全身から、ありとあらゆる力が抜けてゆく。膝から崩れ落ちたまま立ち上がれず、指先を動かす気力さえもうない。
わずかに残された気力で俺は願っていた。
いつから抱き始めたのかわからない、何度抱いたのかもわからない願い。今度こそこれが『最後の終わり』になればいいという、祈りにも似た切実な願い。
途絶えようとしている意識の中、俺はようやく女の顔を見た。
いつでも俺を殺す女。何度生まれ変わろうとも、銀色の目を持って生まれてくる俺の女。
指先から、魔力でできた糸が伸びていく。五本の糸は蔓草のように彼の体へ絡みつき、ありとあらゆる力を奪っていく。
彼の生命という力さえ奪いながらわたしは願っていた。
いつから抱き始めたのかわからない、何度抱いたのかもわからない願い。次こそ彼と『最初の出会い』を果たしたいという、凝り固まった切なる願い。
意識が途絶えようとしている中、彼はようやくわたしの顔を見た。
いつでもわたしが殺す男。何度生まれ変わろうとも、金色の目を持って生まれてくるわたしの男。
「愛しているよ、あの時からずっと。何度生まれ変わっても愛しているよ。そして、俺は『本当の心の在処』を知っている」
俺はずっと信じている。おまえへの想いは俺の、俺だけの魂の声なのだと。
だから確かめることなどなにもない。
だがおまえが望むのであれば、俺には応じる以外の選択肢はない。喜びと悲しみを持って受け入れよう。おまえの言葉を、おまえのすべてを。
「愛していたわ、あの時からずっと。何度生まれ変わっても愛していたわ。だけど、わたしは『心の本当の在処』を知りたいの」
わたしにはもうわからない。あなたへの想いがわたしの、わたしだけの魂の声なのかが。
だけど今すぐに確かめることもできない。
本当に最後の終わりを迎えてもう一度まっさらな出会いをしてやっと、わたしは素直に受け入れることができる。あなたへの想いを、あなたのすべてを。
●
「先生、さようなら」
「ああ、また明日」
魔術師見習いとすれ違うたび、元気の良い声がかかる。十人以上と挨拶を交わし、自分の控え室に辿り着いた頃には彼らのほとんどが帰ったのか、学内はひっそりとしていた。
控え室の窓からは燃え上がる太陽が見えた。雲を茜色に彩る夕陽は間もなく稜線のかなたへ隠れるだろう。帰巣する鳥が群れをなして飛んでゆく。
鳥たちの鳴く声が窓越しにかすかに届いていた。
ほかにも、俺の元に届いているものがあった。扉越しでも伝わってくる緊張感に満ちた硬質な気配。俺の魂をざわつかせる、懐かしく愛おしい不穏な雰囲気。
ゆっくりと扉が開く。
「……ヴァンドール」
呼ばれたのは『現在』の俺の名ではなく、俺の本当の、魂の名。その名を知り、呼ぶことのできる者は一人しかいない。
「久しぶりだな――イヴ」
振り向かなくとも背後に立つのが誰なのかわかっていた。この空気を連れてくる女はひとりしかいない。いつの時代でも、どんな場所にいても。
「まだ、わたしはあなたをちゃんと覚えていて、あなたもわたしを覚えているのね」
「よく覚えているよ。おまえを忘れるはずがない」
「そう……そうよね……」
イヴの声は疲れていた。俺が彼女を覚えていたこと、彼女が俺を覚えていたこと――未だ変わらぬこの現実に。
声に疲れはあっても、しかし諦観はにじんでいなかった。諦めを知らないのが彼女の変わらぬ魅力だが、それ故に俺は彼女の顔を見ることさえ満足にできずにいる。ずっと。
「残念だわ、とても」
振り返らない俺の背にイヴが掌を沿わせる。
「さようなら、ヴァンドール。今度こそ、違う名であなたを呼びたいわ」
イヴが深く息を吸う。彼女がなにをしようとしているのかはわかっている。俺は逃げはしないし抵抗もしない。これまでと同じように、イヴに殺されるのをただ待つだけだ。
「……さようなら、イヴ。今度こそ、違う名でおまえを呼びたいよ」
俺の命を奪う魔術の檻が彼女の指先から糸となって伸びて、俺の体に絡みついてゆく。
イヴ、俺のイヴ。本当は、俺の愛するおまえであれば名などなんでも構わない。おまえとまた二人、手を取り合い寄り添い合って生きていければそれでいい。
それだけでいい。
●
もう何百年も前のことだ。人々は《獣》と呼ばれる魔物の存在に怯えていた。
《獣》は闇に紛れてどこにでも現れ、巨大な口で人や家畜、時には建物さえも飲み込んだ。火を恐れず刃も通じない。毎夜現れて各地を荒らし回ることもあれば、数ヶ月数年に渡って一切姿を現さないこともあった。
武器の通じない《獣》を退治できる可能性があったのは魔術師だけだった。故に数え切れないほど多くの魔術師が《獣》に立ち向かった。魔術師たちは《獣》に傷を負わすことができた時もあったが、退治は叶わなかった。
それでも《獣》の暴挙に終わりは訪れた。二人の若い魔術師がとうとう《獣》を封印することに成功したのである。
それが、俺とイヴだった。
わたしとヴァンドールは、《獣》が猛威を奮っていた時代に別々の場所で生まれ育った。二人して年端もいかないうちから天才と呼ばれ、これこそが己の使命と《獣》の退治に乗り出した。
わたしたちは《獣》を追う旅路の中で初めて出会い、同志として共に《獣》と戦い、封印したのだ。
《獣》の存在に怯え続けた人々はわたしたちを称賛した。わたしたちの名は英雄の称号を添えられて瞬く間に広がり、各地の諸侯は恩賞を惜しまなかった。わたしとヴァンドールが妙齢の男女だったため、吟遊詩人たちはその仲について想像を膨らませ英雄譚を謡った。
人々の温かな祝福に包まれ、わたしたちは広く謡われたように愛し合っていた。
《獣》を封印した、そのあとから。
《獣》を追い詰める最中、俺もイヴもいちばんの関心は《獣》にあった。互いの身を心配することはあっても、それは同志に向ける以上のものではなかった。
《獣》の脅威が去ってようやく、ほかに関心を向ける余裕が生まれたのだ。その関心が多くの苦難を共に乗り越えてきた相手に向くのは自然のことに思えた。
鍛え上げた刃のような銀色の瞳を持つ女。俺のイヴ。
おまえが傍らにいるだけでなにもかもが満ち足り、戦いに明け暮れ殺伐としていた旅路は昔日の記憶へ変わっていった。俺たちは道中そうであったように片時も離れることはなく、あの頃とはその意味がまったく違っていた。
だが俺たちは長く時を共有することはなかった。離れてしまわないよう強く激しく求め合っていたのに、俺たちは離れ遠ざかるしかなかった。
《獣》を追っていた頃、ヴァンドールは頼もしい仲間の一人にすぎなかった。
わたしたちは幼い頃から天才ともてはやされ、《獣》を封印したあとは共に英雄と称えられた。境遇が似ていたから、強く惹かれ合ったのかもしれない。互いの手を取るまでに、長い時間は必要なかった。
日中の太陽のように輝く金色の瞳を持つ男。わたしのヴァンドール。
彼と離れることは我が身を引き裂かれるようだった。けれどそうするよりなかった。
日々を穏やかに過ごす人々を恐れさせたように、《獣》は立ち向かった魔術師たちをも恐れさせた。どんな武器も魔術も通じない。魔術構成ごと術師を飲み込むことさえあった。数多の魔術師が志半ばで露と消え、《獣》は倒すことのできない脅威と嘆き諦める者も少なくなかった。
けれど、わたしとヴァンドールはそれを封印した。
――そう、『封印』したのである。倒したわけでは、なかった。
魔物は、肉体を滅ぼすだけでなく、その核を完全に滅却しなければ甦る。
想像を絶する強さを持つ《獣》の核を消し去ることは、俺とイヴでもできなかった。あるいは、どちらかが己を犠牲にすれば果たせたかもしれない。だが、核の状態まで追い詰めてあと少しなのだから、最後まで二人でやり遂げようとイヴは言った。
《獣》を追う旅路は長く辛く、たくさんの仲間を亡くした。その上さらにどちらか一人が失われるなど、我慢できなかった。だから、《獣》の核を二つに割り、わたしたちの魂でもってその力を抑え込むという方法を取ったのだ。たとえ核の影響を強く受けてしまうとしても、他に術などなかった。
魂を引き裂かれるとはこういうことなのかと、イヴと離れた時に思った。
共に命を懸け《獣》に立ち向かったイヴは同志であり戦友だった。《獣》を封印したあとは同じ苦楽を分け合った伴侶となった。
だが人々が《獣》のいない平穏を謳歌しているのに、俺たちにはそれが許されなかった。《獣》を封印した俺たちには、決して。
人々の平穏のために俺とイヴは自らを生け贄として捧げた。そう謡った吟遊詩人もいる。
だが時が流れるにつれ、人々が《獣》の脅威を少しずつ忘れていくにつれ、吟遊詩人たちの謡う内容は歪んでいった。
英雄と呼ばれた二人の魔術師は、実は強大なその力を得るために《獣》の核を自らのものにしたのだ、と。
《獣》の核を持つ二人が再び出会う時、《獣》はもう一度この世に解放されるのだ、と。
俺たちが新たな脅威とみなされるまでに、長い時はかからなかった。
眩い金色の瞳を持つヴァンドール。
静かな輝きを放つ銀色の瞳のわたし。
それが目印となり、人々はわたしたちを見つけると恐れ戦きながら武器を手に取り向かってきた。彼らを退けるのはたやすかったけれど、そうすればますます恐れられる。だから逃げるしかなかった。
わたしたちが一緒にいれば、よこしまな企みを持っているのだと人々は疑いを深めた。だから、わたしたちは離れるしかなかった。
わたしのヴァンドール。あなたはあの澱んだ水底のような時代を、どんな思いで過ごしたのだろう。
わたしはあなたと過ごした束の間、平穏で幸せだった日々の思い出を糧に、それだけを心の拠り所に生きていた。
ただ生きるだけの時が流れていた。
生きて死ぬことだけが、いつからか目的となっていた。
核だけからでも復活を果たすのが魔物。
引き裂かれてもなお強い力を放ち続ける《獣》の核は、俺たちの魂を変質させた。再生を果たす魔物のように、何度も生死を繰り返すようになっていた。
俺とイヴは紛れもなく人間だ。何度この世に生を受けようともそれだけは変わらない。ただ成長するにつれて《獣》を封印した魔術師『ヴァンドール』と『イヴ』の記憶を、人格を取り戻してしまうのだ。
どんな名を授けられようとも、俺は『ヴァンドール』であった自分に目覚める。かつて自分がなにを成し遂げ、なにを失ってしまったのかを思い出す。
イヴ。俺の失われた伴侶。おまえの顔をもう一度見るため、俺はいつでもおまえを待ち続けていた。
核を完全に滅却しない限り復活を果たすのが魔物。
わたしたちを何度でも生まれ変わらせるほど強い力を持つ《獣》の核であっても、力を放ち続ければいずれ涸渇する。わたしたちが転生を繰り返すことで《獣》の核の力はわずかながら削ぎ落とされていく。
ならばわたしたちが転生を繰り返していけば、いずれ力を使い切った《獣》の核は消滅するだろう。その時初めて、わたしとヴァンドールは本当に《獣》を倒したことになるのだ。
どんな名を授けられようとも、わたしは『イヴ』だった自分に目覚める。かつて自分がなにを成し遂げられないまま、なにを見失ってしまったのかを思い出す。
ヴァンドール。わたしの伴侶かもしれない男。あなたと共に生と死を繰り返すため、わたしはあなたを捜し続けていた。
《獣》の脅威が去って数百年。
それを封印した魔術師も、《獣》のことさえ忘れられて久しかった。俺とイヴだけがなにも忘れることなく、《獣》を封印したことで陥った運命を踏みしだいていた。
イヴ。おまえはいつも、《獣》の力を削ぐために生と死を繰り返すしかないと言う。俺たちのこの心が、魂の叫びが、俺たちだけのものではないかもしれないと言う。
ようやく再会を果たし、おまえの顔を見ることができる時間はわずかだ。すぐに別れの時が訪れる。触れることすらままならない。
いつでも俺は、おまえを求めるこの心が本当に俺だけのものだと信じている。おまえの心も、おまえだけのものだと信じている。《獣》の核など関係ない。俺はおまえと、おまえだけと一つになりたいとずっと願っている。
イヴ。俺はおまえを愛している。再会が一瞬でも愛おしいおまえと会えるのならば構わない。それが俺の、俺だけの感情なのだと言い切ることができる。
おまえと惹かれ合ったのが、《獣》を封印したあとであっても。
《獣》を封印して数百年。
わたしとヴァンドールは数え切れないほどの転生を繰り返していた。後戻りのできない歪んだ運命をたどるうち、わたしにはわからなくなっていた。
ヴァンドール。あなたでないとわたしの心にある虚を埋めることなどできない。あなたと一つになりたいのだという声なき叫びが、轟々と吹き抜ける風となってわたしの中でこだましている。
あなたを見つけ出した時に見せてくれる優しい笑顔。それを見るといつも、いつでも、わたしは泣きそうになる。でも、ようやくあなたと会えた嬉しさのためなのか、すぐに別れなければならない悲しさのためなのかはわからない。
そもそもわたしは、あなたに焦がれるこの心が本当にわたしだけのものなのかわからない。あなたの心があなただけのものなのか疑ってしまう。一つに戻りたい《獣》の核が、引き裂かれた己の片割れを欲しているだけなのかもしれない。
ヴァンドール。わたしはきっとあなたを愛している。だけど狂おしいほどあなたを求めるこの感情がわたしの、わたしだけのものだと言い切ることができない。
あなたと惹かれ合ったのは、《獣》を封印したあとだったから。
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西の端は夜の残滓で藍色に沈んでいるけれど、かなたの水平線は白く輝き始めていた。陽光が縦に延びる雲の底を明るく照らし、頂上には影がにじんでいる。
なだらかな丘陵地に広がる畑のあちらこちらに人の姿があった。だけど誰も夜明けの瞬間など見ていない。収穫期のまっただ中で休む間もないほど忙しいのだ。
目の前には収穫を待つ赤く熟れた果実があるのに、わたしの手はさっきから少しも動いていなかった。
果実の一部は種用に取っておく。次の春、畑に蒔くのだ。そしてまた収穫の時を迎える。それをずっと繰り返してきている。
わたしもまだ、繰り返しの中にいる。
「ヴァンドール……」
農民の子として生まれたけれど、いまやわたしのすべきことはこの場所にはなかった。
イヴであることを思い出してしまったわたしのすべきことは、イヴであるわたしのすべきことはただ一つしかない。
生まれたての朝日と同じ金色の瞳を持つ男。彼を捜しに行かなければ。
ヴァンドール。わたしのヴァンドール。わたしの心はあなたを求めている。胸が焦げつくほどあなたが愛おしい。いますぐにあなたの顔を見たい。あなたの声を聞きたい。あなたがいなければ気が狂ってしまいそう。
だけどわたしには、それが本当にわたしの、わたしだけの感情なのかがわからない。もうずっと前からわからない。
だから確かめなくては。
確かめるために終わらせなくては。
終わらせるためにこの繰り返しの環から抜け出さなくては。
あなたがこの世界のどこにいても、わたしの――《獣》の核の影響を受けているかもしれないわたしの魂が、核の片割れの在処を感じている。
わたしはまた、あなたを見つけてみせる。