第二章 05
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「エムクド。離して」
「ヴァンドールとかいう男を見つけて、そいつと死ぬつもりなんだろう」
カシュラルの腕をつかむ手に、更に力が入る。痛みにカシュラルが顔をしかめても、エムクドは力を緩めなかった。
「そんなばかげたことはさせられない」
「ばかげたことなんかじゃないわ」
 《獣》を完全に倒すには、その核が消滅するまで転生を繰り返すしかない。《獣》を倒すことでしか、その影響から逃れられない。
 イヴは《獣》の影響を受けない状態に戻るため、生まれ変わるたびにヴァンドールを見つけ出し、彼の命を奪って、自らも命を絶ってきた。
 イヴ・エミファリラはヴァンドール・リューベルをきっと愛していた。
 だけど、彼と恋人関係になったのは《獣》を封印したあとだったのだ。イヴの中にある《獣》の核が、片割れの核と一つに戻りたがっていてイヴは、その影響を受けてヴァンドールに惹かれたのではないか、ヴァンドールはイヴを愛したのではないか。イヴはそう疑ってしまった。
 ヴァンドールは、しかし自分の心は自分だけのもので、《獣》の影響などないと言い切った。だけどイヴは、自分の心を信じられなかった。彼のように信じたかったけど、《獣》の核がある、そのために彼の言葉も自分の心も信じ切ることができなかったのだ。
 《獣》の核が消滅してもなおヴァンドールを求める気持ちが消えない。それを確かめるため、イヴは生まれ変わるたびにヴァンドールを見つけ、その手にかけてきた。少しでも早く《獣》の核を消滅させるために。
「エムクドには、わからないのよ」
 自分の心が自分だけのものかどうかわからない。エムクドはそんな状態に陥ったことはないだろう。だからばかげたことだと言えるのだ。
 カシュラルにとっては、少しもばかげたことではない。長い時間をかけて、命をかけてでも確かめなければならなかった。心の本当の在処を知りたいという願いが、何百年と抱き続けて凝り固まった妄執のようになっていても。
「ああ、ぼくにはわからないし、わかりたくもない。もっと他に、やりようがあるだろう」
「他の方法なんて……」
 あればとっくにその方法を選んでいた。封印して、ようやくその脅威を取り除くことができた《獣》。あんな化け物を、他にどうやって倒せというのだろう。
 だけど、カシュラルの最終目的は《獣》を倒すことではなくなっていた。《獣》を倒したその先――何の影響も受けないと言える状態に戻ることが、今では目的になっている。
「あるさ。なにも自分で命を絶つなんて方法、選ばなくてもいい」
 エムクドのまなざしも口調も力強かった。 自ら命を絶たず、生まれ変わるたびその人生が終わるのを待つ。
 そういう方法はあった。それでいいじゃないかと、イヴを抱きしめてヴァンドールは言った。だけど、イヴはそんなにのんびり構えていられなかった。
 生まれた時には思い出さなくても、いつか必ず『イヴ』の記憶を取り戻す。胸を焦がす、それなのに自分だけのものなのかわからない、ヴァンドールへの思慕も思い出す。
 ヴァンドールに会いたい。彼のそばにいたい。何度転生しても、この狂おしい気持ちは変わらない。
 だけど、その感情が自分だけのものなのか確信が持てないのだ。ヴァンドールのそばにいたいと思いながらも、それが自分だけの望みなのかと一生涯ずっと疑い続けたら、本当に気が狂ってしまいそうだった。
 死んで、一度イヴの記憶が眠りにつくからこそ、今まで正気を保っていられたのだ。
 ヴァンドールは、そんなイヴの考えをも受け入れてくれた。イヴがそうしたいと言うのなら最後まで付き合う、と。
 だから、イヴとしての記憶を取り戻すたび、彼女はヴァンドールの記憶を持つ男を見つけ出し、手にかけてきた。
「……あと少しなのよ」
 ようやくここまできたのだ。《獣》の核は、いまや燃え尽きる直前のろうそくの炎のように弱々しい。カシュラルの人生が終わればおそらく消滅する。
 その時やっと、イヴとヴァンドールの魂はまっさらな状態に戻れる。これが最後なら、今更他の方法など必要なかった。
「そんなに」
 エムクドが表情を険しくする。
「そんなに、ヴァンドールとかいう男が好きなのか」
 ヴァンドール。その名前を聞くだけで、胸が締め付けられる。今すぐにでも会いたい。彼の声を聞きたい。イヴ、と名前を呼んでほしい。だけど――その思いは、本当にカシュラルだけのものだろうか。弱々しいとはいえ《獣》の核がある以上、その影響を受けているのではないだろうか。
 だから断言できない。今のままでは、確かなものだと言えない。
「……きっと、好きなんだと思う」
「カシュラルは、その男に会ったこともないのに?」
「会ったことはあるわ。生まれ変わるたび、ヴァンドールを見つけてきた。最期に会うのは、いつでも彼だったもの」
 試すような言い方に、カシュラルは多少語気を強くして言い返す。
「でも、今はまだ会ったことがないだろう」
「それは、そうかもしれないけど」
「君はカシュラル・サリザであって、三百五十年も前の魔術師イヴ・エミファリラじゃない。たとえその生まれ変わりだとしても、別人だ。違う人間なんだよ」
 エムクドの青い瞳が、まっすぐにカシュラルを見つめる。イヴとカシュラルは別人だと言う彼に、迷いはないようだった。
「……でも、わたしはカシュラル・サリザであり、イヴ・エミファリラでもある」
 イヴの記憶を取り戻した以上、宮廷魔術師を目指すカシュラルにはもう戻れない。肉体は違う。だけど、本質はイヴ・エミファリラであった時と何も変わっていない。
「《獣》という魔物を完全に消滅させるために、その核を自分の中に封印した魔術師でもあるの。《獣》を倒さなければ、イヴ・エミファリラの人生に終わりはないのよ」
 生まれ変わるのも記憶を引き継ぐのも、《獣》の核の影響だ。消滅しない魔物の核と結びついているから、イヴとヴァンドールは何度も転生し、記憶が消えることもない。
「――《獣》が消滅すればイヴとしての人生が終わるというのなら、ここで、終わらせよう。終わらせて、カシュラル・サリザだけの人生に戻そう」
「え。どう、やって……?」
 今すぐにでもヴァンドールを捜しに行こうとするカシュラルを引き留めているのは、エムクドだ。彼は、カシュラルが死ぬつもりでいるのを察しているはずなのに。
「消滅寸前まで弱っているんだろう、《獣》は。だったら、封印を解いて核を消滅させればいい」
 カシュラルは瞠目した。倒せないから封印したのだから、それを解くなんて考えたこともなかった。
「ぼくも手伝う。もちろん、万全を期す。ぼくら二人なら大丈夫、できるよ」
「でも、封印を解けば《獣》の体が再生するわ」
 完全に消滅させない限り、核だけからでも再生するのが魔物なのだ。
「核自体はもう弱っているんだろう。そこから再生したとしても、かつてほどの力は持っていないはずだ」
 今まで一度も思いついたことさえない方法だった。封印した直後は当然、試せるはずもない。だけど、消滅寸前の今なら、あるいは。
 《獣》は魔術さえ喰らう魔物だった。消えかけている今でもそれが変わらなかったら……。いや、《獣》に喰われないくらい大きな魔術をぶつければ、もしかしたら。
「でも……」
 すぐに試してみようとカシュラルには言えない。《獣》がどれだけ強大だったか覚えているから。
「カシュラル」
 エムクドが、カシュラルの両腕をつかむ。
「終わらせよう、全部。《獣》が消滅すれば君はもうイヴ・エミファリラじゃなくなる。魔物の影響を受けているかもしれないと思い悩む必要もなくなる。なにより、君が死ななくて済む」
 死ぬ以外の方法で終わりを迎える。一度も、ヴァンドールでさえそんなことを考えたことはないだろう。天啓を得たようだった。でも。
「でも――まっさらな状態に戻って、ヴァンドールと出会い直さないと。《獣》を消滅させるだけじゃ、まだ終わらないわ」
 イヴがヴァンドールに惹かれたのは、《獣》を封印したあとだった。それすら影響を受けていたのではないかと疑ってきた。確かめなければならないのだ、何の影響も受けていない状態でも、ヴァンドールに惹かれるのかを。
「カシュラル。《獣》が消滅したあと、また生まれ変わってヴァンドールと出会えるかどうかわからないのに、そんなことを言ってもしょうがないだろう」
 カシュラルの腕をつかむ手に、また力がこもる。しかしカシュラルが顔を歪めたのは、痛みのためではなかった。
 まっさらな状態に戻ることを望んでいるけれど、《獣》の影響をなくして果たしてまた生まれ変われるのか、その時にヴァンドールと出会えるのか、一抹の不安はずっとつきまとっていた。でもきっと出会えると信じて、今まで何度も彼を手にかけ、そのあとを追ってきたのだ。信じるしかなかった。そうしなければ、この歪んだ運命を踏みしだいて進むことなどできなかった。
「そんなこと、言わないでよ」
 エムクドの言葉は、イヴが積み重ねてきた三百五十年を否定するものなのだ。
「わたしの今までを否定しないで。そうするしかなかったんだから」
「カシュラル。過去に囚われないで君が生きている今を見てくれ――どこにいるのかもわからない男じゃなくて、ぼくを見てくれ」
 カシュラルの腕を解放し、エムクドは彼女の顔に両手を添えられる。頬を包み込まれ、エムクドに視線を固定された。
「ぼくなら、カシュラルのそばにいる。今までもこれからもずっと。どこにいるのかもわからない男を捜したりしなくていい」
 エムクドの気持ちには薄々気づいていた。だけどカシュラルにとって彼は弟みたいなもので、異性として見たことは一度もない。ヴァンドールを思い出した今はなおさら、エムクドを好きになることなど考えられない。
「好きだ。ずっと前から、好きだった」
 カシュラルの顔を包むエムクドの掌から、彼の体温を感じる。カシュラルの銀色の瞳をのぞき込む、ヴァンドールのそれとは異なる色の瞳に、浮かされた熱のようなものが宿っている。
 頬に感じるかすかな空気の流れがエムクドの吐息だと気がついた次の瞬間には、唇を重ねられていた。エムクドの唇もまた、熱かった。語った言葉以上の熱が、彼の体にはこもっているのだ。
 頬に添えられた手の一方がうなじに触れる。瞬間、カシュラルの体は震えた。嫌悪のためだったのか、そうではなかったのかはわからない。ただ、誰かにこうして触れられ口付けをされることは久しくなかった。
 いや、誰かではない。何度生まれ変わろうとも、ヴァンドール以外の男にこんなことをされたことはなかったし、許したこともなかった。
 ――ヴァンドール。
 イヴのすべてを受け入れてくれる、悲しいほど優しいあの金色が甦る。
「やめて!」
 渾身の力でエムクドの胸を押し返すと、思いの外あっさりと彼は離れた。
 カシュラルは何度も息を吸い、吐き出す。驚きと困惑で呼吸することを忘れていた。
「ヴァンドールをすぐに忘れろ、とは言わないよ。でも、ぼくのことも考えみてほしい」
「……忘れられるわけないわ。何度死んで生まれ変わっても、こうやって思い出してしまうんだもの」
 忘れられるはずがない。イヴが殺し、イヴに殺され続ける男のことを。
「思い出させているのも、忘れられないのも《獣》の核があるからなんだろう」
 エムクドの声には少しだけ、意地の悪い響きがあった。
 言い返す言葉もなくカシュラルは唇を引き結んだ。エムクドの言う通り、《獣》の核のせいかもしれない。だけど、そうではないかもしれない。今はまだそれを確かめられない。確かめるためには、カシュラルは前に進むしかなかった。
「とにかく」
 さっきまでの真剣な声音とは打って変わって、いつもの口調に戻る。
「《獣》の核はぼくらで消滅させよう。それが誰にとってもいちばんいい。そうだろ?」
「すぐに、うん、とは言えないわ」
「核が消えれば、カシュラルは自分の気持ちを確かめられる。知りたかったんだろ、ずっと、それを」
 そう。そのために、何度も生まれ変わってきた。早く終わりに近づきたくて、ヴァンドールを手にかけてきた。
「……考える時間がほしいわ。やっぱり、今すぐには答えが出せないの」
 だけど、かつて《獣》があまたの魔術師をほふったのを知っているから。消滅寸前とはいえ、踏ん切りはまだつかない。
「その間にここを出て行かれたら困るよ」
「ここまで言われたら、さすがにしないわ。大丈夫よ」
 カシュラルは苦笑した。うそではない。エムクドは、イヴもヴァンドールも考えなかった方法を提案した。死ぬなと止めた。カシュラルは、今までのカシュラルとはもはや違うけれど、弟分の真摯な気持ちを振り切れるほど薄情ではないつもりだった。


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