29.冬の足音

「いやぁ、和樹の家でゆっくりするの、すっごい久しぶりだな」
 お茶の入ったマグカップを差し出すと、武利がしみじみと言った。
 受験勉強に集中したい言うので、武利とは晩秋から会っていなかった。最後に会ったのは、地上では冬の足音が近付いていた頃。今は、その足音は遠ざかりつつある。
「武利、少しやつれてないか? 根を詰めるのもいいけど、ちゃんと食べないと、いざって時に実力発揮できないぞ」
 顔を合わせるのは、およそ四ヶ月ぶりだろうか。時々連絡は取り合っていたものの、それは文章だけであり、文面からはやつれているかどうかは分からない。
 お茶請けのお菓子も多めに出す。甘みばかり取るのも、栄養バランスが悪くはあるのだが。
「こう見えて、ちゃんと食べてたし、ちゃんと合格もしたよ。蒼平にいさんから聞いてない?」
 合格発表が昨日だというのは、蒼平から聞いていたが、結果は教えてくれなかった。万が一不合格だった場合を考えると、武利本人には聞きづらくて、気がかりなまま一日を過ごしていたところ、武利から遊びに行っていいか、と久しぶりに聞かれたのだ。
「教えてくれなかった。本人から聞いた方がいいだろうって言うから、てっきりダメだったのかと心配してた。合格、おめでとう」
「和樹と何ヶ月も会わずにがんばって勉強した俺が、落ちると思ってたの? ひどいなあ」
「なんだその言い方は……。俺と会うのとお前の受験勉強は関係ないだろう」
「つれないなあ、和樹は相変わらず。ま、いいや。ありがとう。ひとまずほっとしたよ。大学に入ったら、また勉強の日々だから、束の間の休息だけど」
 お茶を飲んでから、武利はまたもやしみじみと言う。
「……結局、最下層の学校は受けなかったのか?」
 武利は、天文学を愛する男だ。大学で専門的に学ぶならば、〈広咲〉では最下層にある学校に進学するしかない。
「うん、受けてない。俺の成績じゃ一次試験にも受からないし、最下層の大学に行くようなお金もないしね」
 受験についての話はほとんどしていなかった。和樹が話を振ると、今は現実逃避をしていたい! と言うので触れないでいた。武利は、学校や勉強の息抜きとして和樹の元にやって来るのだから無理もない。それに、同年代の多くが学生生活を謳歌する中、既に働いている和樹に気を遣っているのではないか、とも思っている。和樹は、学校へ行きたくても行けなかったわけではないので気遣いは無用なのだが、武利のそんな気持ちはありがたくもあった。
「それに、最下層の大学に行かなくても、上層でも気象の勉強はできるからね」
「気象? 天文学じゃなくて?」
 武利が気象学に興味を持っていたとは初耳だ。
「そう。気象の勉強をしてさ、卒業後は空調局の気象班で働きたいと思ってる。言ってなかったっけ?」
「いや、今初めて聞いた……」
 そして、ひどく驚いている。空調局で働きたいというのも初耳だ。
 どうして今まで教えてくれなかったのか、という思いよりも、なぜ空調局なのだ、という疑問の方がかなり大きい。気象班とはいえ、地上に出る機会はあるし、整備関係への異動だって可能性はゼロではない。和樹や、特に蒼平からは、地上がどういう場所かよく聞かされているはずだ。
 上層でも、地下にいれば安全なのに、どうしてあえて危険のはびこる地上に行こうとするのだろう。
「……なんか、和樹、怒ってる? 黙ってたのは悪かったと思ってるよ。俺たち、心友なのにさ」
「いや、怒ってないよ」
 驚いているだけなのだが、武利には怒っているように見えたのだろう。
 武利の将来の希望を聞いて、驚くと共に、気付いたのだ。和樹は、彼にはいつまでも安全な場所にいて、好きなことをいつまでも追いかけていてほしいと思っていたのだ。
 ごくふつうの生活を送る武利の存在は、普通から外れたまま戻れないでいる和樹にとって、一種の憧れであり、癒しであり、守るべきものだった。だから、いつまでもそのままでいてほしかったのだ。
 しかしそれは、和樹の勝手な思いにすぎない。武利には、自分自身で彼の人生を選ぶ権利があるのだから。和樹が口出しをしていいものではない。
「和樹や、蒼平にいさんに言ったら絶対に反対されると思ったから黙ってたんだ。案の定、蒼平にいさんは、おめでとうと言った後に渋い顔してたし……」
「怒ってないよ、本当に。驚いただけなんだ」
 和樹は慌てて言った。武利は受験勉強を頑張って、念願の大学へ合格したのだ。その喜びに水を差すような表情を、驚いたからとはいえしてしまったことを後悔する。
「そんなに驚いたの? 和樹はあまり動じないと思ってたから、意外だな」
 先ほどまではややしょんぼりとしていた武利だが、今度はニヤリと笑う。
「……どうして気象なんだ? 天文学から乗り換えたのか?」 
「乗り換えた、というのとはちょっと違うかな。これからも天文学は趣味で楽しむつもりだし」
 あぐらをかいていた武利は、足を延ばして両手を後ろにつき、天井を見上げた。
「――去年、和樹に地上に連れて行ってもらっただろ。あの時、地上があんまり寒くてびっくりしたんだ。和樹や蒼平にいさんたちは、こんな寒い中に毎日出て行ってるのかって。雨や雪が降ったら、もっと寒くなるんだろう?」
「まあな」
 塵に覆われているせいで、昼間でも地上は薄ら寒い。雨が降れば作業がしづらいし、支障が出る場合もある。それゆえ気象班の天気予報を参考にして、地上に出るのだ。そういう話を、武利は蒼平から聞いていたのかもしれない。
「天気予報の精度が上がれば、和樹たちも少しは仕事がしやすくなるんじゃないか、と思ったんだ」
「……だから、気象の勉強を?」
「俺の将来を現実的に考えた結果、それが一番だと思った」
 武利が、天井から和樹に視線を移す。彼が本当に一番勉強したいことは、きっと天文学だ。けれど、それを諦めざるを得なかった、という悲壮感はまったくない。武利の言う通り、自分にとって一番いい道を選んだからなのだろう。
「……武利がそんなに深く考えてるなんて、意外だな」
「俺が普段何も考えていない、みたいな言い方はやめて! ちゃんと考えてるんだよ、こう見えても」
 わざとなのか本気なのか、冗談めかした言い方に、和樹は吹き出した。
「……武利、この後時間、あるか? 夕飯おごるよ。合格祝いだ」
「もちろん、あるよ。やったね。いいもん食わせてくれよ」
「残念だけど、空調局はそんなに給料高くないんだよ」
「え、そうなの?」
 苦笑いする和樹に、武利が眉を八の字にした。

〈了〉

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