第一章 04
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 お茶を飲み終えるとすぐ、ナサシアと一緒に詰め所を出た。
 まだ朝といえる時間にもかかわらず、人出が多い。歩いている半分以上は旅人だろう。彼らを目当てにした様々な屋台がずらりと並び、食べ物の屋台は朝食を求める客でどこもにぎわっていた。
 結界がある街の外に行かなければ、修繕はできない。おそらく夕方まで戻ってこられないから、ギーディスたちも昼食用に屋台で総菜を買った。
 またよろしく、と威勢のいい声と笑顔の店主に見送られ、通りを進む。前後左右、どこを見てもいつも通りの平穏な光景である。一昨日の真夜中、熊のような魔物と戦ったのが嘘のようだ。
 けれど、それでいい。警備団の苦労を、街の人々が知る必要はない。
 ギーディスはそう思っていた。魔物に襲われるかもしれないという恐怖心など、日々の生活にない方がいいに決まっている。人々の安寧につながるのであれば、魔物の存在を意識させる警備団のことも気にかけなくていい。自分たちの働きをガエリアの人々が知らなくとも、平穏であるのならそれで構わなかった。
「今日中に全部見て回れるかしら」
 結界の境界まで来て、ナサシアが始める前からげんなりとした顔をする。
 おとといの魔物が最初に目撃された地点から最寄りの、結界の端である。ここを起点に、結界に綻びがないか探していくのだ。
 ガエリアの結界の大まかな構造は、おとといの簡易結界と同じである。
 魔術構成が刻まれているのは等身大の石柱で、それが十数本、ガエリアを取り囲む形で配置されている。これだけの規模となると、一人の魔術師ではとても作れるものではない。十数人で作ったと聞いている。そのため、魔術構成も発動条件も複雑で、維持するだけでも莫大な魔力が必要となる。結界の補修だけでなく、維持もまた警備団の魔術師たちの役目だった。定期的に、石柱に魔力を注ぎ込むのだ。
 ギーディスたちの担当する石柱は四本。魔物が目撃された日の数日前に補充しているので、魔力不足による結界の強度低下は考えにくい。構成に綻びができてしまい、そこから侵入したと推測していた。
 結界の要となるのは、構成が刻まれている石柱である。石柱と石柱の間にもその魔術構成は網のように広がっていて、結界としての効果を発揮している。石柱には構成が刻印されているので、この構成が綻ぶというのは滅多にない。あるのは、石柱と石柱の間、魔術師以外の目には見えない構成の方だ。魔力だけで組み上げられているので、綻びができやすい。
 もっとも、ギーディスたちの担当区域内に綻びはなくよそのところにある、という可能性もある。魔物は第二分団の担当区域外から侵入し、たまたま第二分団の区域内で最初に目撃されたのかもしれない。
 だがいずれにせよ、点検は必須だ。今回の一件はガエリア警備団中に知らされている。他の分団でも、結界の緊急点検は行われているはずだ。どこに綻びができていたのかは数日中にも判明するだろう。
 ナサシアが入隊する以前はギーディス一人で結界の維持と補修をしていた。手本となる師も切磋琢磨する仲間もなく、しかも大した魔術を使えないギーディスにとって、他人の作った魔術構成をいじるのは至難の業に等しかった。他の分団の魔術師に教えを請うたり、指南書を読んで勉強をするなどしてなんとかこなしていた。自分のせいで結界に綻びができ、そこから魔物の侵入を許して人々に害をなす――想像するだけで背筋が冷たくなるような事態を絶対に避けるため、必死だった。
 そんな時に、ナサシアが入団した。
 魔術の才がある者の多くは、訓練所へ通ったり個人に師事するなどして学ぶのが普通である。ナサシアは、ここから東へ歩いて三日ほどのところにあるベノラルという街の出身で、八歳から十七歳になる二年前まで、ベノラルの訓練所で修行していたそうだ。
 ベノラルはガエリアより大きな街で、ラトアティン伯爵の居城がある。訓練所で学ぶ魔術師で優秀な者は、伯爵に召し上げられる可能性があり、さらに優秀であれば国の中枢である宮廷に魔術師として仕官するのも夢ではない。出自が平民であっても、優れた魔術師であれば可能とあって、それを目指す者は少なくないと聞いたことがある。
 ナサシアもそんな一人で、かつては頭一つ分傑出していたらしい。だけど修行を積むうち才能は頭打ちとなり、伯爵の元に仕官するのさえ難しくなっていたたまれなくなり、ガエリアに来たのだと、いつだったか乾いた笑みと共に教えてくれた。
 ナサシア本人は自分の才能を卑下しているところがあるが、彼女は理路整然とした緻密な魔術構成を巧みに操り、他人の作ったものでも難なくいじってみせる。ギーディスからすれば、十分に優れた才能の持ち主だ。
 ガエリアにも訓練所はある。だが、ギーディスがそこに通うのは不可能だった。寄付金で運営されている孤児院にそんな余裕はない。
 だが別段、不満はなかった。自分一人だけ特別待遇で訓練所に通いたいとは思わなかったし、我流ではあるものの魔術は使えた。おかげで、孤児院を出たあとこうやって警備団に入ることもできた。
 とはいえ、実際に仕事をしていくうち我流では限界がある、と感じるようになったのは事実だ。だからこそ、そんな折りに入団したナサシアに、迷わず指南を求めたのだ。
 ナサシアはこだわりなく、彼女の持てる技術と知識をギーディスに教えてくれた。おかげで、ギーディスの魔術はいくらかましになり、単純に人手が増えたこともあって、結界の補修と維持も以前より楽になった。
「このあたりにはなさそうね」
 ナサシアが周囲を見回した。木々に視界を遮られてガエリアの城壁は見えない。風の吹き抜ける音が聞こえるくらいで、あとは静かなものだ。
 しかし、結界の構成は見えている。
 ガエリア警備団の魔術師たちの努力の結晶だ。代々受け継がれ、数え切れないほどの改良と修繕を重ねている。街を囲む結界の構成には、そのためなのか、基本的な構造は同じでも街それぞれの特徴があるものらしい。ナサシアや、他の分団の魔術師からそう聞いている。
 結界は、警備団に所属する魔術師が管理するのが一般的だが、ベノラルのように伯爵が居城を置く街では、直属の魔術師がその任に当たるそうだ。「伯爵さまのおわす街だから警備団ごときには任せられないんだよ」と皮肉っぽい口調で教えてくれたのは、ベノラルで警備団員をしていたこともある魔術師だった。
 それはさておき、ナサシアの言う通り、見える範囲内に綻びはないようだ。
「ぼやのあった場所は、雑木林のあちこちだったよな」
「ええ。特に偏りはなかったわ」
 ぼやが見つかったのはいずれも結界の内側だった。なので、何度も結界の中と外を行き来したわけではないだろう。
「地道に探すしかないな」
 結界の綻び探しは、それ以外に最善の方法がない。編み物の綻びを探すのと同じだ。違うのは、探す範囲の広さだけ。ここから城壁までは、ギーディスの歩幅で百歩ほど。城壁と結界はこの距離を保ったまま、ガエリア全体を囲っている。当然、城壁より結界の外周の方が大きい。
 ひとまず、いちばん近い石柱に向かって探していくことにした。二手に分かれてもいいのだが、大きい綻びであれば見落としはないものの、大抵は小さいので一人では見落とす可能性が拭いきれない。
 ギーディスが前、ナサシアがうしろという形で探し始め、担当区域のちょうど真ん中くらいで、真昼を過ぎた頃に見つかった。魔物が最初に目撃されたところからも、最初のぼやが見つかったところからも離れていた。
 綻びの大きさは掌ほどで、ギーディスの腰くらいの高さにあった。そのすぐ横に手を添え、魔術構成を組み立てていく。元からある構成を崩さないのはもちろん、そこに上手く馴染むように。他人が作った構成を目だけでなく感覚でも読み取り、それになじむ形でギーディスの構成を絡ませるのだ。
 この作業にはいつも、他人の履き慣れた靴を履くような違和感がつきまとう。その違和感に気を取られすぎていると、せっかく組み立てた構成が崩れてしまうから、なるべく意識から排除する。
 意識の表面に、またあの人影が浮かび上がる。いつもの、輪郭が曖昧で顔もわからない女。彼女に見られているような気がした。もちろん、そんなのは気のせいだ。
 ふっと短く息を吐いた。ギーディスの構成が、周囲の構成となじんで綻びを塞ぐ。
「上手くいったわね」
 顔を上げると、ナサシアが満足げな表情をしていた。
「結界の補修に関しては、もうわたしの補助もいらないみたい」
 彼女はたったいま塞いだばかりのところをなでた。もっとも、本当に手で触れられるわけではないが。
「先生の教え方が上手いおかげだよ」
「おだてちゃって」
 ナサシアは嬉しそうに笑った。

    ●

 街へ帰り着いたのは夕暮れ時だった。西の空が赤い。
 目抜き通りはこの時間でも朝に負けないくらいにぎやかだ。
「少し早いけど、夕食食べてから戻る?」
 食欲をかき立てるにおいがあちらこちらからする。昼食は簡単に済ませ、ずっと働きっぱなしで間食はとっていない。腹は空いていた。ついでに、喉も渇いている。
「いや。綻びは見つかったから、早く報告しておかないと。報告書は俺が書くから、ナサシアはゆっくり食べてから戻っていいぞ」
 ルフトのことを思い出す。彼はまだ詰め所にいるだろうか。今日は夜勤ではないから帰っていてもおかしくはないが、帰宅するのなら朝の時点で帰っていただろう。
「わたし一人でそんなことできるわけないじゃない。仕事終わらせてから食べに行きましょ」
 遠慮しなくていいのにと思ったが、ナサシアがいいと言うので何も言わなかった。
 ガエリアには大きな目抜き通りが三本あって、二本は東西、残り一本は南北に走っている。通りが交差する場所はそれぞれ広場になっていて、目抜き通りからあふれた露店が天幕を張り軒を連ねている。
 第二分団の近くにある広場にさしかかろうとした時、巡回中の第六小隊の二人と出くわした。
「お疲れさん。結界の補修は無事終わったんだな」
「ええ」
「ルフト小隊長はまだいるか?」
「いや。さすがにもう帰ったよ。というか、みんなで帰らせた。おまえらが戻ってきて報告を聞くまではって言ってたけど、丸二日帰ってなかったからな、あの人」
 と、一人が肩をすくめる。
「歳を考えないと。そろそろ無理ができなくなってるんだし」
 もう一人がおどけた口調で言うが、彼はルフトと一歳しか違わず、二人してまだ三十路を越えたばかりだ。
「引退をほのめかすには早すぎるでしょ」
「ナサシアたち若い衆にあとを任せて、一杯やりたいよ俺は」
「おまえ、今日夜勤だろ。飲むなよ?」
「若くないなら、酒は控えないと」
「おいおい、ギーディス。年寄り扱いするなよ」
「さっきと言ってることが違うじゃない」
 黄昏時の平穏な街の雰囲気と、結界の補修という地道で気の張る仕事が終わった安堵感、気心の知れた仲間たちとの他愛のない会話に頬が緩む。ナサシアも、声を立てて笑っていた。
 その狭間で、誰かが駆ける足音を聞いた。右手からだ。こちらの方へ近づいてくる音の軽さからすると、子供か女。広場は喧噪に包まれているのに、何故その足音を耳で拾えたのだろう。そう思った時だった。
「ヴァンドール」
 若い娘のその声は、すぐうしろから聞こえた。まるで彼に呼びかけるかのように。
 だが、ギーディスの名ではない。それなのに、彼は振り返った。誰かが間近で誰かの名を口にした。それがなんとはなしに気になったから。
 栗色の髪の女と目が合った。まっすぐにギーディスを見つめ、そらそうともしない。それどころか、彼女は食い入るようにギーディスを見ている。にらむほど強い眼差しは、しかしすぐに崩れた。彼女は嬉しそうに、それでいて泣き出しそうな顔になる。瞳には、うっすら涙さえにじんでいた。
 その目に、ギーディスは思わず見とれてしまった。その瞳は紛れもなく銀色だったのだ。触れれば切れそうな刃を思い起こさせる色合い。だがいまは涙に濡れて、柔らかく見える。
 銀色の目をした女はしっかりとギーディスを見つめたまま、口を開いた。
「ヴァンドール――」
 肩の下まで伸びた柔らかそうな髪が軽やかに揺れる。視界が一瞬、その栗色で埋まる。
「え?」
 彼女は、人目もはばからずギーディスに抱きついていた。飛びつくような勢いだったが、女は小柄だったので足下がよろめくことはなかった。
 それはいいのだが、見回すと、ナサシアや同僚たちが一様に目を丸くしいる。広場にいる人々の視線をいくつも感じる。それはそうだろう、警備団は制服を着ているから、それが数人でいればそれなりに目立つ。あまつさえ、今はその内の一人に女が抱きついている。注目を集めないはずがない。
 細い両腕をギーディスの首に絡め、首元に顔を埋め、むせび泣いているようだった。頬に触れる髪は、見た目通りに柔らかい。だが。
「ちょっと待ってくれ」
 ギーディスは遠慮がちに、女の肩をつかんだ。細い肩は泣いているせいで小さく震えている。引き剥がすのはためらわれたが、致し方ない。
 女が、呆然とした顔でギーディスを見上げる。突然のことで訳がわからないのはギーディスの方のはずなのに、涙で真っ赤になった女の目は、ギーディスと同じかそれ以上に困惑していた。
「人違いをしてないか?」
 銀色の目を持つ女を、一度見たら忘れないだろう。だが、いくら記憶をさらっても彼女に見覚えはなかった。
「え……?」
 女は長いまつげに縁取られた目を見開く。驚きを隠せていないのは明白だが、彼女が何故そこまで驚くのか、ギーディスにはわからない。もしかして本当は知っている誰かなのかと、自分の記憶に自信がなくなりそうだ。
「俺の名はギーディスだ」
「ヴァンドール、そんな……」
 形の良い眉の間に小さなしわが寄る。嬉し泣きしていた顔が、今は信じられないものを見たといわんばかりに歪んでいる。先程とは違う意味の涙が零れ出しそうだった。
 自分の一言のせいでそうなってしまったようだから、胸が痛む。だが、彼はヴァンドールという名ではない。その名前に聞き覚えはない。
「俺はギーディス・カイアーク。君は人違いをしている」
 聞き間違えられないように、ゆっくりと名乗る。
 ヴァンドールという男と自分は、そんなに似ているのだろうか。だがこの瞳を見れば、すぐに人違いとわかるはずだ。黄金色の目をした男など、自分以外にいると思えない。いるとするならば、一度お目にかかってみたいものだ。
 女は呆然とギーディスを見ていた。今にもまた泣き出しそうだ。泣きそうな顔をされるのは、見ている方としても辛い。だがギーディスにはどうしようもなかった。彼はヴァンドールという男ではないのだ。
「それじゃあ」
 これ以上はいたたまれず、打ちひしがれた表情で立ち尽くす女から目をそらし、背を向ける。
 いまだ呆気にとられている同僚の肩を軽く叩き、行こうと促した。一行は歩き出したが、同僚の一人は、悄然とする彼女を気にしているようだった。
「ギーディス、知り合いじゃないのか?」
「いいや、初めて見る。人違いだったみたいだ」
 彼女があまりにまっすぐギーディスを見つめ、ためらうことなく抱きついたから、一部始終を見ていた同僚たちが知り合いだと思ってもおかしくはない。
「本当に、知り合いじゃないのよね」
 人混みの中に紛れて見えなくなる彼女を振り返ったナサシアが、確かめるようにギーディスに尋ねた。
「ああ」
 見覚えがない。彼女が人違いをしただけだ。
 ――そう、人違いだ。
 女は確信に満ちた声で彼を「ヴァンドール」と呼び、抱きついたように見えた。揺らぎない一途さがあった。一切見覚えがないはずなのに、彼女の迷いのない言動が、ギーディスの中の何かを揺さぶる。彼女のひたむきな様子が、もしかして知っているのかもしれない、と思わせる。だが、銀色の瞳をした女を忘れることがあるだろうか。
 広場を出るまでギーディスは一度も振り返らなかったが、銀色の濡れた眼差しがいつまでも彼を捉えているような気がした。


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(C) Nagasaka Danpi 2018