忘れ得ぬもの、まだ見ぬ世界

 その感触を、生涯忘れることはないだろう。けれど――。

「火星行きが目前で、ナーバスになってるだけじゃない?」
 少し呆れた顔の同僚達に見送られ、地球行きの船に乗る。きっと仲間の言う通りだ。月生まれなのに、地球の青さに懐かしさを感じるのは、もうすぐ月さえ見えない場所へ旅立つから。
 地球出身の仲間に案内されて降り立った地球は、人工重力育ちの体に容赦ない重力を感じさせた。
 やや重い体を引きずりながら見上げた空は分厚い雲に覆われていて、呆れるほどたくさんの水を落としている。シャワーとは違う、雨の感触に全身が震えた。世界中にまんべんなく霧吹きをしたようなもやの中を歩く時には、不安を覚えた。
 海は、仮想現実と似ているようで、結構違っていた。砂浜は思いの外黒くて小石も多く、裸足で歩くと時々痛い。その足が絶え間なく押し寄せる波に洗われ、周囲の砂がなくなっていく感覚は不思議で、くすぐったかった。
「地球に残りたくなった?」
 初めてのことにいちいち声を上げる私に、仲間が笑って尋ねる。
 私は晴れた空を仰いだ。月は閉じられた空間で、火星に行ってもそれは同じ。本来、人が住める環境ではないのだ。
 けれど地球は、太陽と人を隔てるドームはない。わざわざ作らなくても安心して呼吸できる大気があり、水があり、土がある。
「――いや、火星に行きたくなった」
 地球に降り立ち、五感すべてで感じたものを、忘れることはないだろう。けれどそれは、経験の一つとしてだ。
 私は、地球を出てわざわざ過酷な環境に飛び込み、更に遠い宇宙を見据えて生きてきた人々の子供なのだと、自覚した。
 火星はようやく開発が始まったばかり。その世界を知る者は、月にもまだ少ない。
 誰もが知る世界を知った今、ほとんどまだ知られていない世界を感じたくなっていた。

書き出し:その感触を、生涯忘れることはないだろう。
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