27.銀の実

「お疲れさまです。お先に失礼します」
 個人端末の電源を落として席を立ったところで、二つ隣の席で作業報告書を書いていた蒼平に呼び止められた。
「今度の日曜、非番だよな?」
「はい」
「何か予定はあるか? なければ、うちに来てほしいんだ」
「大城さんの家に、ですか?」
 和樹と蒼平の間の席に、今は人がいない。蒼平はキャスター付きの椅子を滑らせ、和樹のそばにやってくる。
「ここでの生活にも仕事にも、そろそろ慣れてきた頃だろう? 少しは仕事以外のことを考える余裕もできたんじゃないのか?」
「ええ、まあ、多少は」
 蒼平の意図するところがぴんとこないが、どうやら何か気を使ってくれようとしているらしい。
 秋香を失った和樹にとって、蒼平が仕事の面でも生活の面でも、もっとも頼りになる人物だ。秋香を亡くした直後は特に、蒼平がいなければ、何をすればいいのかも分からなかった。
 その秋香と蒼平は、かつて恋人同士だった。妻を亡くした蒼平は、秋香に同僚以上の特別な感情を持っていたようで、そのせいなのか、和樹の世話をあれこれ焼いてくれる。
 蒼平によると、秋香に頼まれたからでもある、ということだが、かつての恋人に何ら未練を残していなさそうだった秋香が、そんなことを頼むのだろうか。
――頼んだのかもしれない。頼むわけがない、と強く断言できるほど、和樹は秋香という人間を知ることができなかったから。
「会わせたい奴がいるんだ」
「会わせたい奴? 俺に?」
「そう。俺の従兄弟で、和樹と同い年なんだ」
 彼にそんな歳の離れた従兄弟がいたとは初耳だ。もっとも、蒼平と知り合ってからまだ半年も経っていないので、初耳であることの方が多いのだが。
「――友人にどうかな、と思って。身内びいきではあるが、いい奴なんだよ」
 日々を過ごすのに精一杯であり、職場では和樹が最年少だ。一番歳が近い人でも五歳くらい離れている。そしてなにより、昔からの知り合いは一人もいない。まして、同年代の知人友人は皆無だ。既に働いている和樹は、学校へ行って友人を作る機会もない。
 それを蒼平は気にしているのだろう。
「……ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ、俺。大城さんがせっかく気を使ってくださったのに、悪いですけど」
「……そうか。お節介を焼いて、俺こそ悪かったよ。お疲れさま」
「すみません、お疲れさまです……」
 小さく会釈すると、和樹は更衣室へ向かった。
〈青滝〉にいた頃は、普通に友人たちとつるみ、ふざけ、笑い合っていた。それがもう二度とできなくなるなんて、皆で地上に出た時でさえ思っていなかった。
 突然失われたものがあまりにも多すぎて、心の中にできてしまった隙間を埋めようとしても、うまくいかない。埋めてはいけないのではないか、とさえ和樹は思っていた。〈青滝〉を知るのは、もはや和樹しかいない。〈広咲〉で新しい思い出をどんどん作っていけば、それだけ〈青滝〉での思い出は薄れ、いずれ忘れてしまうのではないか。
 それが、怖かった。

 普段着に着替えて三四部の建物を出た和樹は、そのすぐ脇にある植え込みの縁に、小さな女の子が座っているのを見つけた。黒く艶やかな髪を、左右の耳の上でくくっている。歳は四、五歳くらい。近くに保護者らしき姿はない。そもそも何故こんなところに座り込んでいるのか――いや、どこかで見たことがある気がする。
「あ!」
 立ち止まった和樹に気付いた女の子が、明るい声を上げて立ち上がる。その拍子に、ちりんと軽やかな鈴の音がした。よく見れば、髪の毛をくくっているゴムに、小さな銀色の鈴がついている。
「かずきおにいちゃんだ!」
 女の子が嬉しそうな顔で駆け寄ってくる。鈴が小さな音色ながらにぎやかに鳴り、女の子の動きに合わせて揺れる。
「蒼乃ちゃん」
 和樹はしゃがんで、目線の高さを合わせる。蒼平の一人娘の、蒼乃だった。
 彼女に会ったのは数度だけだが、和樹をしっかりと覚えていたらしい。
「かずきおにいちゃん、こんにちはー」
「こんにちは。蒼乃ちゃんは一人? おじいちゃんやおばあちゃんと一緒じゃないの?」
 蒼平が仕事へ行く時は、保育園に預けているはずだ。その後は、蒼平の両親が迎えに行き、両親宅で、蒼平が迎えに来るのを待っている、と聞いたことがある。
「あのね、パパをおむかえにきたの!」
「そうなんだ。えらいね」
 蒼乃の頭を撫でつつ、和樹は周辺を見回す。蒼平の両親らしき姿は見当たらない。どうやら蒼乃は、一人でここまで来たようだ。
「パパはまだおしごと?」
「うん。だから、蒼乃ちゃんが迎えに来たと教えないといけないね」
 和樹は蒼乃の手を引いて、すぐそこの空調局へ戻る。来客用のスペースがあるので、そこのソファに蒼乃を座らせて、入り口の警備室に声をかける。顔なじみの警備員に事情を話して、蒼平に連絡を取ってもらった。
「替わってくれってさ」
 警備員から、受話器を差し出される。
「替わりました」
「和樹、蒼乃はそこにいるのか!? 一人で来たって本当か!?」
 先ほどとは違い、電話口でも蒼平が焦っているのが分かる。
「はい。そうみたいです」
「すぐに行くから、悪いけど、ついていてもらえるか?」
「ええ、もちろんです」
 ありがとうとか言ったようだが、声はだいぶ遠くて、直後に電話は切れた。急いで席を立ったのだろう。
 受話器を警備員に返してから、蒼乃の待つソファに戻る。
「パパはもうすぐ来るから、あとちょっと待っていようね」
「うん」
「蒼乃ちゃん、一人でここまで来たの?」
「そうだよ。えらい?」
「うん、えらいね……」
 蒼平を迎えに行くと、祖父母に言ってから来たわけではないだろう。蒼乃がいないと気付いた祖父母が顔を青くして探し回っているかも知れないと思うと、彼らが気の毒だった。
「蒼乃!」
 警備室の脇に、職員用のゲートがある。そのゲートを壊しそうな勢いで、蒼平が飛び出してきた。
「あ、パパ!」
 足をぷらぷらさせていた蒼乃が、ソファから飛び降りる。小さな鈴がまた鳴った。
「パパ、おむかえにきたよ。おかえりなさーい」
 蒼乃は無邪気な笑顔で、蒼平に抱きついた。
「ありがとう、ただいま……」
 娘を抱き留めて、蒼平が深々とため息をつく。それから、和樹を見た。
「帰り際に、たびたび悪いな。助かったよ」
「いえ、俺は何も。それより、おじいさんたちが心配してるんじゃないですか?」
「おふくろに連絡した。蒼乃がいなくなったと大騒ぎになってたらしい。まったく、人騒がせな娘だ」
 だっことせがむ蒼乃を抱き上げるが、その蒼乃は、自分のことを言われているとは思っていない顔で、にこにことしている。
「パパ、はやくかえろー。あーちゃん、おなかすいた」
「だめだ。武利がここへ来るから、それまで待ちなさい」
「えー。もうかえろーよー」
 蒼乃が騒ぎ始めたので、抱え上げたまま、蒼平は空調局の外へ出た。和樹も一緒に外へ出るが、何となく帰るタイミングを逃してしまった。
「……あの、誰か来るんですか?」
「俺の従兄弟。蒼乃の相手をよくしてくれてるんだ。俺の所へ行ったかも知れないから空調局へ行く、と言い残して出たらしい。何も持たずに出て行ったから、連絡が取れない」
 蒼乃が見つかったという連絡もできず、途中ですれ違ってはいけないので、ここで待つしかないということだった。
「和樹。帰っていいんだぞ」
「だめー! かずきおにいちゃんもいっしょがいい」
「蒼乃!」
「いいですよ、用事があるわけでもないですから」
「パパ。あーちゃん、かずきおにいちゃんにだっこしてもらう」
 蒼平が咎めようとする前に、和樹は蒼乃に手を伸ばした。
「いいよ。おいで」
「……悪いな、今日は本当に」
 蒼乃はご機嫌だが、娘を和樹に渡す蒼平は、仕事では見たことがないほど申し訳なさそうな顔をしていた。今はすっかり一人の父親の顔であり、和樹は思わず笑った。そして、ふと、自分の父親を思い出して、胸が痛む。
「和樹。疲れてるなら、無理しなくていいから」
 表情に出てしまったのだろう。しかし、蒼平は、蒼乃をだっこしていて疲れたと思ったようだ。
「大丈夫ですよ」
「そうか?」
 蒼平が首を傾げたその時だった。
「蒼平にいさああああん!」
 道の向こうから叫ぶ声が聞こえた。見れば、和樹と同じ歳くらいの少年が一人、慌てふためいて走ってくる。道行く人たちは、叫びながら走る彼を怪訝そうに見ているが、少年はお構いなし――いや、構う余裕がないようだった。
「蒼平にいさん、大変だよおお! あーちゃんが、あーちゃんがあああ――そこにいる!?」
 和樹たちの手前十メートルほどから、少年の足はだんだんと遅くなり、目の前まで来て立ち止まった。ここまで全力で走ってきたのか、額には汗が浮かび、肩で息をしている。
「たけおにいちゃん、どうしたの?」
「あーちゃん……蒼平にいさんのところに行ってたの?」
「うん、そーだよ!」
「よかったあぁぁ」
 力尽きたのか安心したのか、道路であるにも関わらず、彼はぺたんと座り込んだ。
「武利、心配かけたな。悪い」
「心臓が止まりそうだったけど、無事でホントよかったよ」
 ずり落ちそうな眼鏡を指で戻し、顔を上げて少年は笑った。
 蒼乃が下りたがったので、和樹は彼女を下ろした。皆を心配させた女の子は、そんなことなど何も知らないという顔で、彼女を捜して走り回っていたであろう少年の頭を撫でて、ねぎらっている。少年はそれに素直に応じていた。
「俺の従兄弟の犬飼武利だよ」
 つまり彼は、蒼平が「会わせたい奴」と言っていた人物だ。
「武利。彼は、後輩の砂上和樹だ。蒼乃を見つけて俺に教えてくれて、今まで一緒に待っていてくれた」
「それはとんだご迷惑を……。蒼平にいさんとあーちゃんが、いつもお世話になってます」
 武利は立ち上がって、蒼乃をだっこする。
「犬飼武利です。蒼平にいさんから砂上君のことは聞いてるよ。今度の日曜日に会う予定だったけど、ちょっと早くなったね。よろしく」
 屈託のない武利の笑顔に、和樹は目をしばたたかせる。蒼平が、和樹のことをどう伝えているのかは分からないが、少なくとも、初めて会った時の恭子のような反応ではないことにほっとした。
「――砂上和樹です。こちらこそ、よろしく」
 同じ年頃の誰かと話をするのは、ずいぶんと久しぶりだった。笑顔は、もしかしたらぎこちなかったかもしれない。だけど、武利は相変わらずにこにことしていたし、蒼平も嬉しそうだった。
「パパ、たけおにいちゃんきたからかえろう」
 武利にだっこされたまま、蒼乃が蒼平に言う。
「その前に、和樹お兄ちゃんにちゃんとお礼を言いなさい」
「かずきおにいちゃん、ありがと」
「どういたしまして」
「じゃあ、砂上君、また日曜日にね」
 武利が蒼乃をだっこし直す。その弾みに、銀色の鈴がちりんと鳴った。
 ふと、その小さな鈴が銀色の木の実のようだ、と思った。
 実があれば、そこから新たな何かが生まれる。芽生える。
「――うん、また、日曜に」
 できてしまった隙間は、すぐには埋められない。
 だけど、その縁に新しいものを置くくらいは、自分自身に許してもいいのかもしれない。

〈了〉

コメント

タイトルとURLをコピーしました