28.ペチカ

 部屋は閉め切られ、壁を背にして四角いストーブを置いていた。
 記録映像や写真、絵画でしか見たことがなく、もちろん使ったこともないけれど、目の前にあるそれは赤々とした光と熱を放射して、その前の床に座る二人を暖めている――ように感じる。
「本当に、暖かく感じるね」
 石油ストーブをじっと見つめたまま、花歩がしみじみと呟く。
「今更なことを言うね。ここで過ごすようになってもう何ヶ月もたつのに」
 一人分空けて、花歩の横であぐらをかいている槇は、少し呆れた声で言った。
「そうだけど、でも、ここで過ごすのは初めての冬でしょ。季節が進むと少しずつ寒くなるのも新鮮だけど、ストーブで暖まるのも新鮮じゃない? 槇君だって、冬は初めてなんでしょ?」
「うん、まあ、そうだけど」
「それとも、開発者の君には、当たり前すぎて今更感動なんてしない?」
 膝を抱えて座る花歩は、その姿勢のまま顔だけ槇に向ける。その表情は、ちょっとだけ拗ねているように見えた。
――細やかな表情の表現も、完璧ではないだろうか。
「……いや、そんなことはないよ」
 体で――仮想空間にしか存在しない体で暖かいと感じるのはもちろん、使用者の表情のささやかな変化も表現できている、その完成度は感動的だ。花歩が感じている感動とは、ちょっと違うかもしれないけれど。
 花歩と槇がいるのは、サーバー上にある仮想空間――実験都市〈零〉の中だった。七ヶ月前の四月に、被験者としての住人を受け入れて試験運用を始めた。
 槇は、試験運用期間中に起きる様々な問題点を被験者目線で収集・対応するために、〈零〉の住人として暮らしている。開発側の人間ではあるが、槇はその末端で働いているにすぎない。
 もっとも、それでも開発側の人間には違いないため、その身分は伏せておかなければならなかった――のだが、〈零〉で花歩と知り合い、親しくなるうちに、その秘密を教えてしまった。
 もちろん、花歩は軽々しく槇の身分を言いふらすような人物ではない、と思ったからだし、実際に彼女は誰にも口外していなかった。
 花歩だけでなく、今〈零〉にいる被験者である住人ならば、口が軽い者はほとんどいないだろう。
 被験者たちは〈零〉の住人であることと実験都市の存在そのものを、いかなる者にも明かしてはならないし、明かさないという誓約書を開発側と交わしているのだ。実験都市〈零〉の存在すら、今はまだ世間に公表されていない。
 開発側は被験者を慎重に選出しため、住人はまだそれほど多くない。だが、開発側が目標としていた、国内の主要地下都市すべてから、被験者を集めることができた。
 現在、地下都市間の移住は原則として認められていないし、認められた前例はかなり少ない。地下都市間の移動すら制限されているので、生まれ育った地下都市以外の人間と出会うことは、普通はほぼなかった。
 しかし、〈零〉の住人は違う。ここには、国内に点々と存在する各地下都市の人間が集められているのだ。
 現に、槇は四国にある地下都市〈伊郡(いごおり)〉の生まれだが、花歩は北海道の〈羅丑(らうし)〉の生まれだ。本来であれば、出会うはずがなかった。
 いや、今も実際に会っているわけではない。ここにいる槇も花歩も、データ上の存在――アバターだ。槇達〈零〉の開発側はアヴタールと呼んでいる。
 しかし、単なる分身ではない。アバターの見た目は本人そのものであるし、アバターが〈零〉で体験したことやここで積み重ねた記憶は、実世界で生きる本人と共有されるのだ。
 それが、実験都市〈零〉の最大の特徴である。
 アバターは本人の完璧なコピーであると同時に、もう一つの世界でもう一つの人生を送る分身でもあるのだ。そして、その記憶は完全に共有される。
 現実世界で本人――オリジナルの記憶は定期的にアバターにコピーされ(アップデートされ)、オリジナルはアバターの記憶を自身の脳にダウンロードするのだ。
 現実世界での人生を送りながら、仮想空間で違う人生を楽しめる。そして、その仮想空間には、現実世界では決して出会えない、違う地下都市の人々と出会える。
 分裂し、容易くは交われなくなった世界をもう一度、ひとつに。
 それが、この開発のコンセプトだ。今は日本国内に限定して試験運用が始まったばかりだが、いずれは全世界に広げる――それが、この仮想空間の構想を立ち上げた人物の最終的な目標である。
「でも、よく考えたら、ストーブの暖かさに感動するのは、今更かもね」
 花歩が笑って、座ったまま槇との距離を詰める。彼女は手を伸ばして、槇の頬を触る。
「こうして、体温も肌の質感も、わたしは感じるもの」
 槇もまた、己に触れる花歩の指先を、その温もりを感じていた。
「……ストーブの再現だって、感動ものだよ」
 槇は、頬を撫でる花歩の手に、自分の手を重ねる。
「〈零〉では現実を限りなく本物そっくりに再現することも目指している。ストーブの熱は、物理現象の再現だ。だから、ストーブに近付けば熱くなるし、近付きすぎれば火傷をする。逆に、離れれば少し寒くなる。ここでは、それがきちんと再現されているんだ」
「槇君の仕事は、物理現象の再現だったっけ」
「そう」
「じゃあ、完璧ね」
「どうかな。〈零〉で色々と見て回っているけど、まだ完璧じゃないことの方が多いよ。ストーブとこの部屋みたいに、小さな現象は完璧に再現できていても、規模が大きくなるとやっぱり難しい。気象現象とまでなると、改良の余地しかない」
「お仕事熱心だねえ、槇君は。いっつもうまく再現できてるか考えながら、ここで過ごしてるの?」
 花歩が呆れた顔をして、それからぐっと近付けてくる。
 そんなことはないよという言葉は、花歩の口の中に吸い込まれる。両方の頬を花歩に挟まれた槇は、目を閉じて彼女にされるがままにした。
 柔らかな唇が、ゆっくりと離れる。けれど頬は挟まれたままで、間近に花歩の顔があった。
「――今も、仕事のことを考えていたの?」
 挑発的な表情と声に、槇は喉を鳴らした。
 考えているが、考えられなくなる。それが、正確なところだろう。いや、はじめから考えてはいないかもしれない。
 ここでの出来事を深く考えるのは、現実の世界にいる自分――オリジナルの、それこそ仕事だ。オリジナルとは定期的に記憶を共有するから、〈零〉にいる自分も、常に仕事のことを考えているような気になってしまう。アバターとオリジナルの境界は薄い。もっとも、それがこの世界の狙いではある。オリジナルとアバターが別々の存在であっては、二つの世界で生きる意味がないのだ。
 槇が感じる花歩の温もり、花歩が感じる槇の温もり。それが本物の二人にどれだけ近いのか、実際には会えないので、残念ながら確かめようがない。だが、彼女と二人で得られる悦びは、紛れもなく本物だった。

「ペチカって知ってる?」
 ストーブから放射される赤々とした光が、花歩の肌をうっすらと赤く染めている。槇は、隣に横たわって頬杖をつき、花歩の顔を、肌を見つめていた。
「暖炉みたいなやつだろう。暖炉がある家も、〈零〉にはあるはずだよ」
「暖炉みたいだけど、暖炉よりももっと部屋全体を暖める仕組みなんですって。まだ地上で人間が暮らしていた頃、北海道でもペチカを使っているところはあったみたい」
 花歩によると、ペチカは長い煙突を壁の中に埋め込み、その煙突を通る熱で壁が暖まる仕組みになっているらしい。離れれば暖かさが遠ざかるストーブや暖炉と違って、部屋全体を暖める暖房だそうだ。
「〈羅丑〉にはあるのかい?」
「まさか。今は〈羅丑〉も、冬でもコートなんて着ないよ。わたしも持ってないもの。子供の頃、学校で習ったの」
「ふうん」
〈零〉の冬の寒さは、かつての北海道の冬を再現したものではない。創始者の居住地である四国の気候を元にしている。いずれは〈零〉の中で様々な気候を再現するが、それは本格運用が始まって、更にその後になるはずだ。
 その時には、ペチカも〈零〉に現れるだろう。今と同じように、花歩とペチカの暖かさを楽しめるだろうか。そうであってほしい、とは思う。
「……わたし、もうすぐ、結婚するよ」
 花歩がゆっくりと上体を起こした。頬杖を突いたままの槇は、視線だけを彼女に向ける。
「今頃、現実世界のわたしは、相手と結婚についての条件の、最終的な確認をしてるよ。明後日、記憶共有するから、その時にはどんな条件で結婚するか、分かるはず」
〈零〉は今はまだ公の存在ではないから、ここで知り合った人と公的な婚姻関係を結ぶことはできない。公には、知り合ってすらいないのだ。
「……おめでとう、と言うべきかな」
 いずれ、花歩は槇ではない誰かと結婚するだろうと覚悟していた。その覚悟ができていたおかげか、あるいは〈羅丑〉の特殊性のせいか、思っていたよりもショックは小さかった。
「どうかな。おめでたくはないかも。〈羅丑〉では義務だからね」
 花歩はあっさりとした口調だった。望んでいる結婚ではないが、避けられないものでもある、と彼女もまた、槇よりもずっと前から――〈羅丑〉の学校で、ペチカのことと同じように、教えられてきたのだから。
 地下都市間の移住は原則認められず、人々は同じ都市内の人と子孫を残さざるを得ない。ほとんどの地下都市では、当人同士の自由な婚姻が認められている。だが、遺伝的多様性が損なわれることを危惧した一部の地下都市では、住民のDNA情報に基づく婚姻しか認められていない。〈羅丑〉は中でも先鋭的で、遺伝的多様性と人口を維持するため、生殖可能な男女はDNA情報に基づく婚姻と、子を二人以上もうけることが義務とされている。
 ただ、婚姻後に同居するかしないか、自然妊娠にするか代理出産にするかなどは当人同士の話し合いで決めるという。子の養育についても、二人で育てるか一人で育てるかは話し合いであり、たとえ一人で育てることになっても、公的機関から十分な支援があるので難しくはない。そして、条件がどうしても折り合わなければ、新たに選出した相手と改めて婚姻に向けた話し合いをするのだ。
〈羅丑〉にいる花歩は、第一候補の男の印象がそれほど悪くなかったので、婚姻に向けた話し合いを進めていた。それは、〈零〉にいる花歩から、一月ほど前に聞いていた。
「自然妊娠は絶対に嫌、と相手には最初から言ってあるから、人工授精か、代理出産になるでしょうね。お金の問題で人口授精かも。一緒に住むのも無しね。他人がずっと家にいるのって、わたし、耐えられない」
 花歩はため息混じりだ。義務だから嫌々やっている、というのは明らかだった。
「……子供の養育はどうするんだ?」
「それなのよ。向こうも、できれば一人でのびのび暮らしたいって人だからね。でも、彼の親は孫を楽しみにしてるらしいから、彼の親に養育してもらうかも。わたしは養育費を出すだけ。それで義務を果たせるなら、ま、いいかって感じ」
 結婚の形も家族の形も、地下都市によって多少の違いはあるが、やはり〈羅丑〉ほど特殊なところはないと、槇は思う。結婚についても子供についても、あまりにも事務的で面食らう。
「それで、槇君は、これからもわたしと一緒にいてくれる?」
 さっきまではどこかうんざりとした口調でさえあった花歩が、ちょこんと首を傾げる。
「――もちろん」
 槇も上体を起こした。ずっと頬杖を突いていたので、その腕が少ししびれていた。
「安心した。花歩がそう言ってくれて」
 花歩は返事をする代わりに満面の笑みを浮かべ、槇に抱きついた。
 本物の花歩に会うことはかなわなくとも、〈零〉には限りなく本物である花歩がいる。
 出会うはずのなかった彼女を、どうして手放すことができるだろう。
 槇は彼女の体に腕を回し、しっかりと抱きしめた。

 頭部をすっぽりと覆うヘッドギアを外して、テーブルの端に置いた。ヘッドギアには太いケーブルが数本あるし、それ自体が結構な大きさなのだが、そこがすっかり定位置となってしまった。
 このヘッドギアを通して、〈零〉の住人である自分のアヴタールと記憶を共有するのだ。被験者達には、十日から二週間に一度、施設を訪問して記憶共有してもらうようにしている。
 しかし、開発者の一人である槇――真姫(まき)は、毎日記憶共有している。開発者の特権であり、毎日行うことの身体的負担を知るためでもあった。
 椅子の背もたれを起こして、真姫は自分の掌を見つめた。
〈零〉で抱き合った花歩の感触は、この掌にも宿っているように感じる。アヴタールである槇と毎日記憶を共有しているせいか、それとも感覚の再現と記憶という情報共有が完璧なのか。他の開発者達も〈零〉にいるから、彼らと議論しなければならない。
 掌から、自分の体全体に視線を移す。
〈零〉の被験者達は、現実と同じ姿形のアヴタールで過ごしている。一人で二つの異なる人生を送る、という意味では、アヴタールの造形は被験者の好きに任せるのが正解だろうが、今はまだ試験運用段階であり、開発側の負担を減らすため、現実と同じ外見としている。
 けれど、槇は違う。これもまた、開発者の特権だ。現実の真姫の体は、どこからどう見ても女性だが、〈零〉の槇は男性体だ。
 真姫は女としての自分に違和感があるわけではないが、違う人生を自由に選べるならば、男として過ごしてみたいという思いもあった。それで、アヴタールの造形担当に頼んで、槇の外見を作ってもらったのだ。
 担当者ははじめは渋い顔をしていたが、たまたま創始者の耳に入った。すると、現実とアヴタールの性別の違いがどういう影響を及ぼすか見てみたい、といって、特別に許可してくれたのだ。
 槇という男性として〈零〉で過ごすのは、新鮮で刺激的だ。花歩との出会いと彼女の存在そのものが、その最たるものだった。真姫の人生だけでは得られなかったものが、〈零〉にはある。この開発に携われてよかったと心底思う。
 ただ、単純に喜んでばかりもいられない。槇の存在は特例なのだ。創始者には、定期的な報告書提出を求められている。
 多少ぼやかしているが、花歩との関係など、プライベートな内容も多分に含まざるを得ないので、この報告書は創始者と他数人以外には非公開であり、研究に使用する際はプライバシーに最大限配慮する、という約束だ。
 そもそも報告書を作成する、という事務作業の億劫さもあってあまり気が進まないが、自分のわがままを聞いてもらった手前、さぼるわけにもいかない。
 ただ、花歩への罪悪感は少しつきまとう。彼女は槇が現実でも男だと思っているだろうし、二人の関係について開発側に報告されているとも知らないだろう。
 前者はともかく、後者は絶対に知られてはいけない。
 槇というアヴタールにしたことへの後悔と、しかし槇でなければ花歩との出会いもなかったであろうという思いは、常に拮抗している。
 いつか、花歩に真実を話さなければいけない時が来るかは、まだ分からない。いつか話さなければならないだろう、とも思う。
 けれどそれ以前に〈零〉が試験運用段階で終わってしまえば、花歩とは会えなくなる。
 そうならないために、真姫はしっかりとした報告書を出さなければならないのだ。
 リクライニングを起こして、真姫は端末の電源を入れた。

〈了〉

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