お迎えさん/前編

 屋根の半分以上は苔むし、部外者が見れば朽ちていると思うかもしれない。だが、部外者がこんな小さな社を訪れることは、まずないだろう。普段ですら、簡単な掃除をしに来る彼以外、滅多に人が来ない。
 それでもこの小さな小さな社は、集落にとって大切なものだった。そういうものだ、と教えられてきた。
 彼が――やることといえばほとんどは掃除だが――管理の役目を引き継いだのは、二十年以上前。よほどの悪天候でなければ、毎朝訪れている。引き継いだばかりの頃は、仕事前にやらなければならないので早起きが辛かった。今は、早起きは苦にならないが、自宅からここまで来るのが少々辛い。腰は痛いし、車を降りて長くはないが階段を上らねばならないので、膝も痛む。
 そろそろ誰かに引き継がねばならない。
 その候補の顔をいくつか思い浮かべながら、ゆっくりと階段を上っていく。
 山に隠れてまだ太陽は顔をのぞかせていないが、空はもう明るい。今日も暑くなりそうだった。
 息を切らしながら、社にたどり着く。もうじっとりと汗をかいていた。首にかけたタオルで首や額の汗を拭いながら、周囲を見回す。昨日は少し風が吹いたから、落ち葉が社の屋根や縁側に――。
 汗を拭う手が止まる。社の真正面になる縁側に、場違いなほど真っ白な封筒が置かれていた。
 彼はゆっくりと歩み寄り、封筒を手に取る。
 ああ、そういえば今年だった。歳のせいか、すっかり忘れていた。
 封筒を恭しく掲げて社に一礼する。真新しい封筒の表は目映いばかりの白、裏は目にも鮮やかな赤。封筒の口は折られているが、糊付けはされていない。中には、一枚の紙が二つ折りになって入っていた。そこに、一人の名が記されている。
 それを確認して、彼は紙を封筒の中に戻した。あとで、名を記されていた人物の家に届けなければならない。
 胸ポケットに封筒を入れ、社に向かって深々と頭を垂れる。
 これが、自分の最後の大仕事になるだろう。

    ●

 天を仰げば、晴れ渡った空と共に山の端がめに入る。夏真っ盛りの今、山は一年でいちばん濃く青く、蝉の声はどこから聞こえてくるのか分からないほど。外部から集落に通じる道は二つしかなく、そのどちらも、うねうねと曲がりくねった山道だ。車一台分の幅しかない箇所も多いが、通行量はとても少ないので、それで特に不都合もなかった。村全体の人口は二千人ほどでも、広い村のあちこちに集落が分散しているので、このあたりに住むのは三百人ほど。村の総人口からすると、大きな集落だ。
 いわゆる秘境と言った雰囲気だが、それ以外には何もないので、観光客はまず訪れない。部外者も滅多に見かけない。集落に住まない人を見かけることはあるが、それは最寄り(とはいっても数十キロ離れている)の市から郵便や荷物などを配達してくる人や、ライフライン維持のために通ってくる人だったりして、要するに住人ではないけれども知っている人だ。
 こんな小さな集落でも、すれ違う人がほとんどいなくても、外出する時は皆が律儀にマスクをしている。集落には診療所が一つきり、救急車を呼んでも一時間はかかるのだ。
 そんな集落だから、住人のほとんどは顔見知り。子供の数は、小中学校合わせて両手ではちょっと余るほど。全員が、赤ん坊の頃からの付き合いだ。――由亜季(ゆあき)をのぞいて。
「そういえば今度の『お迎えさん』、有音(ありね)になったんだってね」
 夏休みが終わらず延期になった学校や、オンラインで授業をする学校もあるが、ここは普通に新学期が始まり、対面での授業だ。生徒数は少なくても教室の広さは十分、ソーシャルディスタンスはばっちり確保できる。
 いすにだらりと座ってスマホをいじりながら紗織(さおり)がそう言ったのは、昼休みだった。
「おむかえさん?」
 同じくスマホをいじっていた由亜季は、スマホから顔を上げて近くでやはりスマホをいじっていた有音を見た。
「うん。昨日、うちのポストに封筒が入ってた」
 紗織は世間話をするような口調だったが、答える有音も同じだ。まるで、今日は掃除当番だったよね、というような。
「なに、それ」
 知らないのは、どうやら由亜季だけらしい。
「え、知らないの?」
 そこで、紗織と有音がスマホから視線を外し、由亜季を見た。
「あ、そっか。由亜季は引っ越してきてまだ四年だったもんね。この集落の風習だよ、『お迎えさん』て。五年に一度、選ばれた人がお迎えして、お迎えされるの。『お迎えさん』に選ばれるのは名誉なことで、幸せなことなんだよー。有音、よかったねえ」
「まさか自分になるとは思わなかったけどね。ま、ラッキーかな」
 マスクをしていても、紗織が満面の笑みを浮かべ、有音もまんざらでもないという表情をしているのは分かった。
 ただ、それ以外は何を言っているのか、由亜季にはさっぱり分からない。
「誰を『お迎え』して、誰に『お迎え』されるの? お迎えして、何をするの? そういうお祭りか何か?」
 由亜季は四年前、田舎暮らしをしたかった両親と共に、都市部から移住してきた。十歳になったばかりの由亜季は、友人達と別れるのが悲しく、そびえる山とそれに囲まれた小さな空しかないここが寂しくて、密かに泣いたものだ。子供は少なかったが、同じ歳の紗織と、一つ年上の有音がいたおかげで、悲しさは寂しさは紛れていった。
 子供が少ないので、ここでは一つ二つの歳の差は大した垣根ではない。そして、少ない故に、友人はよりかけがえのない存在だった。
 そのうちの一人、有音は、いったい何に選ばれたのだろう。
 集落は由亜季の家族を快く受け入れてくれて、両親もうまくやっているように見える。だが、縁もゆかりもない土地にやって来たので、殊に習慣や風習にはまったく疎かった。とはいえ、奇抜なものは今でほとんどなかったが。
「お祭りじゃないよ。んーとね、そういう風習? 黒森に小さなお社があるでしょ。あそこで、『お迎え』するの」
「だから、何を?」
「さあ?」
 首を傾げたのは、その『お迎え』をするはずの有音である。
「さあ、って……」
 紗織を見ると、知らない、と首を横に振る。
 思いもかけないことを訊かれたとばかりにきょとんとする二人に、由亜季は呆れた。『お迎えさん』とやらに選ばれるのは名誉で幸せなことだと断言する割に、その詳細をまるで知らなさそうなのだ。この集落で五年に一度行われていることではないのだろうか。
 結局、有音も紗織はそれ以上のことは知らないようで、詳しいことは分からなかった。お社で何かを行うくらいなのだから、集落に古くから伝わる風習とか伝統の類なのだろう。

    ●

「ああ、『お迎えさん』? 初めて聞いたけど、このあたりに昔からある風習なんだって」
 両親とも、有音が『お迎えさん』に選ばれたのを知っていた。すでに集落のほとんどの人が知っているらしい。回覧板に書いてあったんだとか。
「今回は有音ちゃんが選ばれたんだってね。上原さん、嬉しそうだったよ」
「……ねえ、母さん。それって、誰をお迎えするものなの?」
 母は、古くからの風習と聞いて、それでもう納得してしまっている様子だった。それとも、詳細を聞いているのだろうか。
「さあ。でも黒森のお社でお迎えするそうだから、神様でしょ、ふつうに考えて」
「それが名誉で幸せなことなの?」
 それはいかにも古くさい考えに思えた。令和にもなって、神様をお迎えするのが名誉だとか。
 有音も紗織も、両親と同じくそれをまったく疑っていないようだったので、違和感があったのだ。田舎で不便と感じることも少なくはないが、それでも由亜季も有音も紗織も、ふつうの中学生だ。スマホを持っているし、それがあるおかげで、都市部で暮らす同年代との差は、昔よりは小さいはず。そうはいっても有音も紗織も都会への憧れを持っていて、古い風習をありがたがるとは思いもしなかった。
「……お迎えするだけじゃなくってお迎えされるって、紗織は言ってたよ。神様にお迎えされるってこと?」
「神様にお迎えされるんじゃないの? だから、名誉で幸せってことなんでしょ。こういう場所は、そんな風習が残ってるのねえ」
「見てみたいけど、お迎え当日は有音ちゃん以外、社に近付いちゃいけないっていうからね。残念だなあ」
 父は残念そうにビールを飲む。
「当日は、有音以外の人は何かするの?」
 回覧板で知らせるくらいだから、集落を上げての祭りでもやるのだろうか。賑やかなことがあるかもしれないと思うと、ちょっとわくわくする。
「何もしないみたい。社に近付かないようにするだけで」
 黒森の社は、一度か二度、行ったことがあるくらいだ。由亜季達の家からは離れていて、歩いたり自転車で行くには少々遠い。
「お祭りじゃないんだ」
 毎年恒例の、小学校の校庭で行われる夏祭りは去年も今年も中止になった。ちょっとでもにぎやかなことがあればいいなという期待は、どうやら抱くだけ虚しいらしい。

〈後編に続く〉

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