の一員であるナサシアも、それは理解しているはずだ。悔しいけれど仕方がない、という表情だった。
「大丈夫だ、ナサシア。この前も、俺たち四人で退けられたんだ。次は倒せるよ」
 肩を落とすナサシアに、ギーディスが努めて明るい声で言う。狙われている当人の言葉ではあまり効果はなさそうだと思ったけど、ナサシアはそうねと呟いた。
「ギーディス。無理はするなよ」
 立ち上がったルフトが名指しで注意する。
「わかってます」
 はっきりした声で即答するギーディスにルフトは小さく肩をすくめ、しかしそれ以上は何も言わずに小部屋を出ていった。
「まあ、仕方がない。《獣》を逃がした責任はぼくにもあるんだから、次に会ったら必ずしとめるよ」
 エムクドもナサシアと同じ考えだったものの、無理を言ってここにいる立場だから、ルフトに難しいと言われれば退くしかない。結局、大勢では無理だとわかっていたのか、ナサシアのように気落ちした様子はなかった。
 カシュラルたちも小部屋を出て待機室へ行くと、当番の警備団員たちがいた。
「いざとなったら俺も駆けつけるって。そう気を落とすなよ」
「俺も行くよ」
「俺もだ。討伐に行く時は、場所と時間を教えてから行けよ、おまえら」
 明らかにがっかりしているナサシアを見て、エムクドから簡単にことの経緯を聞いた面々が口々に言う。単なる慰めや励ましではなく、本当に駆けつけてくれるのだろう。
 カシュラルはそれを横目で見ながら、そっと待機室を出た。細い廊下を通り、詰め所の外に出る。裏側には、訓練のために設けられた庭があるのだ。広さで言えば、ノリストラル侯爵の館にある、魔術訓練用の中庭の方が広い。でもここも、訓練をするには十分な広さが確保されていた。今は誰もいないけれど、敵に見立てた丸太の棒や、弓の練習に使う的は使用感であふれている。
 建物の壁にもたれ、庭を見回してからカシュラルは大きなため息をついた。
 さっきの待機室の雰囲気に、懐かしさを覚えた。『最初』のイヴの時を思い出したのだ。気が置けない仲間たちと《獣》を追っていた、あの頃を。厳しく長い討伐の旅の合間でも冗談を言い励ましあった仲間は、一人また一人と《獣》に食われてしまった。
 同じ目に遭うのはもういやだ。もう二度と、《獣》にそんなことはさせない。
 エムクドは自分にも責任があると言ったけれど、やはりこれはカシュラルのせいなのだ。エムクドには、無傷でノリストラルに戻ってもらわなければならない。 
 ノリストラルで、一緒に育った仲間たちの顔が頭に浮かぶ。カシュラルとエムクドが突然いなくなって、さぞかし驚いているだろう。ノリストラル侯爵と師匠は怒っているに違いない。宮廷魔術師の選考会まで残された時間は少ない。エムクドがそれに間に合うように、ノリストラルへ帰さなければ。でもきっと、《獣》を倒さない限り彼は帰るとは言わないだろう。それならば――。
「カシュラル」
 不意に呼ばれ、カシュラルは声の主を見やった。待機室からいなくなったから、エムクドが探しにきたのだと思った。
 そこにいたのは、ギーディスだった。

    ●

 訓練場に通じる扉を開け、左右を見ると、左側にカシュラルがいた。建物の端に近いところに背中を預け、じっと前を向いている。
 扉の開く音にも気がつかないほど、物思いに耽っているらしい。銀色の瞳の向く先は訓練場でも、彼女が見ているのはどこか遠くのように思えた。
「カシュラル」
 ギーディスの足音にも気がつかないので、とうとう声をかける。銀色の瞳がギーディスの姿をとらえ、またたいた。
 腕二本分ほどの距離をあけて彼女の右隣に立ち、同じように壁に背を預ける。壁は冷たく、かすかな湿り気があって硬かった。
「――生まれ変わりの話は、本当なのか」
 ルフトに小部屋に呼ばれ、カシュラルから話を聞いて、すんなりと受け止めた。でも、そのことについて彼女とゆっくりと話す時間は今まで一度もなかった。
「……信じなくていいわ。《獣》があなたを狙っている、それだけを信じてくれれば」
 こちらを向いたカシュラルは、わずかに目を細める。どことなく悲しげな表情だった。
「信じてないわけじゃ、ないんだ」
 カシュラルの話だと、ギーディスは彼女と共に《獣》と戦い、封印した魔術師だという。
「でも俺は、君みたいに、生まれ変わる前のことを覚えていない。カシュラルがうそを言っているとは思っていないし、俺が《獣》を封印した魔術師の生まれ変わりだという話も、信じている。ただ、それを思い出せないから、生まれ変わりと言われても実感がないんだ」
 そう、信じていないわけじゃない。だが、実感が持てないのだ。
 強大な魔物を倒した魔術師の生まれ変わりだという実感が、その時と同じような魔力が、ギーディスはほしかった。
 灯火を作り、結界の補修がどうにか精一杯。剣と弩の腕をいくら磨いても、《獣》を倒すには足りないだろう。己の非力さが歯がゆかった。せめて《獣》について覚えていることがあれば何かの役に立つかもしれないが、それもない。狙われているのはギーディスだというのに、自分がいちばん無力だった。
「実感なんて必要ないのよ。生まれ変わりだけど、あなたはギーディスという別の人間だから」
 カシュラルが口の端に笑みを乗せる。だが、目元には隠しきれない寂しさがにじみ出ていた。
 かつて命がけで戦った仲間がそれを覚えていないから、ではない。それだけにしては、ギーディスを見つめる銀色のまなざしがあまりにも寂しげだった。ヴァンドールという名前だったらしい自分との間に、仲間である以上の何かがあったのだろうか。
「初めて会った時、俺を見て君は『ヴァンドール』と言った。《獣》も、俺を見てそう言った」
 だが《獣》は、カシュラルの名前を口にしていなかった。
 幼なじみだというエムクドは、彼女をカシュラルと呼んでいる。だから、カシュラルは『今』の名前なのだ。
「君は? カシュラル、君の生まれ変わる前の名前は、なんて言うんだ」
 彼女は、今の自分が生まれ変わる前と別人だとは思っていない。
 生まれ変わる前、ヴァンドールと一緒に戦った彼女は違う名前のはずだ。それを聞けば、何かがわかる、あるいは変わるかもしれないと思った。
「……必要ないことよ」
 カシュラルはギーディスから視線を外した。口元からさえも笑みは消えていて、まずいことを訊いてしまったのだと気がつく。これ以上問いつめてもカシュラルは答えてくれなさそうだし、訊けば訊くほど悲しい顔をさせてしまいそうだ。
 命がけで戦った仲間の名前さえ思い出せない自分が情けなかった。
「ギーディス。今日、村へ行った時に《獣》の気配は感じた?」
 カシュラルは表情も沈んだ声音も変えた。あの話題はもう終わりということだ。
「いつもと変わらなかったよ。目に見えるくらい近づかないと、俺は感じ取れないのかな」
 ノリストラルにいてもギーディスを見つけだしたのだから、《獣》は感じ取れるのだろう。核は二つに割って封印したというが、磨耗の具合は、カシュラルとギーディスで違っていたのかもしれない。
 それにしても、目に見える距離でなければ気配を感じ取れないのであれば、とことん自分は役立たずだ。
「――もしかして、俺が囮になれば、《獣》をおびき寄せられるんじゃないのか」
 《獣》はギーディスを狙っている。正確には、その中に封印されている《獣》の核を。
 居場所の手がかりを求めてガエリアの外を歩き回る時は、結界のすぐそばか、ナサシアの結界に守られていた。だが結界から遠く離れ、ナサシアの結界もない状態で突っ立っていれば、《獣》は好機とばかりに現れるのではないだろうか。
 どこにいるのかわからないのなら、おびき出せばいい。名案のように思えた。
「だめよ、囮なんて!」
 しかし、と言うかやはりと言うか、カシュラルが血相を変える。
「《獣》をおびき寄せるのに、俺以上に適した『餌』はないだろう」
「それでもだめよ。危険すぎるわ」
 カシュラルが銀色のまなじりをつり上げる。切れ味の鋭い刃みたいな色だ、とギーディスは場違いに考えた。
「だけど、時間が経つほど《獣》は力をつけるんだろう? 俺が無防備なふりして立っていたら、襲ってくるんじゃないのか? もちろん武器は持っておくし、カシュラルたちが周りに隠れていれば」
「《獣》は頭がいいわ。罠だと思って、現れないかもしれない」
「でも、現れるかもしれない」
 相手が《獣》であろうと囮になるのは怖くない。それに――。
「俺は、《獣》を封印した魔術師の生まれ変わりなんだろう? だったら、かつて倒せなかった責任を果たさないといけない」
 今の自分よりずっと強い魔力を持っていたであろうヴァンドールができなかったことではある。だが、《獣》は大勢を相手にしたら自分が危ないと思うほどに弱っているのだ。そんな《獣》に、これ以上力をつけさせるべきではない。
「違うわ、あなたのせいじゃない」
 だが、カシュラルは首を縦に振らなかった。それどころか更に強く揺るがない声で言う。
「いま村を襲っている《獣》は、わたしが解き放ってしまったものよ。封印したままにしておけばいずれ消滅したのに、わたしが解放してしまった。わたしのせいなの。《獣》を倒すべき責任を負うのは、わたしだけよ」
 カシュラルがどうして《獣》の封印を解いたのか、その詳細な経緯や心の変化は知らない。それでも、《獣》の核の片方を封印しているギーディスにも責任はあるはずだ。ギーディスがガエリアにいただけで、ジェフテスは喰われてしまったのだから。
「カシュラル。でも俺にも」
 何も言わないで、とカシュラルが手で制する。斬れそうな刃だと思った銀色がぼやけたように見えたのは気のせいだろうか。
「囮はだめよ、ギーディス。これ以上あなたを犠牲にしたくはないの」
 目尻から涙がこぼれ落ちないのが不思議なくらい、カシュラルの瞳は潤んでいた。


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