掌は塵と消えて〈1〉

 物の怪は人の体を食らい、心を食らい、魂を食らう。
 物の怪は闇に潜み、闇に紛れ、闇から現れる。
 人が知らぬ間、気付かぬ間に、物の怪はすぐそばまで忍び寄り、隙あらば人に襲いかかる。
 物の怪退治屋となって十年ほど。一弥(いつや)が知る限り、物の怪はそういうもので、人の身分など気にしない。
 だが、近頃、この町の一部の住人を震え上がらせている物の怪は、どうも違うらしい。
 役人の武士や、裕福な商人ばかりを襲うそうだ。その上、刀を持っているらしい。ならば盗賊ではないかと思いきや、頭には二本の角があるという。
「鬼だ! あれはまごうことなき鬼だった。喜志上(きしがみ)様を斬った後、わしを見ていた。きっと次に襲われるのは、わしだ。どうか助けてくれ!」
 一弥に物の怪退治を依頼した商人の端島(はじま)は、半分泣きながらそう訴えたのである。
 喜志上という武士が、刀を持つ鬼に襲われたのが四日前。それより前にも、武士が四人、端島の仕事仲間である商人も二人、鬼の餌食となっているそうだ。
 既に孫がいる歳で町の顔役の一人でもあるというのに、怯える姿は子供のようだった。だが、十日ほどの間に七人も死んでいては、怯えるのも無理はないのかもしれない。
 ともかく、依頼されれば退治するのが一弥の役目。物の怪を放ってはおけない。それに、気になることもあった。
 一弥は周囲を見回した。月明かりが静かに降り注ぐだけで、今のところ物の怪の気配は感じない。
 端島の眠る部屋に結界を張り、屋敷を取り囲む結界も張ってある。それで彼が安眠できているかは分からないが、少なくとも、鬼が現れても襲われることはない。
 ほとんどの者が眠りについている刻限。人気のない通りを、一弥だけが歩いていた。どこかで虫が鳴いている以外にとても静かだった。ただ、鬼が出る、という噂は町に広がっているようだったので、夜に出歩く者がいないだけかもしれない。
 ふと、異様な気配を感じた。物音がしたわけではない。首筋がざわめくような、不快な感覚。
 これは、物の怪の気配だ。退治屋として訓練されてから身に付いた感覚だった。
 それにしても、これは強い。
 一弥は唾を飲み込んだ。これほど強い気配は、滅多に味わったことがない。
 気を引き締め直した一弥の目に飛び込んできたのは、しかし、小さな物の怪だった。呉服問屋の軒先でかそこそと蠢いている、いくつかの虫が合体したような異様な姿。尋常ではないその姿こそ物の怪には違いないが、一弥が今も感じている気配の持ち主とはとうてい思えなかった。大きさは猫くらい。物の怪としては小物だ。
 あれは斥候で、本体が別にいるのかもしれない。何にせよ、物の怪ならば退治せねばならない。放っておいてもろくなことにはならないからだ。
 刀を抜こうとしたその時、ざわめく感覚が強くなった。はっとして見上げると、呉服問屋の屋根に、月を背にして、着流し姿の人が立っていた。角を生やし、刀を持つ人――いや、鬼が。
 一弥は己の刀を素早く抜いた。それと同時に、鬼が屋根から飛び降りる。
 向こうから来るならば迎え撃つまで。そう思ったが、軽々と着地した鬼は一弥に背を向け、その刀で軒先にいた物の怪を切り裂いた。体をまっぷたつにされた物の怪は、がさついた悲鳴を上げながら塵となり、消えていった。
 鬼が、同じ物の怪を倒した。それも驚きだが、それよりも一弥の視線を釘付けにしたのは、鬼の持つ刀だった。
 刀は、どろりとした緑色の光を纏っていた。見間違いなどではないことを、何度も目をしばたたかせて確かめる。
 柄を握る一弥の手に力が入る。彼の刀は、青白い光を纏っていた。
 物の怪を退治するのに、ふつうの刃物では事足りない。
 呪力を帯びたものでなければ、奴らの体に刃は届かない。呪力を持ち、それを結界としたり、武器に纏わせることができるのが、退治屋だった。
 そして、呪力は人によって違う色を放つ。一弥の場合は、青みを帯びた白だ。
「まるで月明かりのようだな」
 と、一弥の呪力を見てそう評した人がいた。その人が持つ呪力は、緑色をしていた。
 背を向けていた鬼が、ゆらりとこちらに体を向けた。刀を振り上げ、地面を蹴る。向かってくる一撃を、一弥は歯を食いしばって受け止め、全力ではじき返す。
 鬼は数歩後ろへ下がるが、すぐに踏み込み、下から切り上げてきた。一弥は後ろへ飛んで、それをかわす。
 腐った沼のような緑色の太刀筋には、見覚えがあった。いや、本当は、鬼の後ろ姿を見た時から、ある人の姿が脳裏に浮かんでいた。
 だが、溢れ出そうになる感情や声はすべて抑えつけて、己が見たものは間違いだったと否定するように、ただ叫んだ。つっこんできた鬼の左の脇腹を、一弥の刀が深く切り裂く。
 どす黒い血を流しながら、鬼は前のめりに倒れた。取り落とした刀は音を立てて地面に転がり、緑色の光が消える。
 一弥は鬼の傍らに立ち、その顔を見下ろした。月が明るいせいで、顔がよく見えた。
「い……つや……か?」
 鬼が目だけを動かして、一弥を見上げる。掠れた声だったが、覚えのある声音だった。
 ああ、もう否定のしようがない。
「どうしてこんなことになったんですか、義鷹(よしたか)さん……」
 一弥の恩人であり、よりによって退治屋の師でもある義鷹が。

〈2〉へ続く

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